<?xml version="1.0" encoding="UTF-8" ?>
	<rss version = "2.0"  xmlns:blogChannel="http://backend.userland.com/blogChannelModule">
		<channel>
			<title>いずものこころ</title>
			<description>古代出雲は輝いていました。みんなで古代出雲を散策し、謎解きや、古代出雲に空想の翼を広げましょう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo</link>
			<language>ja</language>
			<copyright>Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.</copyright>
		<image>
			<title>いずものこころ</title>
			<url>https://s.yimg.jp/i/jp/blog/iym_img.gif</url>
			<description>古代出雲は輝いていました。みんなで古代出雲を散策し、謎解きや、古代出雲に空想の翼を広げましょう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo</link>
		</image>
		<item>
			<title>スサノヲの御子神の謎（２）』</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
前回、スサノヲの御子神の話をしましたが、『出雲国風土記』に出てくる御子神と『古事記・日本書紀』に出てくる御子神とは全く一致しないとお話ししました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、改めて『古事記・日本書紀』には、御子神はどのように出てくるのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
　愼椽餤』の「一書（あるふみ）」には、『五十猛（イソタケル）命は、父神（スサノヲ）と天降るとき、樹木の種を持って降りたが、それを韓国（からくに）には植えず、すべて我が国土に植えたので大八洲はどこも青々と繁茂した山々を見ることができた』とあります。&lt;br /&gt;
△気蕕吠未痢岼貊顱廚任蓮△茲蟠饌療になり、『須佐之男（スサノヲ）命が「髭を抜いて散らすとそれが杉となり」、「胸毛を抜いて散らすと檜となり」、「尻の毛は槙に、眉毛は楠となった」。そこで「杉と楠は船を、檜は宮殿を、槙は死者を葬る棺の材料とせよ」と教えた』とあります。&lt;br /&gt;
これらの話も、全くその木材の用途の適切さといい、今の私たちにも教えているようにも見えることです。少なくとも『神代の巻』に書かれていることが、これだけ現実味を帯びていることは不思議としか言いようがありません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『日本書紀』の一書では、高天原から追放されたスサノヲは、新羅のソシモリに降り、「私はここには居たくない。」と言い子神の五十猛（イソタケル）命と妹神（ツマズ姫、オオヤツ姫）と一緒に出雲に渡ったとされ、各地にある「韓国（からくに）神社」や「韓（から）イタテ神社」といった神社にスサノヲやイソタケルが祀られていたりしていて、「韓」の名のつくところに深い影を落としています。&lt;br /&gt;
い気蕕法◆屮好機廚箸いμ召髻嶌重粥廚箸いΔ茲Δ鵬鮗瓩垢襪函▲好汽離鬚抜愀犬垢詬諭垢平声厂召簔鰐召法◆屮好機廖Α屮好」・「スゲ」・「スカ」といったものがあり、それは、製鉄・産鉄に関わるのではないか、木そのために植えたのではないかとの推測が成り立つのです。&lt;br /&gt;
ダ重粥産鉄といえば、当時日本列島にはその技術はなく、朝鮮半島から持ち込まれた技術です。そうした技術者集団が信奉していたのが、スサノヲやその御子神ではなかったかとも考えられるのです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/66028707.html</link>
			<pubDate>Fri, 26 May 2017 13:36:42 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>『スサノヲの御子神の謎』</title>
			<description>スサノヲの御子神が『出雲国風土記』に出てくるのを網羅し、その地名と、そこで祭神とされている神社をあげると、次のようになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
青幡佐久佐日古命（アオハタサクサヒコ）： 意宇郡大草郷（八重垣神社）、大原郡高朝山 。&lt;br /&gt;
都留支日子命（ツルギヒコ）： 島根郡山口郷 （布自伎美神社）。&lt;br /&gt;
国忍別命（クニオシワケ）：島根郡方結郷 （方結神社）。&lt;br /&gt;
磐坂日子命（イワサカヒコ）： 秋鹿郡恵曇郷（恵曇神社）。&lt;br /&gt;
衝桙等乎而留比古命（ツキホコトオルヒコ）： 秋鹿郡多太郷 (多太神社）。&lt;br /&gt;
八野若日女命（ヤノノワカヒメ）： 出雲郡八野郷（八野神社）。&lt;br /&gt;
和加須世理比売命（ワカスセリヒメ）：神門郡滑狭郷（那売佐神社）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところで、スサノヲは京都の八坂神社の主祭神ともされています。八坂神社には、素戔嗚尊（スサノヲノミコト）、櫛稲田姫命（クシイナダヒメノミコト）とともに、八柱御子神（ヤハシラノミコガミ）が祀られています（他に「御同座：神大市比売命・佐美良比売命」、「傍御座：稲田宮主須賀之八耳神」）。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、ここでの「八柱御子神」は、どのような御子神かといえば、・・・『八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、大屋毘古神、須勢理毘売命』・・・だとされているのです。『出雲国風土記』に出てくる御子神と比べると、「須勢理毘売命」が「和加須世理比売命」と同一ではないかと推測されるのですが、他の七柱は全く重ならないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、この「和加須世理比売命」を「須勢理毘売命」とは同一ではないとすると、『出雲国風土記』に出てくる御子神の全てが、『古事記』・『日本書紀』では出て来ない御子神たちだということになってしまうのです。それとは反対に、八坂神社の八柱御子神は、すべて『古事記』・『日本書紀』のいずれかに登場する御子神なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、『古事記』・『日本書紀』では、八坂神社の「八柱御子神」の他にも、アマテラスとの誓約（ウケイ）の時に生まれたとされる、「タギリヒメ」、「タギツヒメ」、「イチキシマヒメ」の宗像三女神なども、スサノヲの御子神とされ、「オオクニヌシ」さえも御子神とされているのです。&lt;br /&gt;
