日々燦々 − はぁ〜、のんびり のんびり -

3月。桜はまだですが、花粉が飛び始めてます。一雨ごとに暖かくなってきました。今年もノンビリボチボチ頑張ります。

平和

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巡りゆく夏

合掌!
 
またあの日が巡ってきました。
巡り来る夏に・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 合掌!
 

合掌

合掌
 
今日は、69年前の東京大空襲の日です。
亡くなられた方々の冥福をお祈りします。
合掌!
それと共に、今一度平和について考えてみましょう。
最近少し平和を軽んじる言動が世の中に見られるのが心配です。

明日、広島平和記念日

いよいよ明日は、広島平和記念日。
広島は鎮魂と祈りの日です。
平和のために僕も祈りたいと思います。
 
被爆体験、キャンバスに
「ゲン」の中沢さん同級生
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中沢さんの遺志を継ぎ、絵筆を握る今口賢一さん
 
 広島で被爆した油彩画家、今口賢一さん(74)=相模原市中央区=が、中学校の同級生で漫画「はだしのゲン」の作者、中沢啓治さんの死を機に、新作に挑んでいる。志を受け継ぎ、福島第1原発事故で苦しむ人々に思いをはせて絵筆を握った。大型キャンバスに表現するのは、68年たっても脳裏から消えない体験だ。

 今口さんが自宅アトリエで制作を始めるのは家族が寝静まった午前3時ごろ。原爆症で全身に紫色の斑点が現れ衰弱した子どもの姿を描く。「作業は胸をかきむしられるぐらい苦しいが、表現するのが私の使命。」と言う。

 6歳の時、爆心地から約2kmの国民学校で朝礼中に被爆し、頭や足を負傷した。中沢さんとは広島市立江波中学1年の時に机を並べた。中沢さんは手塚治虫さんの「鉄腕アトム」の模写がうまく人気を集める一方、被爆で頭にやけどを負い「ピカドン・ハゲ」とからかわれることもあった。
 絵が得意だった今口さんは上京して現在の武蔵野美術大に入り、画家の道を歩んだ。「気がめいるから」と周囲に被爆体験を語ることはなかった。約40年前、漫画を通じて反核を訴え続ける中沢さんの講演会に足を運び、20年ぶりに再会した。そこで、中沢さんが母の死を機に「はだしのゲン」を描いたことを知った。
 今口さんも44歳の時に母を亡くした。被爆直後、命がけで自分を守ってくれた母親との思い出として「あの日」をテーマに作品を描き始めた。当時の光景が次々と浮かんできた。
  「お互い、被爆者の一人として一生懸命生きよう。」
 中沢さんにかけられた言葉を励みに何度も広島に足を運び、これまでに22点を完成させた。
 2011年、東日本大震災と原発事故が起きた。放射能汚染による影響はどうなのか。福島の胎児や子どもが心配で仕方なかった。そして昨年暮れ、中沢さんの訃報を聞いた。

 「自分にできることはないだろうか」と考え、23作目を思い立った。福島への思いを重ね、題材を子どもに絞った。子どもたちに戦争の悲惨さ、平和の尊さ、核の恐ろしさを伝えたかった。
  「ぼやぼやしてたら、中沢君に怒られる。被爆者の端くれとして、生きている限  り平和のメッセージを発信したい。」
 
 
韓国人犠牲者の慰霊祭
220人が冥福祈る
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韓国人原爆犠牲者慰霊祭で、献花する女性たち
 
 広島市の平和記念公園にある韓国人原爆犠牲者慰霊碑前で5日、慰霊祭が営まれ、在日韓国人や被爆者ら約220人が犠牲者の冥福を祈った。広島への原爆投下では朝鮮半島出身者3万人前後が被爆したと推定されている。慰霊祭では、チマ・チョゴリ姿の女性たちが鎮魂の願いを込め舞を披露。新たに11人が書き加えられた計2682人分の死没者名簿が慰霊碑に奉納された。
 在日本大韓民国民団(民団)広島県地方本部の主催。2011年に広島に赴任した被爆2世の辛亨根(シン・ヒョングン)・駐広島韓国総領事も参列し、「原爆によって国籍、身分、思想などを問わず犠牲になり、その苦痛は想像を絶するものだった。核兵器の非人道性を再認識し、核兵器なき世界平和の信念を確かめることが重要だ。」と犠牲者を追悼し、核廃絶の重要性を訴えた。
 また、韓国と日本の関係について「関係改善に対する両国民の期待は高くなりつつある。真の韓日和解と関係発展は両国の良識ある市民の力によって遂げられる。」と訴えた。

