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ここでは、オオクニヌシの意外な側面が垣間見られます。オオクニヌシのミコトといえば、国づくりに励み、たくさんの女神と交際し、福よかで、なごやかな容貌(ようぼう)の神様というイメージです。
しかし、大原郡に出てくるオオクニヌシとその伝承は、戦うオオクニヌシといったイメージなのです。しかも、その伝承は、今の加茂町、木次町に残され、当地斐川町の仏経山から大黒山に連なる山なみの裏側ともいえる地域に残されているのです。『出雲国風土記』に書かれているのは、どういったものでしょうか、一緒に考えてみましょう。
まず、宍道町と斐川町の境に当たるところ、まさに大黒山の裏側に、屋代郷(やしろのさと)があったとされています。『出雲国風土記』には、次のような記事があります。
・・・『天の下をお造りになった大神が、的(まと)置きの盛土を立てて矢を射られたところだ。だから矢代という。』(荻原千鶴 訳)・・垜(あむつち)とは、射的場のことをいうとされています。
次に、屋代郷の東となりに屋裏郷(やうちのさと)があります。そこの記事は、・・・『天の下をお造りになった大神が、矢を射立てさせなさったところだ。だから、矢内という。』(以下、同上)
つまり、屋代郷、屋裏郷で、オオクニヌシは的(まと)や矢を蓄え置いて、矢を射て戦闘の訓練をしていたという事になります。なぜ、この場所だったのでしょうか。大黒山のふもとでも良かったのではないでしょうか。
さらに、来次郷(きすきのさと)には、次のような記事があります。
・・・『天の下をお造りになった大神がおっしゃったことには、「八十神(やそかみ)は青垣山(あおかきやま)のうちには、いさせまい」とおっしゃって、追い払いなさったときに、ここまで追って追いつき(きすき)なさった。だから、来次という。』
この来次郷には、「城名樋山(きなひやま)」という山があったとされ(今もありますが)、その名の由来は、『天の下をお造りになった大神大穴持命が、八十神を討とうとして城(砦・とりで)を造った。だから城名樋という。』とされています。
このように、オオクニヌシは大原郡で戦闘の準備をし、実際に戦闘をしたのでしょう。それは、オオクニヌシの勝利に終わったと考えられます。それを示すのが、神原郷(かむはらのさと)の記事ではないかと思うのです。
そこでは、・・・『天の下をお造りになった大神が神宝(みたから)を積んで置かれた所だ。それで神財(かむたから)の郷というべきなのだが、今の人はただ誤って、神原の郷といっているだけだ。』とされています。
さて、ここで最初の疑問にもどりましょう。
なぜ、オオクニヌシは大原郡で城・砦(とりで)まで造って八十神と戦ったのでしょうか。
私は、オオクニヌシの本拠地が仏経山から大黒山にいたる山並みと、その前面に広がる斐川平野だったからだと思うのです。
1.そこが本拠地とすると、その背面(南側)にあたる大原郡をきちんと押さえておかないと、安心して暮らすことは出来ません。山を越えて 八十神の誰かが攻めて来るかもしれません。
2.また、大原郡から中国山地の奥へと続く地域には、斐川地域にはない様々な山林・鉱物資源(大木、砂鉄、銅など)が豊富にあります。
3.しかし、大原郡には多くの川筋があり、その川筋(三刀屋川、赤川、海潮川、斐伊川本流など)ごとに、有力な首長がいたことでしょう(八十神たち)。これらの首長たちは、斐川平野にいるオオクニヌシを絶えずおびやかすのです。
4.そこで、オオクニヌシは、「八十神(やそかみ)は青垣山(あおかきやま)のうちには、いさせまい」として、それらの大原郡にいる多くの首長に戦いを挑み、出雲の支配・統治を確実なものにしたのです。
実は、オオクニヌシが出雲の支配者・王になるために八十神と戦ったことは、『古事記』の次の記載からも推測できます。
『古事記』には、オオクニヌシがスサノヲからの試練を乗り越え、スセリヒメと共に、スサノヲ(根の国)から去るときに、スサノヲが次のように言ったとされています。
・・・『小せがれ(オオクニヌシのこと)よ、なんじの手にせるその生太刀(いくたち)、生弓矢(いくゆみや)をもって、なんじが異腹の兄弟(八十神)どもをば、坂の尾に追い伏せ、河の瀬に追い払って、これを打て。おのれ大国主神となり、わがむすめスセリヒメを妻とせよ。ところは出雲なる宇迦能山(うかのやま)のふもとに、太柱ふかく地の底の石根(いわね)を踏まえ、氷椽(ひぎ)たかく空の雲をあざむき、宮をつくり、世をしずめて、そこに居れ。こやつ(オオクニヌシ)よ。』(石川淳 訳)・・・『出雲国風土記』の大原郡の記載と似ていると思われませんか?
付録・・・ここから、考えられること。
1.荒神谷遺跡の358本の銅剣は、斐川地域を本拠地とするオオクニヌシの真の祭器・神宝だったのではないでしょうか。
2.大原郡の神原郷に積んだとされる神宝は、大原郡の八十神に勝利した時の八十神たちの宝器であり、オオクニヌシの戦利品だったのではないでしょうか。
3.同じく、加茂岩倉遺跡は、屋代郷に当たるところになり、矢櫃神社(やびつじんじゃ)もありますが、そこの近くで発見された39個の銅鐸は、八十神たちが大原郡で祭器として使っていたものではないでしょうか。
などなどですが、皆様はどのように想像されるのでしょうか。
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