なぜこのような違いが出てくるのでしょうか。かといって、どれが正しくてどれが間違いだなどと言っていても始まりません。どこでどうなったのかを空想したいと思うのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで不思議なことがあります。『出雲国風土記』には出て来ない御子神で、『古事記』・『日本書紀』あるいは八坂神社の八柱御子神に出てくる御子神が、出雲の神社にも祭神として祀られていることです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかもその御子神は、『出雲国風土記』にしか出て来ない御子神と一緒に祀られたりしているのです。一番分かりやすいのは、「八（矢）野神社」に祀られている「大歳（年）神」です。この御子神は、・・・『大年神（おおとしがみ）は素戔嗚神と神大市姫神（大山祇神の娘）との間の子で、稲荷神社の御祭神である宇迦之御魂神の兄』・・・とされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この御子神が、『出雲国風土記』には出て来ないのに、「八野若日女命」を主祭神とする「八野神社」の相殿に祀られているのです。もし、『出雲国風土記』、『古事記』・『日本書紀』を合体させれば、この御子神は姉弟神となるのですから、その二神が同じ神社に祀られていても不思議ではありません。また逆に、『出雲国風土記』に出て来てもよさそうです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「揖夜神社」を見てみると、この神社の主祭神は、「伊弉冉命、大己貴命、少彦名命、事代主命」ですが、境内式内社には「五十猛命」が祀られています。また、出雲大社境外摂社の「大歳社」には「大歳（年）神」が単独で祀られています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このようなこと、すなわち・・・『出雲国風土記』には出て来ない御子神で、『古事記』・『日本書紀』あるいは八坂神社の八柱御子神に出てくる御子神が、出雲の神社にも祀られている』・・・ということは何を意味しているのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ご承知のように、『出雲国風土記』の成立は７３３年ですから、『古事記』の７１２年、『日本書紀』の７２０年の成立の後のことです。『古事記』・『日本書紀』に、スサノヲの御子神だと明記されている神々がいるのに、なぜ『出雲国風土記』は、それらの御子神たちを登場させなかったのでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここまでで、いくつかのことが考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、スサノヲもイナタヒメだけが妻神ではなく、複数の妻神がいたことになります。まず挙げられるのが、出雲で一緒に宮を構えたイナタヒメです。．ぅ淵織劵瓩魯好札螢劵瓠平楡理毘売命）と、ヤシマジヌミノカミ（八嶋士奴美神）を生んだことになっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、大年神と宇迦之御魂神を生んだ、神大市姫神（カミオオイチヒメノミコト）がいることになります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところが、８渊縮埒澄大屋比売神、抓津比売神とされる兄妹神は、スサノヲと誰との間の御子神なのかはっきりしません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、ぁ惱弍盛馼攀』にだけ登場する御子神たちも、「須作能乎の命の御子」などと記載されるだけで、スサノヲと誰との間の御子神なのかはっきりしません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いわんや、ゥ▲泪謄薀垢肇好汽離鬚痢崚靴琉族蓮廚任寮戚鵑虜櫃法▲好汽離鬚侶ら生まれたとされるタギリヒメ、タギツヒメ、イチキシマヒメの宗像三女神は、そもそも母神という存在があるのか無いのかさえ分からないのです。剣から生まれたのですから。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ、何はともあれ御子神たちは、少なくともこれら五つの系統に分かれることになるのです。ところが、『出雲国風土記』は、出雲に残されたひとつの系統い靴記載していないのです（それについてもひとつの系統なのか、またそれぞれに別々の母神がいたのか判然としないのですが）。しかも、スサノヲの御子神であるにもかかわらず、これらの御子神が、出雲以外の地域において祀られているということはないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そこから二つの考えが出されているのです。ひとつは、『出雲国風土記』に出てくるスサノヲは、単なる出雲の地方神のひとつであり、名前は似ていても『古事記』・『日本書紀』に出てくるスサノヲとは別の神だというものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もうひとつは、『出雲国風土記』のスサノヲと、『古事記』・『日本書紀』は同じ神だけれども、『古事記』・『日本書紀』は、そのスサノヲを創作にも近い形で大げさに取り上げたというものです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/65946902.html</link>
			<pubDate>Fri, 24 Mar 2017 13:43:05 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>『四隅突出型墳丘墓の謎と出雲の神々</title>
			<description>◎四隅突出墳丘墓の分布と出雲の神々の伝承が一致する？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
富山県山田村の牛岳山伝承は、『山田村史』に寛文八年「越中一ノ宮伝記」の伝承として・・・『牛嶽（岳）は昔、久和崎山と呼んでいたが、悪者が多く住み農民を苦しめたので、国造神大国主命が牛に乗って登り、悪者どもを平定したので牛嶽と呼ぶようになった。』・・・とあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じく富山県の『井波町史』の「高瀬神社社誌」の伝承として・・・『在昔、大己貴命北陸御経営の時、己命の守り神を此処に祀り置き給いて、やがて此の地方を平治し給ひ、国成り竟（お）えて、最後に自らの御魂をも鎮め置き給いて、国魂神となし、出雲へ帰り給ひしと云う』・・・とあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福井県若狭町にある闇見神社の伝承として・・・『三十三間山東側の山腹にある大池に大蛇（オロチ）が住みつき、垂仁天皇の世に大暴れ。近江・美濃・越・若狭と荒らし回り、万民大いに弱る。ところがある時、雷鳴しきりにして川の流れが赤く血と変わり、黒雲は一転して青雲になる。』・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・『それは、出雲で殺されたヤマタノオロチの霊魂が雷の気となって年を経、その邪気がこの地に生じて国の災いとなったのを、スサノヲとイナダヒメの両神が再び示現。くだんのオロチを退治されたからだという。』・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・『そして、スサノヲはオロチを殺した剣を投げ上げ、落ちたところに岩剣（イワツルギ）大明神＝剣神をまつったのが日置神社。最後に、スサノヲが切った蛇体が二段となって空中に飛び上がり、一段は美濃に落ち、今一段は若狭の山中に落下して闇見神社となる。つまり、落下の際に天地がくらやみとなったので、その地を闇見と名付け、闇見神をまつった。』・・・とあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
