|
いいことですね。
何でも、真正面から取り組むことが大切ですね。
それが偏見をなくす第一歩かもしれませんね。
性同一性障害、きちんと考えた
女装して照れながらステージに立つ男子生徒たち
島根県立松江東高の文化祭で、男子生徒らが女装する仮装大会が1日、行われた。生徒会が企画した目玉イベントだが、学校側は当初、「開催は時期尚早」と慎重姿勢を示していた。性同一性障害者を傷つけかねない、というのがその理由。この夏、生徒や教諭が難しい問題に直面した。
■学校が「待った!」 「男子が女装すれば盛り上がる。」 生徒会が文化祭「東雲祭」の目玉として仮装大会を計画したのは7月下旬。しかし、すぐに学校側は「待った」をかけた。
「おもしろ半分でやれば、性同一性障害で悩む人を傷つけるのではない か?」 と男性教諭らが懸念。「いじめの引き金にもなる」と心配する教諭も現れ、開催は雲行きが怪しくなった。
落胆した生徒会のメンバーらは8月11日、当事者の意見を聞くことにした。性同一性障害を抱える市民団体「紫の風」代表・上田地優(ちひろ)さん(53)(松江市)に相談。 上田さんは「興味本位だとしても、体験してみて学ぶことはたくさんあるはず。」と、開催を歓迎してくれた。諦めかけていたメンバーたちはもう一度、教諭たちと議論を重ねた。
■「学びたい」という思い 性同一性障害は、肉体的な性と、脳が認識する心の性が一致しない疾患とされている。体が男性で心が女性、体が女性で心が男性というケースがあるが、原因は解明されていない。 生徒会長の2年・森脇大輔さん(16)は「中止すれば、学ぶ機会を逃したまま、問題を放置することになる。みんなで協力して、絶対実現させたい。」 難色を示していた学校側も「生徒たちの『学びたい』という思いを大切にしたい」と開催を認めた。
開催にあたっては、見た人が不愉快に思わないように配慮するなどのルールを決めた。当日は生徒ら5組8人が参加。女装だけでなく、アニメのキャラクターの着ぐるみを着たり、飛び込み出場する生徒がいたり、盛況だった。 ■温かく受け入れてくれた 女装を体験した2年・渡部慎也さん(16)はこれまで性同一性障害についてあまり知らなかった。 「女装して登場しても、みんな温かく受け入れてくれた。こうした問題について理解する取り組みが広がれば。」と驚いた様子。
開催を終え、中村清志校長は「どの立場が正しいということではない。性同一性障害にどう向き合うべきか、生徒と教諭の双方が考えるきっかけになったはず。」と振り返った。 上田さんは当日、特別審査員として招かれた。「性同一性障害は病気ではなく、生き方の問題。学校現場でこそ、しっかりと向き合って考えてほしい。」と、エールを送った。 |
障害の理解
[ リスト | 詳細 ]
|
全員同じ扱いをするのが平等ではないはずだ。
おかしな平等だ。
社会的弱者に手厚くなぜできないのだろう。
福祉の脆弱な国だ。
行政を縛る“公平”の建前
個室が並ぶ石巻祥心会のグループホーム。
入り口は車いすでも入れるよう広く、段差もない。
「やっと、気兼ねせずに暮らせる場所に落ち着きました。」
2人の弟に知的障害がある宮城県石巻市の会社員の女性(42)は、地元の社会福祉法人「石巻祥心会」が建設した障害者向けの「福祉仮設住宅」に入居でき、胸をなで下ろした。安堵(あんど)の表情は、行政が手がける福祉仮設住宅がわずかしかない厳しい状況の裏返しでもある。
女性は津波で自宅が流され、父親が死亡、母親は行方不明に。しばらく親族宅に身を寄せていたが、弟は身の回りのことが十分にできず、両親がいなくなったショックもあり、親族に気を使う日々だった。 石巻祥心会は、日本財団(東京)から約1億7千万円の資金援助を受け、津波で壊滅的な被害を受けた沿岸部に近い場所に、障害者とその家族40世帯が入居できるケア付きの仮設住宅と、単身の14人が入るグループホームを建設。6月末から入居が始まり、待ちわびていた人たちで部屋はすべて埋まった。 管理者の鈴木徳和さん(36)は「ほかの人に迷惑をかけたくないと避難所を去る障害者と家族は多く、できるだけ早く安心できる環境を設けたかった。」