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写真だけでも凄い勢いがわかりますね。
集団山見せ 城下町、走る
福博の街を勇壮に駆け抜ける一番山笠の恵比須流
博多祇園山笠の「集団山見せ」が13日、福岡市中心部であった。商人の街、博多で生まれた山笠がシーズン中に唯一、城下町の福岡地区に入る行事。 名士たちが台上がりして午後3時半、一番山笠の恵比須流(えびすながれ)が博多区の呉服町交差点をスタート。その後各流が続き、中央区の福岡市役所まで約1.3kmを走った。 福岡市のこの日最高気温は34.9℃。山を舁(か)いて走る男衆に、沿道から盛んに勢い水がかけられた。山笠は14日に各流が地元で山笠を舁く流舁(か)きがあり、15日は午前4時59分にスタートする「追い山」でクライマックスを迎える。 |
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2013年07月13日
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母校(小学校)の旧校舎解体へ
とうとう僕が小学校時代に学んでいた当時の校舎が解体されることになった。
今日、解体工事の安全祈願祭があった。
校舎内の教室で、安全祈願祭はとりおこなわれた。
懐かしの校舎。
といってもあまり思い出がない。1年と6年の思い出が強烈だ。
まず1年の怒られた思い出。
入ったばかりの頃、しゃべってたのか先生に怒られた。
あまりにも聞かないので、廊下に立たされた。
その廊下でも態度が悪かったのか、しゃべってたのか、でさらに怒られた。
とうとう運動場に放り出されて立たされた。
1年生なんでじっと立ってるなんてできない。
しまいに傍にあった鉄棒を石でコンコンたたいた。
すると、みんな運動場に出てきた。
授業終了の鐘の合図と勘違いして・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
実はこの当時まだチャイムがなく、鐘を校務員さんが鳴らしてたんです。
それからまた担任の先生と校長先生に凄く怒られた。
怒られたことはもう忘れてますが、みんなが運動場にかけだしてきた光景だけはまだ鮮明に覚えています。
6年の思い出は弁当が窓枠ごと落ちたことです。
当時は2階の教室でした。
まだ完全給食ではなく、弁当(白米)持参でした。
冬になるとご飯が冷えるんです。
冷たいご飯を食べるのが嫌で、少しでも温めようと教室の窓に弁当箱を立てかけて温めることを始めました。
するとみんながし始めて窓に弁当が並ぶようになりました。
そんなある日、僕の弁当が立てかけてある窓が窓枠ごと階下へ落下したのです。
しかも授業中。
窓が落ちて壊れたことより、弁当を心配した僕でした。
そんな懐かしい校舎がとうとうなくなります。
もう50年ほど前ですからね。
時代の流れですね。
それにしても今まで、よく残ってきたと思います。
結局残るのは、校庭の端に植えてある銀杏の木だけみたいですね。
《何日か前の新聞記事》
1959(昭和34)年、兵庫県K市N町に建てられたS小学校の旧校舎や体育館が7月下旬、解体されるのを前に、13日午前9時半から、現地でお別れ見学会が開かれる。地域住民や卒業生が思い出の木造校舎を訪問するほか、一般にも開放される。
市教育委員会によると、同校は1892(明治25)年にS尋常小学校として開校。現存する旧校舎は3代目で、築54年となる1棟のみ。K市内では、U小と並び、N小に次いで2番目の古さという。 旧校舎は、手狭になったことなどから1980年の1学期で使用を終了。S小は南西約500mに移転した。 3年前までは、研修施設として使われてきたが、市は約1万7千平方メートルの敷地を住宅として開発する計画を立て、イチョウの木を残して、すべて解体撤去することになった。2年後には、30区画の一戸建て分譲住宅に生まれ変わる予定で、民間の「認定こども園」なども設置される。 13日は、午前9時からの安全祈願祭に続き、同9時半から、卒業生らが校歌を歌うお別れ見学会がある。同10時半〜正午に校舎1棟を開放する。 O町区長で卒業生の前田秀典さん(61)は「木のぬくもりのあった教室には楽しい思い出ばかり。寂しくなるが(解体後に建つ分譲住宅へ)若い人に入居してもらえるなら楽しみだ。」と話す。 |
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和希君、大きくなってた!
