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『出雲国風土記』

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奈良時代の天平五年(733年)に完成しました。
編集責任者は「出雲臣広嶋」さんです。

『風土記』は、元明天皇が、和銅六年(713年)に出された勅命によって作られた、諸国の「地誌」です。

「地誌」の中身は、土地名の由来や状態、伝承、産物などを記録したもので、解文(げぶみ=上申書)の形で記録したものです。

上申された風土記は六十二ヶ国とされますが、現存するものは、「常陸、播磨、豊後、肥前、出雲」の五ヶ国です。他に、三十ヶ国の逸文が、風土記としてではなく残っています。

しかし、完本(完全な形)で現存するのは『出雲国風土記』だけです。

「出雲臣広嶋」は、出雲の国の国造です。他の風土記は、国司(中央からの役人)が編集責任者なのに、『出雲国風土記』は、その土地の豪族が編集したのです。

『出雲国風土記』を平安時代に書かれた偽書ではないかとの議論がありましたが、今では偽書説は否定されています。

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西谷墳墓群には、3号墓の他に5基の四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)が発見されています。その大半は方形部長辺30mを超える巨大なもので、全国的に見ても最大級の弥生墳墓です。
西谷の四隅突出型墳丘墓群は、弥生時代後期(約1800年前)の出雲地方を象徴するもので古代の出雲の歴史を解明する鍵となる遺跡の一つです。

現在、王墓の里ゾーンとして整備が進んでいます。

加茂岩倉遺跡

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1996年、人里離れた山懐の谷の斜面で、農道工事にともなって39個の銅鐸が発見されました。1ケ所での銅鐸の出土数としては全国最多です。加茂岩倉遺跡は、荒神谷遺跡から直線距離にして約3キロほどの至近距離です。

これらの銅鐸の多くは、大きな銅鐸のなかに小さな銅鐸を入れた「入れ子」状態で埋められていました。

加茂岩倉の銅鐸は、15組26個が、それぞれ同じ鋳型から造られた「兄弟」であることが明らかになりました。

また、14個の銅鐸の釣り手には、荒神谷遺跡の銅剣の柄に刻まれたのと同じ「×」印が刻まれており、加茂岩倉と荒神谷が密接な関わりをもっていたことがわかります。

また、加茂岩倉遺跡には加茂岩倉遺跡ガイダンスという施設があります。施設内に展示された出土青銅器のレプリカやパネルなどが、遺跡への理解を一層深めてくれるでしょう。

荒神谷遺跡

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1984年(昭和59)7月に銅剣358本が、次いで翌年にも銅鐸6個・銅矛16本(いずれも国宝)が同時に発見されました。
それまで、日本で発見された銅剣の数は、約300本、一ヶ所で総数を超えました。
銅鐸と銅矛が同じところに埋納されて発見されたのもはじめてです。
10月6日に荒神谷博物館が本格オープンし、同時に本物の銅剣が展示されます。

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