コンスタンツ通信

ボーデン湖岸の町コンスタンツに滞在していた社会学者です。帰国のためブログは終了しました。

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「リスク」のとらえ方

日本で地震が起きてから数日の間、海外のメディアの方が原発の被害状況をより明確に伝えていた。ドイツでは、すでに地震の翌日、環境大臣が福島原発での炉心溶融について言及したことが報道されていたことは、このブログでも紹介した()。それに対し、日本のメディアでは、地震当初、原発の状況はほとんど伝わってこなかった。政府も東電も、ほとんど情報を出してはいなかった。
 
しかし爆発が起きてから事態は少しづつ変わり、ここ数日、日本では原発事故や放射能被害の状況がかなり詳しく報道されるようになった。海外のメディアの方がわかりやすい、という状況はほぼなくなった。また、官房長官の記者会見はインターネットで中継され、ここドイツでも見ることができる。
 
逆に、ドイツのメディアではここ数日、原発事故に対するややヒステリックとも思える過剰反応の傾向がとみに強まってきた。特に野菜や水から放射能が検出されたことや、原発での作業員の被爆のニュースが伝えられたことが大きい。何か日本全土が放射能に汚染され、被爆による死者が大量に出る日が刻々と近づいていて、日本人も不安でパニックに陥っているのではないかというような感興を呼び起こすような報道が行われている。
 
例えば、先ほどARD(ドイツ第一公共放送)のサイトにアップされた記事「日本−放射能に汚染された食料品に対して高まる不安」()に寄せられた読者の書き込みを見ると、次のようなものがある。
 
「14日間ものあいだ放射能が、毎秒毎秒、飲料水、土壌、人間、動物、空気だけでなく、絶えず動き続ける海流をも汚染してきたことに、私はとても憂慮をしている。」
 
「海水に25倍もの放射能が検出されたことが、政府によって公表されている。」
 
「IAEAの調査によれば、58キロまでの地点で800000Bq/m2が検出されているのが事実だ。超大原発事故(Super-GAU)だ。チェルノブイリよりもひどい。」
 
報道されている数字を引き出して「憂慮」を表している。しかも書いている当人は「事実」に基づいていることを強調している。だが、「事実」から「憂慮」への跳躍は大きい。果たして、「チェルノブイリよりひどい」とは、どういう事実に基づいているのだろうか?)
 
もとになっているARDのニュース記事そのものは、淡々と事実を報道してはいる。だが、日本政府が被害状況について行っている細かな説明はほとんど省かれている。しかも、よく見るとやや正確さに書く。例えば、タイトルの下にかかれた見出し記事にはつぎのような文章がある。
「東京で許容されているより2倍高い放射能が確認された後、人々は大変不安になっている。」
正しくは乳児の制限摂取量の2倍なのだが、この見出し記事にはその限定がない。記事本文をよめばきちんと書いてはあるのだが、この見出し記事だけを読むと、通常の大人の制限摂取量の2倍であるかのような印象を受けるであろう。
 
 ◆◆
 
このような過剰と思える反応の背後には、現在のドイツ社会に特有な「リスク」のとらえ方があるように思う。
 
そのリスクのとらえ方、例えばドイツ連邦政府が福島原発事故の直後に表明した原発政策の転換の背景にもあるように思う。
 
連邦政府が現在、原発の稼働期間延長を一時停止していることについてはすでに書いた()。今、起こっている日本の原発事故が、なぜこれほどまでにドイツの原発政策に大きなインパクトを与えているのか。ドイツでは地震はほとんどないし、津波などほぼありえない。飛行機事故やテロリズムの不安がしばしば語られるが、それは日本での原発事故とは全く関係のないことである。つまり、別に日本での事故が、ドイツの原発の安全性を直接的に低下させているわけではない。福島原発事故の前も後も、ドイツの原発の安全性が何ら変化しているわけではない。
 
では、何が変わったのか。リスクの認知の仕方が変化したのである。
 
残余リスク(Restrisiko)」。この言葉を最近頻繁に耳にする。なかなか日本語に翻訳しにくいことばだが、英語では“residual risk”となるようだ。ウィキペディアのドイツ語版の説明によると、「科学の現状では知られていない、しかし排除することのできない仮説的リスク」となっている。
 