石川県の「能登国一の宮・気多大社」の御由緒の伝承として、・・・『由緒沿革　気多大神宮とも称え奉り、古来能登国一ノ宮として世に知られている。御祭神大己貴大神は国土修営のため越の北島より船で七尾小丸山に入り、宿那彦神等の協力を得てこの地方の賊徒を平定せられた。その恩典を慕いこの地に奉祭したのが本社鎮祭の由緒である。』・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、・・・「例大祭（蛇の目神事・流鏑馬神事）/鎮花祭」であり、『その昔、気多の御祭神である大国主神が、邑知潟に住む大蛇を退治し、能登の平定に尽くされたという故事にちなみ、歩射により的を射る蛇の目神事、その後、馬に乗って走りながら的を射る流鏑馬神事が執り行われます。』・・・と紹介されています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、よく観察するとこれらの地域には、ある共通点があることがわかります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
福井市の小羽山３０号墓には、九頭竜川・北潟湖・福井平野を抱える低湿地帯があり、白山市の一塚遺跡２１号墓には、手取川・犀川・河北潟・金沢平野を抱える低湿地帯があり、富山市の王塚・千坊山遺跡群には、庄川・神通川・井田川・山田川・十二町潟・富山平野を抱える低湿地帯があるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
この類似は、出雲においても見ることができます。出雲市の西谷墳墓群は、神戸川・斐伊川・神門の水海・出雲平野を抱える低湿地帯の丘陵にあります。安来市の荒島墳墓群は、飯梨川・宍道湖・荒島安来平野を抱える低湿地帯の丘陵にあります。また、最大の数の四隅突出型墳丘墓がある米子市の妻木晩田遺跡群は、日野川・淀江潟・米子淀江平野を抱える低湿地帯の丘陵地にあるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに東進すると、鳥取県倉吉市にも有力な四隅突出型墳丘墓がありますが、天神川水系と東郷湖という潟湖・低湿地帯と関係し、鳥取市の西桂見にある山陰で最大級とされる四隅突出型墳丘墓は、鳥取砂丘を形成した千代川水系と湖山池という潟湖・低湿地帯に関係しているのです。ここから、低湿地帯の開墾・開拓が共通点として浮上するようなのです。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/65946901.html</link>
			<pubDate>Fri, 24 Mar 2017 13:41:04 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>『四隅突出型墳丘墓の謎とi出雲の国譲り』</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
四隅突出墳丘墓の分布と出雲の神々の伝承が一致する、としましたが、実はこのことと、『出雲の国譲り』が関係するように思えるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
以前、“出雲にとって最も重大な出来事であったはずの、「国譲り」に関しては、そのいきさつや、さまざまな出来事、「国譲り」に関して登場した神々のことなどは、『古事記・日本書記』には、こと細かく書かれていますが、『出雲国風土記』では、たった一行で、オオクニヌシが「私が造ってきた国は、皇孫に譲りましょう」と言ったとしか書かれていません。”としました。そして、「出雲の国は大事な玉のように守ります」とも言ったとされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことから、出雲本体の国譲りは無く、オオクニヌシが譲ったのは、出雲が大きな影響を及ぼしていた、伯耆、因幡、丹波、越前、越中、能登といった国々だったのではないかとしました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
改めて、『出雲国風土記』を見てみましょう。&lt;br /&gt;
そこには、オオクニヌシは、・・・『我（あ）が造り坐（ま）して命（うしは）く国は、皇御孫命（すめみまのみこと）、平世（やすくに）と知らせと依さしまつり、但、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐（ま）さむ国と、青垣山廻らし賜ひて、玉と珍（め）で直し賜ひて守りまさむ』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語の意訳：「私が造り、支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。ただし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて（玉を愛する如く、愛し正して）国を守ろう」）・・・と言ったとされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここには、二つの領域があると考えられます。ひとつは、「私が造り、支配していた国」であり、もうひとつは「八雲たつ出雲の国」です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「私が造り、支配していた国」こそ、四隅突出型墳丘墓が造られ、今日までも出雲の神々の伝承が語られ、オオクニヌシ等の出雲の神々を主祭神とする神社（気多大社、高瀬神社、出雲大神宮、倭文神社等など）が残る地域ではないでしょうか。そして、「八雲たつ出雲の国」とは、今の出雲地方のことではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オオクニヌシ（出雲）は、前者を譲り、後者を死守するという選択をしたのです。その意味は、「自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて（玉を愛する如く、愛し正して）国を守ろう」というところで読み取れます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
「垣根のように青い山で取り囲み」とは、他者が攻め込めないようにしてということであり、「心霊の宿る玉を置いて」とは、強い宗教力をもってということであり、オオクニヌシはこの二つの力で、出雲本体を守ると宣言したのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことは、どのようなことで裏付けられるのでしょうか。いくつかあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、崇神天皇は、「四道将軍」を北陸、東海、西海、丹波に送り、『従わない者は、兵を持って討て』と命令したとされています。北陸、丹波における出雲の影響力（支配）が解き離れたからではないでしょうか。そして、将軍の派遣は丹波で止まり、出雲には及んでいないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