と話した。 福祉仮設住宅は出入り口の段差をなくし、浴室に緊急ブザーを付けるなど、障害者、高齢者に配慮されている。グループホームのような共同住宅で、入居は抽選ではなく福祉事務所などが申込者の健康状況をみて判断する。 厚生労働省によると阪神大震災では神戸市や芦屋市などで1885戸が建設され、障害者の生活再建に一定の役割を果たした。 ところが、東日本大震災では、一般の仮設住宅に比べて整備は立ち遅れている。厚労省は4月15日、福祉仮設住宅の建設を進めるよう、被災3県などに求めたが、岩手県では7月上旬に、宮城県でも8月上旬にやっと完成し、入居が始まったばかりだ。 岩手県県土整備部の担当者は「厚労省の通知があるまで、福祉仮設住宅の建設は念頭になかった。」と弁明するが、被災した障害者や支援団体からは「阪神大震災の教訓が全く生かされていない」という疑問の声すら上がっている。 石巻祥心会では、地震で行き場がない障害者らを大勢受け入れており、石巻市に対し、一般の仮設住宅に障害者らが優先して入居できないか尋ねたが、「入居に優先順位を付けるのは市民の理解を得られない。」との答えだった。同会では、運良く日本財団から資金援助を受けられたため、建設に踏み切ることができた。 多くの障害者は「公平な支援は大事だが、障害者と健常者にまったく同じ対応をされては生きていけない。」と口々に語る。 支援の必要性が高い障害者が優先的に入れる仮設住宅の整備が遅れている実情は、被災地での障害者支援のもろさを象徴している。 「平等な支援」を建前に対応が遅れる行政に対し、目の前にいる人の支援に奔走する民間団体やボランティア。その民間の活動で徐々に障害者の生活実態が把握できるようになってきたが、多くはいまだに支援の手が及んでいない。
|
|
こんなに福祉がダメな国だったなんて、思わなかった。
議論しかしない先生方は、この現実を知っているのだろうか?
弱者の味方は、いないのか?
いったいいつからこの国はダメになったのか?
この現実を知ってほしいです。
そして、早い改善を要求します。
「どこに避難しているのか」
仮設住宅をまわり、支援が必要な障害者を探す
被災地障がい者センターみやぎのスタッフ
日焼けしていた顔に疲れがにじんでいた。炎天下、仮設住宅を一軒一軒訪ねて回る男性たち。支援を待っている障害者を探しているのだ。
宮城県のほぼ中央の沿岸部にあり、東日本大震災で180人以上が犠牲になった多賀城市。大阪府からボランティアで現地入りしている宮内孝文さん(30)も連日、足を棒のようにして歩き回っているにもかかわらず、誰にも出会えない。
「どこに避難しているのだろうか。」
力なくつぶやき、また別の仮設住宅に車を走らせた。
宮内さんは、仙台市で4月、NPO法人など14団体が集まり発足した「被災地障がい者センターみやぎ」の活動に参加。センターでは、障害の状態に合わせたきめ細やかな支援の必要性を自治体に訴え、どこにどのような障害者がいるのか情報提供を求めてきた。
が、自治体の担当者は異口同音に「個人情報保護法があるから」と言って情報提供を拒んだ。
だから、助けを求めながらも声に出せない障害者を探すことから始めなければならない。地元の授産施設などを訪ね、利用していた障害者が今、どこにいるのか、職員らから教えてもらうのだ。やっと自宅を探し出し、避難所や仮設住宅を1カ所ずつ回りながら安否を確認し、必要な支援を把握する。その作業は震災から5カ月以上もたった今も続いている。 阪神大震災の被災障害者を支援する活動で実績があり、同センターとも連携を取るNPO法人「ゆめ風基金」(大阪市東淀川区)。その理事の八幡隆司さん(53)は「とりわけ自宅で暮らしている障害者は支援の手からもれている可能性がある。」と表情を曇らせる。
八幡さんは震災1週間後後の3月18日から被災地に入り、避難所の見回りを続けてきた。しかし、障害者はほとんどおらず、目にしたのは自宅で耐えている障害者とその家族だった。
「東北では関西に比べて家族や地域で障害者を支えるケースが多く、福祉サービスを提供する事業者が少ない。」と八幡さんは福祉基盤に違いを感じた。このため被災しても誰にも頼れずに孤立するケースも相次いでいた。
