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『出雲国風土記』神門郡の条に、次のような記述があります。
『古志の郷 即(すなわ)ち郡家に属(つ)けり。イザナミ命の時、日淵川(ひぶちかわ)を以(も)ちて池を築造(つく)りき。その時、古志の国人等(くにひとら)、到来(き)たりて堤(つつみ)を為(つく)りき。即(すなは)ち、宿(やど)り居(ゐ)し所なり。 故(かれ)、古志といふ。』
つまり、古志郷の地名の由来は、古志の国の人たちが来て、堤を造ったが、その後そのまま住み着いたので古志と呼ぶようになったというのです。とても具体的な記述です。
『出雲国風土記』の伝承には、冒頭の国引き神話に「越の国から引いた岬」が出てきますし、さらに、オオクニヌシが「越の八口を平らげた」という伝承もあります。両方とも出雲東部と関係しています。さらに、『古事記』には、オオクニヌシと越のヌナカワヒメの伝承が歌謡をつけて麗しく語られているのです。
しかし、そうしたことから推測される出雲と越の交流関係を肯定しても、ではなぜ、出雲の西部の古志郷に「古志の国人等」が来て、「堤」を造ったのか、ただ交流や関係があったというのでは何も解き明かされていないと同じことです。
いくつかの見解があります。
まず、作家の黒岩重吾さんの指摘です。黒岩さんは、「出雲勢力の越中進出について」という論文を寄せていらっしゃいます。
その中で先の古志郷の記述を引き・・・『これは出雲勢力の越進出を意味すると同時に、越の住人が連れてこられ、労役に服したことを意味している。古志郷とある以上、かなりの越の住人が連れてこられたのであろう。史実に忠実な伝承を記述したと考えてよい。』・・・とされています。
しかし、そんな時代にはるばる越から人が大量に連れてこられるものなのでしょうか。ところが、思い出すのは『常陸国風土記』の記載です。そこには、・・・『常陸の国で退治された「佐伯(さえき)の国巣(くず)」たちは、西国へ連行され、播磨、阿波、讃岐、豊後などで採鉄させられた』・・・とあるのです。
常陸という遠い東国から、大和の勢力に退治された人たちが、播磨、阿波、讃岐、豊後という西国にはるばる連れて行かれ、しかも、「採鉄」という労役に従事させられているのです。そうであるならば、黒岩さんが指摘されるように、出雲が越を退治した(進出した)際に、そこの人々を連れて帰り、堤の築造という労役に従事させたということも、あながち荒唐無稽なこととはいえないように思われます。
しかし、もっと別の見方もできます。「交易の見返り」あるいは「技術供与の見返り」として差し出された人々だったのではないかという考え方です。
交易には見返り=対価品が必要です。出雲には、豊富な農業産物や漁業資源があります。そうしたものが、見返り=対価品になるはずはありませんでした。また、玉製品特に勾玉のヒスイなどは貴重品ですが、越地方の一部でしか採れず、また生産できなかったのです。
そこで、見返り=対価品となったのが、「人」だったのです。「人」が献上品・対価品などになるのは、古代では珍しくありません。『後漢書』には、倭国王帥升(すいしょう)らが生口(せいこう)160人を献じたとあり、その後、『魏志倭人伝』によれば倭王卑弥呼も239年に魏の明帝に男生口4人、女生口6人を献じ、その後継者の台与も248年に生口30人を魏へ献じているとあります。生口とは捕虜とか奴隷なのです。
出雲にとっても、先に見た池の造築や灌漑工事に、嫌がることなく働いてくれる労働力が欲しかったのでしょう。その分、農業生産に手を回すことができるのです。こうして、越の人々が出雲に連れて来られたのではないでしょうか。
出雲にとっても、池の造築や灌漑工事に、嫌がることなく働いてくれる労働力が欲しかったのでしょう。その分、農業生産に手を回すことができるのです。こうして、越の人々が出雲に連れて来られたのではないでしょうか。農奴や奴隷というと悲惨なことを考えますが、ある意味では、集団移住のような形がとられたということも考えられます。個々の人身売買のようなものにすると、人々の団結力や集団としての活力が失われます。
そこで、越地方の何組もの集団が、集団として出雲の連れて来られたのではないでしょうか。連れて来られて、単に働かされるのではなく、「コシ=越=古志」という集団の故地を名乗り、そこに肩を寄せ合いながら定着したと考えられるのではないでしょうか。
そして、集団で出雲に連れて行かれた人達の境涯も、あまり悲惨なものとはならなかったのではないでしょうか。出雲の古志郷に住み着き、越よりもはるかに恵まれた自然環境の中で暮らしたのです。
また、もうひとつ考えられるのが「出稼ぎ」に来て、そのまま住み着いた人々がいたというものです。北陸は、冬が早く来て、しかも雪深いところです。
そこで、秋から冬の間は出雲に「出稼ぎ」に来て働くと同時に、出雲の進んだ土木事業を学び、その技術を北陸(越)に持ち帰って、自分たちの農地開拓に役立てたのではないかとも言われています。
ところで、松江市近郊にも、「古志」・「古志原」といった地名があります。しかも、それらの地区には、かんがい用のため池や堤がたくさん今も残っています。出雲西部の古志郷のみならず、出雲東部にも越からの移住者が住み着いたとも考えられます。また、東出雲の揖屋(いや)地区には、「越野・古志野」といった姓がたくさんあります。関係するのでしょうか。
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