つまり、「垣根のように青い山で取り囲まれた」出雲本体はまだ強力で、攻め込まれなかったのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、「四隅突出型墳丘墓」は大和の勢力が強くなり始めると、急速に造られなくなります。北陸、丹波、因幡、伯耆の古墳も大和の「前方後円墳」になって行きます。しかし、そうした中で出雲では、四隅を削った独自の「方墳」が造られ続けました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さらに、オオクニヌシは「オオモノヌシ」として崇神天皇の治世に祟りを起こし、疫病や凶作で、大和の人口が半分になり、崇神天皇もオオクニヌシを祭らざるを得なくなったとされています。出雲は、宗教力でも大和に勝っていたと考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
では、出雲本体が大和に屈したのは何時なのか。神代の時代に国譲りが行われたとの物語は、一体何のために作り出されたのか、少しずつ空想して行きましょう。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/65894480.html</link>
			<pubDate>Thu, 09 Feb 2017 18:08:22 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>『「出雲国風土記」と「古事記」における「国譲り」』</title>
			<description>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;
『出雲国風土記』の最初に出てくる郡（こほり）は意宇郡（おうのこほり）。&lt;br /&gt;
９つある郡のうち、なぜ最初に出てくるのか？中央から派遣された国司のいる国庁があり、出雲国の中心とされていたからだと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
冒頭に、なぜ意宇と名づけられたかを語る、「国引き神話」が出てきます。&lt;br /&gt;
八束水臣津野命（やつかみづおみづぬのみこと）が、「国引き」を終えた後、意宇の杜（もり）に杖を突きたてて「意恵（おえ）」と言ったからとされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ところで、よく見過ごされがちですが、この有名な「国引き神話」の後に、実はとても重要な文章があるのです。母里郷（もりのさと）についての記述にある、オオクニヌシの言葉です。&lt;br /&gt;
今回は、このことを中心に検討をしたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『出雲国風土記』では、&lt;br /&gt;
オオクニヌシは、・・・『我（あ）が造り坐（ま）して命（うしは）く国は、皇御孫命（すめみまのみこと）、平世（やすくに）と知らせと依さしまつり、但、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐（ま）さむ国と、青垣山廻らし賜ひて、玉と珍（め）で直し賜ひて守りまさむ』&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
（現代語の意訳：「私が造り、支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。ただし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて（玉を愛する如く、愛し正して）国を守ろう」）・・・と言っています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、『古事記』では、&lt;br /&gt;
・・・『建御雷（たけみかづち）神は、再び信濃から出雲に帰ってくると、大国主神に、「お前の子供である事代主（ことしろぬしの）神、建御名方（たけみなかたの）神の二（ふた）はしらの神は、天つ神の御子のお言葉の通りもう背かないと申した。さあ、お前の答えはどうだ。」と聞いた。』・・・&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これに対して、オオクニヌシは、・・・『私の子供達、二はしらの神の申し上げた通りに私も背きません。この葦原中国（あしはらなかくに）は、お言葉通りに全て献上します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ただ私の住んでいた所を、天つ神の御子の皇位の方が治め太陽のように照り輝かせる、殿所として、地底の岩に届くように宮柱太く掘り立てて、高天の原に届く程に垂木を高く上げてそこを治めていただけるのなら、私は数多くの曲り角を経て遠くに行った片隅に隠れ住みます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また私の子供達、八十神（やそがみ）は、全て八重事代主神（やえことしろぬしのかみ）が統率して仕えさせますので、もう背く神はいないでしょう、と答えた。』・・・とされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ふたつの記述を比べてみましょう。かなり違っていると思いませんか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
注目すべきは、「風土記」では、&lt;br /&gt;
１．オオクニヌシが自発的に国を譲ると言っていることです。別に、高天原から出雲によこされた使者の神に、国を譲るかどうか迫られたり、脅かされたりはしていません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２．そこから、お子神のコトシロヌシやタケミナカタも登場しません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３．また、大きな宮（出雲大社）を建ててくれたら国を譲るなどということも言っていません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
特に注目すべきは、&lt;br /&gt;
４．「ただし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて（玉を愛する如く、愛し正して）国を守ろう」と言っていることです。&lt;br /&gt;
　ここからすると、オオクニヌシは、自分が造り治めてきた他の国は譲るのだけれど、出雲の国だけは譲りませんと宣言していると解釈できます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『古事記』では、『この葦原中国は、お言葉通りに全て献上します。』とされ、出雲の国も含めてすべて献上したことになっています。&lt;br /&gt;
　また、「垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて（玉を愛する如く、愛し正して）国を守ろう」と言っているのですから、他からの侵害があれば「守る」という、積極的な姿勢がうかがえます。もちろん、片隅（八十くまで・幽界）に隠れるなどとも言ってはいないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
大きな食い違いがあると思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どちらが本当なのかと考えるのも良いかもしれませんが、むしろ、この食い違いはどこから来たのだろうか、と考えてみるほうが面白いと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１．『古事記』が作られたのは、７１２年。『出雲国風土記』が作られたのは７３３年。『古事記』の内容は、出雲でも知られていたと思われます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２．『古事記』は、日本国と天皇家の成り立ちを書いた最も権威のある本。『出雲国風土記』は、出雲の国という一地方のことを書いた本。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここからすると、常識的には、『古事記』に書いてある「国譲り」の内容と食い違ったり、矛盾したりすることは書けなかったはずです。しかし、あえて違った内容が書いてあるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
