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また暑い夏が巡ってきます。
もうすぐ長崎でも・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
湿気払う風通し 28万959人分記載
名簿のページをめくり、風を通す市職員
広島市中区の平和記念公園で15日、原爆による犠牲者の名前や死亡年月日を記した原爆死没者名簿の風通しがあり、市職員が名簿102冊を1枚ずつめくって湿気を払った。昨年8月5日までに死亡が確認された28万959人分の名前を記載。5729人分増え、名簿2冊が追加された。 原爆投下時刻の午前8時15分、市職員が黙とう。その後、原爆慰霊碑下の石室に納めてあった名簿を取り出し、慰霊碑前に並べたり、奉安箱の調湿剤を取り換えるなどした。 102冊のうち1冊は「氏名不詳者 多数」と記された身元不明者のための白紙名簿。 |
平和
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語り継ぐために、しっかり調べてほしいね。
耐震性調査始まる
耐震調査が始まった原爆ドーム
広島市中区の世界遺産・原爆ドームで13日、耐震性調査が始まった。昨年度同市がコンピューター解析して揺れに弱いと診断された部分の壁面をくりぬき、補強が必要か判断する。壁をくりぬいての耐震性調査は初めて。
コンピューター解析では、南海トラフ地震で想定される震度6弱では、建物が倒壊することはないものの、両翼の4壁面に負荷がかかりやすいとされた。今回は壁面15カ所に直径5〜20cmの穴を開け、壁の強度を調べたり、過去の補修工事で注入した樹脂の状態などを確認したりする。 この日は工事の足場を組む作業が始まった。落下防止のためドームの一部はメッシュのシートで覆われる予定で、見えにくい状態になる。実際に壁面に穴を開ける作業は6月上旬ごろ。 調査は7月26日までの予定。 |
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日本が占領していた南の島には、こういった戦跡が多くあるのでしょうね。
戦争の愚かさを伝えるためにも、こういった戦跡を保存し後世に残していきたいですね。
そういったことにも日本政府は、取り組むべきです。
「傷む戦跡」知って
太平洋に浮かぶテニアン、
日本人女性が水先案内
テニアン島で戦跡などのガイドを務めるミホ・エヴァンジェリスタさん
■傷む戦跡 保存必要性訴え
太平洋に浮かぶ米自治領北マリアナ諸島連邦、テニアン島で、日本人集落跡や戦跡のガイドを続けている日本人女性がいる。テニアン島はかつての日本委任統治領で、第二次世界大戦末期に広島、長崎に原爆投下した米爆撃機が飛び立った島。テニアン島玉砕70年を来年に控え、埋もれた歴史を掘り起こしながら水先案内人を続けている。 「天井などが黒くなっているのは、米軍の火炎放射によるものです。」 大戦中に日本軍が野戦病院に利用した島南部の天然壕で、ミホ・エヴァンジェリスタさん(45:旧姓神尾美穂)が静かに語り始めた。 家族が暮らす日本本土への空襲を少しでも遅らせようと、多くの旧日本軍将兵が絶望的な戦況にもかかわらず、最後まで戦い命を落とした。 「言葉では言い表せない思いがあったはず。」
地面に散らばった当時の茶碗(ちゃわん)のかけらなどを一つひとつ丁寧に拾い上げる姿に、先人を大切に思う気持ちがにじむ。
島内にはかつて日本人が暮らした建物や旧日本軍施設が点在しているが、傷みは年々激しくなっている。 「このまま朽ちていくのはもったいない。」
危機感を抱くミホさんは、保存や整備の必要性を訴える。
「帰郷できなかった日本人の遺骨もまだ一部しか見つかっていない。政府 が率先してやるべき大切な仕事だ。」