幻のカルテ発見

良く残っていましたね。
記念日を前に出てくるなんて、巡り合わせですね。
 
原爆症1号、幻のカルテ発見 
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仲みどりさんのカルテと診療の記録
 
 1945年8月6日、広島で被爆し、世界で初めて「原子爆弾症」と診断された女優、仲みどりさん(享年36)のカルテの一部などの診療記録が見つかった。戦後、行方不明になり、「幻のカルテ」として研究者が捜していた。被爆時の様子や18日後に亡くなるまでの様子が詳細に記されていた。
 仲さんは移動演劇隊「桜隊」の一員。爆心地から約750mの宿舎で被爆。実家のある東京に逃げ帰り、東京大学病院を受診した。

 見つかったのは、カルテのうち、治療歴や血液検査の結果、体温などが一目でわかる記録と、担当医がまとめた診療の経緯一覧。診断名には「四肢爆創(原子爆弾症)」と記されていた。当時の関係者の遺族が、遺品を整理していて発見した。朝日新聞が東京大学に取材し、仲さんの記録の原本と確認した。

 仲さんの症状や解剖結果は、日本学術会議の「原子爆弾災害調査報告書」や、米軍が英訳して持ち帰った原爆資料に引用されている。しかし、原本の大半は行方不明で、研究者の間では「米軍が持ち去った」「米軍の接収を恐れた関係者が隠した」などの諸説があった。行方不明の経緯は不明だが、今回の発見で、米軍の関与は否定された。

私と原爆(4)

68年前の重い記憶をどう伝えるか。様々な思いで広島、長崎を見つめる人々を取り上げ、
できるだけその思いを伝えるべく掲載させていただきましたが、いよいよ最終回になりました。
第4回目(最終回)は、タレントの中西モナさんです。

私と原爆(4) 体全体にしみつく怖さ
 
 夏の空を飛ぶ航空機の「ブーン」という音が怖い。原爆はダメなもの、絶対に嫌なもの、本当に恐ろしいもの。体全体にしみついた感覚だ。
  「でも、それが広島県民の特別なものだと知った。」
大学時代を東京で過ごしたタレント中西モナさんは打ち明ける。
 18歳まで暮らした古里の広島県尾道市。毎年夏が塚尽くと、原爆に関連する映画や写真を見て平和学習をし、夏休み中の8月6日は原爆が投下された午前8時15分に学校で黙とうするのが当たり前だった。上京してから、ヒロシマ以外は登校日でもないと知って驚き、温度差を感じた。
  祖父は当時、尾道市で新聞記者をしていた。その頃の話を、祖母やおばによく聞かされた。原爆投下の翌日、応援で広島入りし、取材を終えて帰宅すると何も口にせず部屋へこもった。普段はご飯を食べ、お酒を飲んで1日を終えるのが日課なのに。
  「よほどすごいものを見たんだろう。」
 胃腸の病気を患い、47歳の若さでこの世を去った祖父。入市被爆して何らかの後遺症があったのかもしれないが、原因は分からない。爆心地から何キロ圏内にいたのかで、被爆者かそうでないかを国が線引きすることに違和感を覚えてきた。
 祖父の影響で新聞記者の憧れ、報道に携わる仕事を目指した。大阪の民放局に勤めたときは、戦争企画の取材もした。
 「私たちは被爆者の生の声を聞いている世代。語れる人がどんどん減っている中で、記憶を残していかなければならない。」と強調する。
 東京電力福祉第1原発事故の後、あらためて原子力について考えさせられた。今のままでは人間の力で抑えることはできない。何かが起きても対処できないような状況で原子力を使い続けることに恐怖を覚える。
 昨年、女児を出産した。自分の考えを押し付けるのではなく、良いことも悪いことも全部教えるつもりだ。
  「何が正しいのかを自分で考えて、娘たちの世代が20年、30年後の日本  をよりよいものにしてほしい。その環境を整えてあげるのが私たちの役目   だと思っている。」

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