今日、“新生姜の佃煮”や“なすびやキュウリ・ジャガイモなど自家製野菜”を届けるのを口実に、和希君の顔を見に西宮に行ってきました。
本当は昨日僕一人で行く予定だったのですが、妻が恨めしそうな顔をするので、妻の休みの今日になりました。
日中次女と二人でいるのがほとんどなので、僕たちが顔を出すと、初めはびっくりして次女の後ろに隠れたりしてた。
最初は寝起きだったので泣いたけど、そのうち徐々に慣れてきだした。
大きくなって人見知りも始まったようだ。
足が長い。
その長い足で、しっかり歩いてる。
1時頃到着したので、みんなで近くのファミパスタ屋さんへランチに。
「外へ行こうか」と声をかけると、和希君にっこり。
もう慣れてきたみたい。
行く道すがら、ベビーカーの中でご機嫌。
ランチして帰ってきて、3時頃まで和希君と遊んだ。
とっても楽しかった。
気分転換になって、来週から頑張れそうだ。
※ ファミパスタ屋さんでの和希君
テーブルから見えてる指は、手の指ではなくて足の指なんです。
お行儀少し悪いですが、足が長いのです。 |
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いよいよ近づいてきました。
神事「社参の儀」
社参の儀で、馬に乗って八坂神社へ向かう祇園祭・長刀鉾の稚児(中央)
京都・祇園祭の山鉾(やまほこ)巡行(17日)で、先頭を行く長刀(なぎなた)鉾の稚児が「神の使い」となる神事「社参の儀」が13日、京都市東山区の八坂神社であった。 稚児の白井大督(だいすけ)君(10)=同志社小4年=が立烏帽子(たてえぼし)に水干(すいかん)姿で白馬にまたがり、同市下京区の町会所を出発。お供の禿(かむろ)らを従えた行列が四条通を進んだ。約1.5km東の同神社に参り、「五位(ごいの)少将、十万石大名」の格式を授かった。 稚児は巡行当日、結界を示す注連縄(しめなわ)を太刀で切り、巡行の始まりを告げる。祭りが終わるまで地面に足を着けてはならないとの習わしがあり、神事の後、大人に担がれて本殿を後にした。 |
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農家の人が大変だね。
自然災害の影響は計り知れないね。
淡路島地震発生3カ月
ため池や井戸が干上がる
兵庫県・淡路島付近を震源とした4月の地震から13日で3カ月。震源に近い淡路市野田尾の摩耶地区では、ため池や井戸がほとんど干上がり、農業に影響が出ている。地震の影響で地下水位が低下したためとみられている。昭和南海地震(1946年)や阪神大震災(95年)の後にも同様の現象があり、三つの地震を体験した住民は「数年前にようやく元に戻ったのに」とため息をついている。 同地区は淡路島の東海岸から約3km内陸に入った標高300m前後の丘陵地にあり、18世帯が暮らす。摩耶山(359m)も近い。住民らによると、今回の地震後、地区のため池や井戸の水位が下がり、約20カ所あるため池はほとんどが干上がったり、水量が減ったりした。逆に、ふもとでは山からの湧き水が増えている。 昭和南海地震の時は、ため池や井戸の水が回復するのに7〜8年かかり、阪神大震災後は14〜15年後から水がたまり始めた。そのため、農地や水路などが荒れ、稲作を断念した農家もあったという。 井戸水でカーネーションを栽培してきた土井栄さん(78)は「4年ほど前からようやく水が戻ってきたが、また枯れてしまった。水道水を使うしかない。」と表情を曇らせた。 自宅近くのため池の水を田んぼに使っている農業、田尾満太郎さん(64)は「6月にまとまった雨があり、水がたまったので田植えをした。しかし2、3日でため池が干上がってしまった。これから出穂期にかけて差し水をしなければならないが、水が確保できない。」と困惑している。 産業技術総合研究所活断層・地震研究センター(茨城県つくば市)の松本則夫チーム長は「摩耶地区は花こう岩層のため、阪神大震災の時と同じように、今回の地震によって岩盤が伸び縮みして亀裂がいくつもできた。そのため新しい水の道ができて、ため池の水が流出しやすくなったのだろう。」と分析している。 |