いろいろな考え方。&lt;br /&gt;
１．「国譲り」の真実はこうなのだと、『出雲国風土記』の作者が踏ん張った。あるいは、出雲の側からの見方を後世に伝えたかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２．たかが「風土記」に書いてあることだと、見過ごされた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３．出雲の側がそう言うのなら仕方がないとして、あえて訂正を求めなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それ以外に、なぜ「越の八口」を平らげて帰ってきた時に、突然このようなことを言ったのか、なぜ、「意宇の長江山」で言ったのか、様々な謎もふくまれているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それにしても、出雲の人たちにとっては、誇り高い内容です。皆様はどう思われますか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/65894476.html</link>
			<pubDate>Thu, 09 Feb 2017 18:04:25 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>『どれが本当の出雲大社かの謎』</title>
			<description>「どれが本当の出雲大社か」などというと、馬鹿なことを言うなと叱られそうですが、実は、『古事記』・『日本書紀』・『出雲国風土記』をよく読むと、本当はどうなのかと思われる記載があるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
私たちが、出雲大社の創建についてよく知っているのは、『古事記』・『日本書紀』における創建の記載です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
単純にいえば、・・・『大国主神が天津神に国譲りを行う際、その代償として、天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てて欲しいと求め、造営されたのが出雲大社の始まりである』・・・といったものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
しかし、前回も推理したように、『古事記』・『日本書紀』と『出雲国風土記』とでは、実に大きな違いがあるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、『出雲国風土記』を見てみましょう（５５ページ）。&lt;br /&gt;
そこには、・・・『郡役所の西北二十八里六十歩。八束水臣津野命（ヤツカミズオミツヌ）が国引きをなさった後に、天の下をお造りになった大神の宮をお造り申し上げようとして、もろもろの神々たちが宮殿の場所に集まって地面を突き固め（きづき）なさった。だから、寸付（きづき）という。』（荻原千鶴訳）・・・とあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どんな宮だったのか、どんな大きさだったのか、細かな記載はありません。寸付（きづき）という地名起源のための記載に過ぎないとも思えるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、『古事記』・『日本書紀』の記載は違います。&lt;br /&gt;
『古事記』では、・・・『我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょうと述べ、これに従って「天之御舎（あめのみあらか）」を造った。』・・・とあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『日本書紀』では、・・・『高皇産霊尊（タカミムスビ）は、国譲りに応じた大己貴神（オオナムチ）に対して、「汝の住処となる天日隅宮（あめのひすみのみや）を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命（アメノホヒ）に祀らせよう」と述べた。』・・・とあります。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここで一番重要なのは、『古事記』・『日本書紀』によれば、共に出雲大社は「国譲りの代償」として造られたということです。その代償だからこそ、大きく立派な宮として造られたとされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、細かな違いはたくさんありますが、みんなで謎解きをするために、大きなポイントを書き出して見ましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１．『出雲国風土記』では、「ヤツカミズオミツヌ」という「国引き」をした「出雲の神」が、「オオクニヌシ」のために宮をお造り申し上げようとされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２．『古事記』・『日本書紀』では、「高天原の神」が、「オオクニヌシ」のために宮を造ったとされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とんでもない違いだと思われませんか？&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３．また、『古事記』・『日本書紀』では、「オオクニヌシ」が造ってくれと言っています。しかし、『出雲国風土記』では、「天の下をお造りになった大神」のために、その功績をたたえて造って差し上げようということになっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『出雲国風土記』を柱にして、もう少し簡単にまとめてみると、次のようになります。&lt;br /&gt;
「出雲大社」は、&lt;br /&gt;
１．出雲の神の発案で、出雲の人の手で造られた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２．「国譲り」の代償などではなく、「オオクニヌシ」の国造りをたたえてのことである。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３．オオクニヌシは、自分の宮を造ってくれなどと言ってはいない。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
このことを裏返しで言うと、&lt;br /&gt;
４．『古事記』・『日本書紀』に書いてあることは、間違いである！！&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