来る日も来る日も障害者を探し、片道2時間かけて向かった避難所で一人の障害者にも出会えないこともある。八幡さんは「私たちの目的は支援であって、調査ではない。」と、いらだちを隠さない。
障害者手帳を持つ人は、被害が甚大な宮城県の沿岸部15市町で約7万2千人、岩手県では12市町村で約1万9千人、福島県では相馬市など13市町村で約3万2千人に上る。しかし大震災で被災した障害者の人数はいまだに明らかになっていない。
全国13の障害者団体でつくる「日本障害フォーラム」も障害者が置かれている状況の把握に努めてきたが、7月までに接触できたのは宮城県で1435人。手帳を持つ人の約2%でしかない。
同フォーラムの原田潔さん(46)はこう訴えている。
「数字によって可視化されないと支援につながっていかない。人数はすべて の活動の基礎になる。行政側は公式なデータを出すべきだ。」
東日本大震災から5カ月余りが経ってもなお、支援の手が届かない障害者が大勢いる。
「動くだけで迷惑がかかる」
と避難所去る
全壊した自宅で暮らす多発性硬化症患者の鈴木明美さん
被災した障害者は自宅で耐えていた。
「うちに帰っても何もなかったけど、その方がまだ生活しやすかった。」 全壊した自宅で暮らす宮城県石巻市の鈴木明美さん(51)は、ぽつりと言った。
鈴木さんは6年前、多発性硬化症という難病を発症。視神経など中枢神経系に炎症を繰り返す病気で、目の前のものがほとんど見えなくなり、しばしば右半身がしびれて立ち上がることすらできなくなる。 震災で自宅が津波にのまれ、近くの避難所に向かった。しかし薄暗い体育館では介助がなければ歩くことができなかった。 「道を覚えていればゆっくりでも歩けるが、広い体育館に人の頭や足、スト ーブがあったりで、どうしようとパニックになってしまって。」
トイレを我慢すればいいと考えたが、水を控えると体調を崩し、体が動かなくなった。家族を失った人や自分より高齢の人が協力して避難所を運営しようとしているなか、「自分が動くだけで誰かに迷惑がかかる」と思うとつらくてたまらなくなり、震災から2日後、泥まみれの自宅に戻った。 2人の息子は独立して今は夫と2人暮らし。自宅は「明るい方が見えやすいから」と昨年大きな窓にリフォームしたばかりだった。基礎が崩れ、1階は床上1.8mほど浸水。壁には穴が開いた。必需品もほとんどが流されていた。自宅に残った食料と、近所の人が分けてくれたものでしばらく命をつないだ。 4月に入り、通っていた難病支援センターの職員が連絡をくれ、支援団体につないでくれた。一方で石巻市が派遣した保健師が来てくれたのは6月。 「高齢者や障害者のサポートはないんですか?」と尋ねると、「避難所でないと支援は受けられない。」と言われた。
今も支援団体が持ってきてくれる食料や生活用品に頼っている。4月下旬に申し込んだ仮設住宅はまだ当たらず、余震のたびに自宅は少しずつ傾いていく。 震災で適切なケアが受けられなくなり、症状が悪化した人もいる。 「車いす、本当は手放したいんだけどね。」 石巻市中心部から離れた福祉避難所で生活する高橋伸之さん(34)は、慢性関節リウマチで右足が自由に動かない。それでも震災前は、つえをつかって歩けた。 自宅は震災で半壊。トイレや風呂には車で外に出なければならず、両親や兄弟に負担をかけたくないと、自宅の庭に止めた車の中で生活した。助手席のシートを倒して足を伸ばし、寝泊まりする日々が3カ月ほど続いた。 震災前はリハビリのため仙台市内の病院に週2回通院し、関節をほぐし、歩行訓練をしていた。しかし、震災後3カ月間通院できず、薬も手に入らなかったことで、車いす生活を余儀なくされた。 石巻市の職員が自宅を訪問し、介護の必要な高齢者や障害者を受け入れている福祉避難所に入ったのは7月10日。今は、デイサービスで軽い運動や入浴はできる。だが、「もう少し早く気づいてもらえなかったのか」という思いは消えない。 |
|
障害者への支援は、ちゃんとできているのでしょうか?