ミホさんが島に移り住んだのは10年前の2003年。35歳のときだった。それまでに何度も観光で訪れ、島の美しさに魅せられた。顔見知りとなった日系ホテルのマネジャーに観光ガイドになることを勧められ、転身を決心した。 「もともと海外で働いてみたいという希望があった。」 というミホさん。日本では東京を拠点に舞台音響エンジニアとして17年間働いてきたが、行き詰まりも感じていたという。
「人生のほぼ折り返し地点にきて、『世のために何かを残したい』という思い もあった。」
と打ち明ける。
単身、島に降り立ったときには、4つの荷物と現金5万円、飼い猫1匹が“全財産”だった。今は日本人観光客を車に乗せ、島内を案内する日々。島で知り合った現地の男性と07年12月に結婚し、10年2月には、旧名のイニシャルにちなんで命名した旅行会社「MKツアーズ」を立ち上げ、第二次大戦の戦跡巡りを中心としたツアーを企画した。 訪れる人にとって戦争への思いはさまざま。 「ガイドが話すことは影響が大きい。先入観を与えず、事実を伝えることが 私の使命だと思っている。」
とも。
これまでは戦争当時を知る高齢の日本人慰霊団の訪問が多かったが、今は中国からビザなしで渡航できる気軽さもあって、島を訪れる中国人観光客の方が目立つという。 ミホさんは「日本と縁の深い島だからこそ、多くの日本人に訪れてもらいたい。若い日本人にもテニアンと日本の結びつきを知ってほしい。」と話している。 ■日本の委任統治も 日本の南約2400kmにあるテニアン島は、サイパン島とともに、第一次大戦後には一時、日本の委任統治領だった歴史がある。大正10(1921)年には、サイパンに南洋諸島の製糖事業を目的とする国策会社の南洋興発を設立。テニアンでもサトウキビ栽培が行われ、製糖業が発展、第二次大戦前には1万人超の日本人が暮らしたこともあったという。しかし、昭和19(1944)年7月にサイパン、8月にテニアンの日本軍が相次いで玉砕。その際、計約7万人が死亡したとされる。 島内には、神社や駐在所など当時の日本人住民の生活がうかがえる遺物、日本海軍第1航空艦隊司令部跡や砲台などが残っているほか、第二次大戦末期に多くの邦人が身を投げた断崖「スーサイドクリフ」もある。ただ、遺物は年月とともに風化が進んでいる。 |
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中沢啓治さんの原爆漫画処女作「黒い雨にうたれて」を買ったのが大学の時ですからね。
もっともっと描いてほしかったです。
はだしのゲン連載40周年
「ゲン」連載開始40周年の記念イベントをPRする渡部さん
漫画家の故・中沢啓治さんが広島原爆に遭った体験を基に描いた漫画「はだしのゲン」の連載開始から40周年になるのを記念して6月1、2、4日、広島市内でイベントが開かれる。
「ゲンの思いを伝え続けよう」と、中沢さんと親しかった人や地元の大学生らでつくる実行委員会が主催。中沢さんの妻ミサヨさん(70)も登場し、初めて公の場で中沢さんの思いを伝える。
「ゲン」第1話は週刊少年ジャンプ(集英社)の1973年6月4日号に掲載された。「残酷だ」などと苦情もあったが、1年半連載し、87年に第1部が完結した。第2部は構想段階のまま、中沢さんは昨年12月に73歳で亡くなった。 ミサヨさんは「始まったころは原爆に対する若者の関心が薄いように感じていたが、漫画を通して関心が広がった。時代が変わっても、読んだ人は皆同じ思いで原爆を受けた人の苦しみを考えていると思う。」と話す。 イベントは広島市中区の原爆資料館と旧日本銀行広島支店である。1日は前田耕一郎・前原爆資料館長らがゲンについて語り、2日はゆかりの地を歩いた学生らのマップが公開される。4日はミサヨさんら3人によるトークイベントがある。 実行委員長の渡部久仁子さん(32)は「『今こそゲン』という気持ち。イベントが再読のきっかけになれば。」と話している。
入場無料。実行委事務局(082・502・0428)。 |
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なぜ、この沖縄の声が届かないのか?