すなわち、『出雲国風土記』は、先にできた『古事記』・『日本書紀』に書かれている「出雲大社」の起源について、正面から否定するのではなく、「杵築郷」の地名起源を説明すると見せかけて、さらりと、しかし、最も重要なことを書き残したのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
最後に、このことと、意宇郡母理郷（７ページ）の「オオクニヌシ」の言葉、『但し、八雲立つ出雲の国は、・・・玉のように守ります。』ということを合わせ考えると、『出雲国風土記』が書き残したかったことは「出雲本体の国譲りなどは、無かった」ということではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
みんなで想像してみましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ついでに、『古事記』には、もう一つ興味深い記載があります。それは、「根の国」でのスサノヲからの試練に耐え、スサノヲの娘であるスセリヒメと一緒に根の国からの脱出を図った時に、スサノヲがオオクニヌシに投げかけた言葉です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・『その、お前の持っている生太刀と生弓矢をもって、そなたの腹違いの兄どもや弟どもを、坂の尾根まで追いつめ、河の瀬までも追い払い、おのれが葦原の中つ国を統べ治めてオホクニヌシとなり、またウツシクニタマとなりて、そこにいるわが娘スセリビメを正妻として、宇迦の山のふもとに、土深く掘りさげて底の磐根に届くまで宮柱を太々と突き立てて、高天の原に届くまでに屋の上のヒギを高々と聳（そび）やかして住まうのだ、この奴め。』（三浦佑之現代語訳）・・・というものです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
ここでは、スサノヲがオオクニヌシに、出雲の統治者となって、大きな住まいをオオクニヌシ自体の手で造って住め、と言って励ましたことになっています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
オオクニヌシは本当に自分の力で大きな住まいを造ったのでしょうか、そして、その後それが宮となったのでしょうか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/65633334.html</link>
			<pubDate>Fri, 22 Jul 2016 14:51:55 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>『あってないものの謎』</title>
			<description>『古事記』は７１３年にできあがりました。『日本書紀』は、７２０年にできあがりました。『出雲国風土記』は、７３３年にできあがりました。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
どれも、出雲で起こったこととしての神話や物語が載っていますが、実は、とても大きな事件や出来事が、『古事記・日本書記』には載っていて、『出雲国風土記』には載っていない、あるいはその逆という場合が起こっているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
今回は三つのことを取り上げたいと思います。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、スサノオのオロチ退治です。この神話は、『古事記・日本書記』には出てきますが、『出雲国風土記』には出てこないのです。スサノオが出雲にやってきて、オロチという恐ろしい大蛇を退治して、出雲の国王になったという大事件が、『出雲国風土記』には記載されていないのです。なぜでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方で、『出雲国風土記』ではスサノヲの話は、どこへ行ってどんな地名をつけたとか、頭に葉っぱを乗せて踊ったとか、オロチ退治とはかけ離れたものが記載されているのです。なぜでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、スサノオとオオクニヌシの関係と、二人の間のさまざまな出来事です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『古事記・日本書記』では、オオクニヌシはスサノオの５世後の孫だとか、スサノヲの娘神であるスセリヒメと結婚したとかとされていますが、『出雲国風土記』には、そのようなことは一切書かれていません。スサノオはスサノオ、オオクニヌシはオオクニヌシとしてしか、書かれていません。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
スサノオとオオクニヌシの関係はどのようなものだったのか、『出雲国風土記』を作るに当たってとても重要なことではないでしょうか。それが書かれていないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、それに関係するスサノオとオオクニヌシとの出会いや、スサノオが「根の国」でオオクニヌシに与えた試練、「生く太刀・生く弓」を与えて、大きな宮殿を作って出雲の国主になれと言ったことなども書かれていないのです。なぜでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、三番目に、出雲にとって最も重大な出来事であったはずの、「国譲り」に関しては、そのいきさつや、さまざまな出来事、「国譲り」に関して登場した神々のことなどは、『古事記・日本書記』には、こと細かく書かれていますが、『出雲国風土記』では、たった一行で、オオクニヌシが「私が造ってきた国は、皇孫に譲りましょう」と言ったとしか書かれていません。なぜでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
同じようなことは、登場する神々についても言えるのです。『古事記・日本書記』に出てくる、筑紫からの妻神の「タギリヒメ」・子神である「シタテルヒメ」・「タケミナカタ」・「コトシロヌシ」・「ヤカミヒメ」・出雲国造の祖とされる「アメノホヒ」などは、全く『出雲国風土記』には出てこないのです。なぜでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
こうしたことから、その「なぜでしょうか」について、いくつもの考えが学者の先生方たちから出されています。大まかにまとめると、次のような考え方です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１．	そもそも『古事記・日本書記』に書かれている「出雲神話」は、中央で創作されたもので、本来の出雲での出来事ではないからだ。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
２．	『古事記・日本書記』に書かれていることは、確かに出雲で起こったことだが、その中の重要なことは『出雲国風土記』には書くなとの指示があったので、書きたくても書けなかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
３．	『古事記・日本書記』に書かれていることは、出雲で語り継がれていた神話や伝承を、『古事記・日本書記』を作るにあたって、その都合のよいところを拾い上げ、そのうえで、誇張や創作を加えたからだ。そこで、『古事記・日本書紀』を読んでいた出雲国造は、遠慮してスサノヲの話（オロチ退治やオオクニヌシとの関係）や、国譲りの真相に関して書くことをやめた。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