4ヶ月が過ぎてもこんな状態では、支援がうまくいっているとは言えないですね。
残念です。
潮のにおいは津波の恐怖
全盲被災者の苦悩
東日本大震災では多くの視覚障害者も被災した。一命を取り留めたものの、心に深い傷が残り苦しんでいる人もいる。その一人、岩手県釜石市に住む全盲の小笠原拓生さん(44)は「『潮のにおい』で津波の恐怖がよみがえり、落ち着いて過ごすことができない。」と訴える。
小笠原さんは27歳の時、免疫疾患の一種「ベーチェット病」が原因で全盲になった。2人の叔父が会長と社長を務めるビル管理会社で働いており、震災当日は海に近い市内の3階建て自宅兼事務所にいた。 揺れが収まり2階で待機していると「(津波が)来た来た!」と叫び声が聞こえた。必死で3階に駆け上がると、「ザザザ」という巨大な音が響いて、すぐに2階まで浸水。水が引かなかったため、他の従業員らと3階で翌朝まで過ごした。 周囲は強い潮の香りに包まれ、漏れたガソリンや灯油のにおいも混じり合う。夜中には流れたがれきがぶつかり合う音が響いた。 「何を考えて過ごしていたのか覚えていない。」
妻と3人の子供は無事だったが、2人の叔父と従業員1人が津波の犠牲になった。
叔父を継いで社長となった小笠原さんは、海岸から約5km離れた場所に自宅と事務所を移転。2週間に1回は片付けなどのため被災した自宅に戻る。建物に染み付いた潮のにおいをかぐたびに、「この場所にいるのが怖い」という気持ちになる。一度、衣装ケースを開けたら腐った海水があふれ出てきたことがあり、その強烈な異臭は忘れられない。 魚の腐敗臭にも不安をかき立てられる。 「被災地一帯が人間の力でコントロールできていないことを突きつけられてい るようだ。再び災害があった時に逃げられるのか。周りの人にリスクを負わせ てしまうかもしれない。」
と心配は尽きない。
視覚障害者の福祉増進などに取り組む日本盲人福祉委員会は「視覚障害者の被災状況はきちんと把握できていないが、多くの被災者から悩みが寄せられている。生活面や心理面で、健常者よりも立ち直りが困難になっている。」と話す。 |
|
応援お願いします。
できることがあれば応援してください。
少しでもこの輪が広がるように、転載・拡散よろしくお願いします。
「被災障害者の力になりたい」
ダウン症女性が支援活動
「被災された方々の気持ちに寄り添いたい」と話す岩元さん
東日本大震災で被災した障害者を支援しようと、国内のダウン症患者で初めて4年制大学を卒業した鹿児島県霧島市の岩元綾さん(37)が、講演料や自身の半生をつづった著書の印税などを義援金として送る活動を行っている。
岩元さんは「障害者は被災地で取り残されがち。少しでも力になりたい。」と語る。 岩元さんは鹿児島市生まれ。生後すぐに21番染色体が1本多い異常によって起こるダウン症と診断された。発達の遅れや内臓疾患を伴うことが多く、岩元さんも心臓などに合併症を抱えながら小中高と普通学級に通い、1998年に鹿児島女子大(現・志学館大)の課程を修了した。 卒業後は同大聴講生として英語などを学びながら、「21番目のやさしさに―ダウン症のわたしから」や翻訳したカナダの絵本「スマッジがいるから」を出版。ダウン症患者や家族を励まそうと国内外で100回以上の講演を重ね、東北の患者とも交流を続けてきた。 自宅で英語の児童向け絵本の翻訳をしていた3月11日、テレビで津波に街がのみ込まれていく様子を見た。福島県の知人の中には、1か月近くも連絡が取れなかった人もおり、「健康な人でも避難生活はつらいはず。ダウン症や、障害を持った人たちはどんなに大変だろうか」と心が締め付けられたという。 「少しでも自分にできることはないか。」 震災後に行われた講演会の出演料を被災地に送金。出版部数が2万5000冊に上る著書や翻訳本の印税の一部を送る準備を進めている。
さらに講演会で、来場者に被災地支援を訴えているほか、自身のホームページ「夢紡ぐ綾」でも、日本ダウン症協会(事務局・東京都)を通じた義援金の協力を呼びかけている。 「私が周囲に見守られて前に進めたように、『多くの人々の心が皆さんに寄 り添っています』と被災者に伝えたい。」 と岩元さん。日本ダウン症協会は「障害を持つ人やその家族は金銭的、精神的に余裕がない場合も少なくない。支援は本当にありがたい。」と感謝している。
|