この科学では予期できないリスクの概念。原発政策を転換が今、このリスク概念を通じて正当化されている。
 
メルケル首相は連邦議会でこう述べた。
 
「日本がそうであったように、いっけん不可能なものが可能になり、絶対にありえないようなことが現実になったのであれば、それは状況を変えるのです。」
 
「絶対ありえないことが現実になること」。これはまさに「残余リスク」のとらえ方である。
 
今、ドイツの原発論争において「余剰リスク」に大きな注目が集まっている。「残余リスク」がセンセーショナルに報道され、そに対処するにはどうすればよいかという議論が行われている。そこでは、「ドイツは地震や津波の多い日本とは違う」という、いっけん至極まっとうに見える原子力業界の言い分は、なかなか説得力をもちにくい。
 
だが、どのようにすれば「残余リスク」への対策が可能になるのだろうか。
 
科学による計測できない「残余リスク」をゼロにすることなどできない。「仮説的リスク」だから、はっきりとその存在を確認できない。われわれの目には見えない亡霊のようなものである。しかし今、ドイツ社会の各処に見える原発事故に対する過剰な反応のなかに、余剰リスクをゼロにし、完全にリスク・フリーな社会を目指そうという、ロマンティックな潔癖主義が潜在しているように思える。
 
しかし、このリスク・フリーを希求する潔癖主義が、果たしてリスク対策として適切であろうか。社会学者のオルトヴィン・レンは、ドイツ社会のこうした傾向を批判している。
リスクに対して合理的に対処するためにはどうすればよいであろうか。先ず残余リスクの概念をわれわれの用語法のなかから排除すべきだ。絶対的な安全性などありはしない。われわれがどういう決断をしようと、われわれはリスクと共に生活しなければならないのである。われわれができることは、リスクを削減し、耐えられる程度にとどめることだけである。
リスクが避けられない以上、「残余リスク」の排除を求めるのではなく、考えられうる様々なリスクを認識し、それに対するより良い対処法を求めていく以外にはない。しかし、それでも完全にはリスクはなくならない。
 
 ◆◆
 
私は、今回の福島原発事故が、「想定の範囲外」の「残余リスク」であったと言いたい訳ではない。おそらくこれは、現在の科学の水準でも充分に予測可能なレベルの事故であったのではないかと思っている。
 
だが、リスク対策としてドイツのものが理想的なものかどうか、リスク対策のモデルとして日本にとって適当なものかどうか、疑問を投げかけたいのである。
 
ドイツでは日本の原発事故に直面して、自国の原発政策をいちはやく転換させようとしている。その「リスク意識」の高いドイツの原発政策に「学ぼう」という議論が、日本で出てこないとも限らない。
 
たしかにドイツの原発政策には学ぶべきところも多いだろうが、そのかなりの部分が、完全リスク・フリーな「潔癖社会」を目指そうというドイツ社会特有の非合理的動機づけから来ていることも忘れてはならない。コンスタンツ大学での私の同僚の社会学者は、このような傾向を「ドイツロマン主義の伝統だ」とまで喝破していた。その「伝統」は戦後、平和運動、環境運動、反原発運動へと受け継がれた。「余剰リスク」も、反原発運動のなかで以前から使われていた用語である。
 
それが今や、連邦政策の政策まで左右しようとしている。
 
幸か不幸か、日本では「残余リスク」という概念はほとんど知られていない。だが、科学技術に対する「安全神話」が維持されてきた日本では、政府も電力会社も、そもそも「リスク」そのものについては一般市民にはできるだけ「知らしむべからず」の姿勢を基本的にとってきたように思われる。
 
だがそのような社会の体制では、リスクが現実になった場合の耐久性が著しく低くなる。
 
確かにリスクは人々を不安にさせる。だが、完全にリスクフリーな社会がありえない以上、リスクに関する説明だけでなく、リスクから生じる不安に関しても綿密なコミュニケーションを通じて手当てしていく他に対処方法はないであろう。そのような心理的な問題にも対処しうる、リスクへの耐久性の高い仕組みを作っていかなければならないであろう。
 
 
【付記】
Ortwin Renn, "Der importierte GAU", FOCUS (2011年3月21日)を参照しました。
 
 
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