４．	そうではなく、両方で話し合って、書き換えたりなどして、うまく組み合わせた。だから、成立まで２０年もかかった。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
・・・どう考えたらいいでしょうか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/65590692.html</link>
			<pubDate>Fri, 24 Jun 2016 14:14:00 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>『オオクニヌシとコトシロヌシとタケミナカタ』</title>
			<description>コトシロヌシは、出雲では美保神社に主祭神として祭られていますが、アジスキタカヒコネなどと同じように、皇孫の守り神として大和の葛城に祀られているオオクニヌシの御子神です。コトシロヌシは、そこでは「下鴨神社＝鴨都波神社（かもつわじんじゃ）」に主祭神として祭られています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『記・紀』における「国譲り神話」では、コトシロヌシはタケミナカタと共に、オオクニヌシが国を譲るべきか否かを尋ねたとされる、オオクニヌシの子神として登場します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
コトシロヌシは、水鳥と遊び、魚釣りが好きな神だったとされています。国譲りの談判の際も、「美保ヶ崎」で釣りをしていたとあります。・・・『御大（みほ）の前（さき）で「鳥遊（とりのあそび）をし、魚取りて」いた』・・・とされているのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、『恐し（かしこし）。この国は、天つ神の御子に立奉らむ。』と譲るべきだと答えながらも、「天の逆手」という怨みを込めた拍手（かしわで）を打って、海中の青柴垣（あおふしがき）に消えたとされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、『そこでまた、建御雷神（タケミカヅチ）は大国主神（オオクニヌシ）に、「今お前の子である事代主神（コトシロヌシ）はこのように申した。他にまた意見をいうような子供はいるのか。」と問うた。それに、「まだ私の子、建御名方神（タケミナカタ）がいます。彼を置いてはいないでしょう。」と答えた。』という形で、タケミナカタが登場します。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そう言っている間に、建御名方神（タケミナカタ）は、千人の人の力で引こうとしても無理なほど大きな岩だとされている「千引（ちびき）の石（いわ）」を、「手先に指し挙げながらやって来た」とされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、『「誰だ、我が国に来て、こそこそとそのように物を言っているのは。だったら力競べをしよう。まず私が先にあなたの手を掴もう。」そしてその手を掴もうとすると、タケミカヅチは氷柱と化し、また剣の刃に化した。それを恐れて引き下がってしまっていた。そこでタケミナカタが逆に私の手を取ってくれと所望したのでその手を掴むと、若い葦を取るように掴み潰して投げ放ち、そしてタケミナカタは逃げ去った。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
それを追って、信濃国の諏訪湖で追い付いて殺そうとした時、タケミナカタは、「恐れ多いことです。私を殺さないで下さい。もうこの地より他の所には行きません。また私の父の言葉に背きません。コトシロヌシの言葉にも背きません。この葦原中国は天つ神の御子の言葉通りに献上します。」と言った。』とされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そうしたことから、タケミナカタは、皇孫の守り神として大和の葛城に祀られていませんが、長野の諏訪大社に主祭神として祭られています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、この神話は全く別の見方ができるのではないかということを空想してみましょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、『コトシロヌシは、出雲の海に関する呪術や信仰を支えていた神だったのではないでしょうか。次に、タケミナカタは、出雲の陸・大地に関する呪術や信仰を支えていた神だったのではないでしょうか。そして、オオクニヌシは、そうした現世とあの世との両方に関わる統合神だったのではないでしょうか。』という見方です。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、コトシロヌシは水鳥とたわむれたり、魚と話しができたといった形で「海」と関係していますが、海中・海底といえば地上を支配する者にとっても手の届かないところ、あるいは不思議な神秘の世界が広がるところなのです。現代でさえ海中や海底の神秘は解き明かされていないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、タケミナカタは大岩を指先で回しながら登場し、さらに諏訪という山深い場所に逃げています。タケミナカタが千引石を持ち上げながら登場したということは、まさしく出雲の磐座（いわくら）・大岩信仰を背負って登場したということではないでしょうか。また、山深い山林の地は、深い海底と同じく日常からはかけ離れた神秘の世界なのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、さらに共通点があるのです。コトシロヌシは自分から海中に没し、タケミナカタも自分から諏訪に逃走し、さらに「もうこの地より他の所には行きません」と言っていることです。タケミカヅチが、海中や山中に押し込めたのではないのです。自ら海中に隠れ、自ら山中に逃れているのです。何かしら大きな意味が含まれているように思えます。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/65517723.html</link>
			<pubDate>Tue, 10 May 2016 11:29:03 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>タギリヒメとアジスキタカヒコネとシタテルヒメ</title>
			<description>多紀理比売（タギリヒメ）はオオクニヌシの妻神とされています。タギリヒメは、オオクニヌシとの間に、「阿遅&amp;#37455;高日子根神（アジスキタカヒコネ）」と「下照比売（シタテルヒメ）」の兄妹をもうけたとされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
タギリヒメは、アマテラスとスサノヲが「天の安河」で誓約（ウケイ）合戦をした際に、スサノヲの剣をアマテラスが三つに打ち折って生まれた女神です。妹神にタギツヒメとイツキシマヒメがいて、この三姉妹を宗像三女神と呼んでいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