お餅さんが言う「強い日本」とはいったい何・・・・・・。
米軍に頼らない日本の外交をしてこそ「強い日本」じゃないのか。
もっと沖縄の声聞いて、沖縄のこと考えろ!
抗議集会「県民の心踏みにじるもの」
「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」で、
「がってぃんならん」を五唱する約1万人の参加者たち 政府が東京で開催した「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」に合わせて、沖縄県議会の野党・中立会派を中心に構成する実行委員会は28日、式典と同時刻の午前11時、沖縄県宜野湾市の海浜公園屋外劇場で式典への抗議集会を開いた。主催者発表によると、約1万人が参加した。「政府式典の開催は沖縄県民の心を踏みにじるものだ。」と決議した。 集会名は「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」。1952年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約で日本は独立を果たした一方、条約発効で沖縄や奄美群島、小笠原諸島は日本から切り離されて米国統治が合法化された。72年5月15日の本土復帰後も過重な米軍基地負担や基地から派生する事件事故に苦しむ沖縄では、4月28日は「屈辱の日」とも呼ばれている。
政府式典への沖縄の反発は強く、沖縄県議会は3月に開催に反対する抗議決議を可決。政府から式典に招かれた仲井真弘多(なかいま・ひろかず)知事は出席せず、高良倉吉(たから・くらよし)副知事を代理出席させた。 沖縄「がってぃんならん」 「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」で、
腕を組んで「沖縄を返せ」を歌う参加者たち
政府が東京で主権回復を記念する式典を開催した28日、沖縄では、式典への抗議集会に1万人(主催者発表)が駆けつけた。本土独立後も20年、米国統治が続き、復帰から41年たった今なお、全国の米軍専用施設の74%があり、米兵の事件事故が絶えない。「政府の式典は私たちへの侮辱」「沖縄には主権はない」「がってぃんならん(合点がいかない)」。会場に、政府や本土への不信と悲しみが渦巻いた。 沖縄県宜野湾(ぎのわん)市の海浜公園屋外劇場であった「4・28政府式典に抗議する『屈辱の日』沖縄大会」は、席につけない立ち見の参加者の輪が二重三重にできた。
「政府式典は、沖縄戦と、米軍による統治を強いられた私たちへの侮辱で すよ。」 集会に参加した名護(なご)市の自営業、具志堅勝子さん(74)は言った。
1945年の沖縄戦終結時は小学生。校舎を米軍に接収され、地面をノート代わりに学んだ。本土に復帰した時は喜びもあったが、その後も基地問題は変わらず「だまされた」。名護市は日米両政府が米軍普天間(ふてんま)飛行場(宜野湾市)の移設先にしている。 「基地を押しつけるばかりで私たちには主権もない。」
具志堅さんは語気を強めた。
「政治家は歴史を学ぶべきだ。」 舞台に立った名護市の稲嶺進市長の演説に、那覇市の大田朝成(ちょうせい)さん(85)はうなずいた。
16歳で旧海軍予科練に志願して沖縄を離れた。戦後間もなく帰郷する船から見た夜の古里は、米軍施設だけが光っていた。「もう少しの我慢で米軍は出て行く」と考えていたが、サンフランシスコ講和条約発効で沖縄は切り離された。そして今年、政府は沖縄分離の日に式典を開いた。「歴史の受け止め方の違いも気付かない。政府は沖縄の怒りをあおり独立させたいのではないでしょうか。」といぶかった。 会場には若い世代の姿も。宜野湾市の高校1年、田原初(うい)さん(15)が3月まで通った中学は、米軍垂直離着陸輸送機オスプレイが配備された普天間飛行場の近くだった。「屈辱の日」はテレビで初めて知ったといい「中学では米軍機が飛ぶと爆音で授業が中断することもあった。そんな沖縄に主権はないと思う。」と話した。 |