アジスキタカヒコネは、『荒ぶる神、雷神として出雲神話の主宰神であるスサノヲとも共通した神格』とされる一方で、『鋤を神格化した農耕神』とか、『鋤とは鉄製の農具であることから製鉄と関係する神』といった神格を持っています。出雲では『阿須伎（あずき）神社』に祭られ、奈良では『高鴨（たかかも）神社』に祭られています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『古事記』においては、『アジスキタカヒコネはアメノワカヒコとそっくりであったため、アメノワカヒコの父のアマツクニタマが、アメノワカヒコが生きていたものと勘違いして抱きついてきた。アジスキタカヒコネは穢（けがら）わしい死人と一緒にするなと怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。』という神話を残しています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
シタテルヒメは、安産の神・織物の神とされ、出雲の「乙見（おとみ）神社」、伯耆の「一の宮」である「倭文（しとり）神社」、奈良の「長柄（ながら）神社」などに祭られています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
『古事記』においては、高天原から遣わされて「８年たっても高天原に戻らなかった」という「アメノワカヒコ」と結婚したとされ、アメノワカヒコが亡くなった時、天上にも届くほど大きな声で泣いたとか、兄神のアジスキタカヒコネをたたえて詠んだ歌は、和歌の始まりだといわれています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
さて、ここからが空想です。&lt;br /&gt;
「８年たっても高天原に戻らなかった」という「アメノワカヒコ」は、オオクニヌシの娘神であるシタテルヒメと結婚し、出雲に留まって、高天原に反抗しようとしたとされています。シタテルヒメの兄神であるアジスキタカヒコネもアメノワカヒコととても仲良しになっていたとされています。しかし、アメノワカヒコの企ては、高天原の知る所となり、高天原からの「返し矢」によって亡くなってしまいます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
もし、オオクニヌシ（父神）とアジスキタカヒコネ（子神）とアメノワカヒコ（義理の子神）が、がっちりと手を組んで、高天原と対決したらどうなっていたことでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
実は、このことは神代の神話として語られていますが、ある意味では神話ではなく、似たようなことが出雲と筑紫と大和との間にあった出来事ではないかとも読めるのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
まず、オオクニヌシとタギリヒメとの神婚は、出雲と筑紫（宗像）との連携であり、その間にアジスキタカヒコネとシタテルヒメが生まれたことは、出雲と筑紫（宗像）との絆（きづな）がより強固なものとなったということではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
次に、シタテルヒメが国譲りの使者であるアメノワカヒコと結婚するには、父であるオオクニヌシの承諾が必要ですから、オオクニヌシは、アメノワカヒコが高天原（大和）を裏切るということで、結婚させたとも考えられます。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
また、アジスキタカヒコネとアメノワカヒコが、とても仲が良く、二人が見間違えられるほど似ていたということは、アジスキタカヒコネもアメノワカヒコの企てを知っていたということではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
とすれば、出雲と筑紫（宗像）が手を結んで、大和に対抗しよう、あるいは対抗していたという時期が実際にあったのではないかと考えられるのです。『古事記』をつくるにあたって、こうした事実を隠すことが出来ないので、しかたなく神代の出来事として語ったのではないでしょうか。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
出雲国造の祖となったアメノホヒは、アメノワカヒコの前に、国譲りの交渉に派遣されていますが、この神もオオクニヌシに心服し（媚びて）、３年経っても高天原に何の報告もしなかったとされています。出雲は、それほど魅力的な国だったからではないでしょうか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/65394442.html</link>
			<pubDate>Fri, 26 Feb 2016 15:01:12 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		<item>
			<title>オオクニヌシとお子神</title>
			<description>大国主には、多くの妻神がいたとされています。しかし、その割にお子神は、あまり多くないのです。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
正妻の須勢理比売（スセリヒメ）との間には、お子神はできませんでした。もし、出来ていたらスサノヲとオオクニヌシの血を引くお子神として、かなりの地位を占めたことでしょう。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
一方、出雲以外の地域の比売神との間には、次のようなお子神が生まれたとされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
１．	越の国の沼河比売（ヌナカワヒメ）との間には、「建御名方神（タケミナカタ）」が生まれています。&lt;br /&gt;
２．	九州の宗像の多紀理比売（タギリヒメ）との間には、「阿遅&amp;#37455;高日子根神（アジスキタカヒコネ）」と「下照比売（シタテルヒメ）」の兄妹神が生まれています。&lt;br /&gt;
３．	因幡の八上比売（ヤカミヒメ）との間には、「木俣神（コノマタ）」が生まれています。&lt;br /&gt;
４．	また、どこの地域の女神なのかよくわかりませんが、神屋楯比売（カムヤタテヒメ）との間に「事代主神（コトシロヌシ）」が生まれています。さらに、よくわからない女神との間に「加夜奈留美比売（カヤナルミ）」という女神が生まれたともされています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのお子神は「加夜奈留美比売（カヤナルミ）」をのぞいて、それぞれ『出雲国風土記・古事記・日本書紀』に登場して、さまざまな物語として語られています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
そして、「建御名方神（タケミナカタ）」と「木俣神（コノマタ）」をのぞいて、大和葛城の高鴨神社（アジスキタカヒコネ）、長柄神社（シタテルヒメ）、下鴨神社（ヤエコトシロヌシ）、中鴨神社（カヤナルミヒメ）にそれぞれ祭られています。&lt;br /&gt;
&lt;br /&gt;
これらのお子神が、大和の神社に祭られているのは、「国譲り」のあと、大国主が自分の和魂（にぎたま）を三輪山に置き、お子神たちを大和の守り神としたからだと、『出雲国造神賀詞』に書かれています。「建御名方神（タケミナカタ）」は国譲りに反対したから、「木俣神（コノマタ）」は正式な子神ではないとして除かれているのではないでしょうか。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/65394439.html</link>
			<pubDate>Fri, 26 Feb 2016 14:57:56 +0900</pubDate>
			<category>歴史</category>
		</item>
		</channel>
	</rss>