日々燦々 − はぁ〜、のんびり のんびり -

3月。桜はまだですが、花粉が飛び始めてます。一雨ごとに暖かくなってきました。今年もノンビリボチボチ頑張ります。

平和

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私と原爆(4)

68年前の重い記憶をどう伝えるか。様々な思いで広島、長崎を見つめる人々を取り上げ、
できるだけその思いを伝えるべく掲載させていただきます。
第4回目は、詩人の長津功三良さんです。

私と原爆(4) 
負い目を越え 詠み続ける

 一瞬にして名前も肉体も人生もなくなり、単なる20万という数でしかない死。無名のまま消えてしまった人たちの無念を伝えるために、詩人の長津功三良さんは詩を書き続けている。
  「ずっと、自分だけ被爆していない負い目があったんです。」
 広島に原爆が落とされたのは、父の実家のある山口県岩国市に母と弟の3人で疎開していた小学5年の時。変わり果てた古里の姿を初めて見たのは、約1カ月たってからだった。
 爆心地にほど近く、跡形もなくなった自宅の敷地で、水道の蛇口から水が出っぱなしになっていたことだけが記憶に残っている。
 戦後、玄関と2部屋だけの小さな木造のバラックで暮らし、雨漏りのする校舎で傘をさしながら授業を受けた。そんな自らの体験に加え、被爆者に聞き取りをして、これまで9作の詩集を積み重ねてきた。ただ、最初は原爆に向き合うことができなかった。
 詩作は高校時代に始めた。大阪の銀行に就職してからは、若い仲間とサークルを結成して続けてきた。25歳で最初の詩集を発行したが、30編の地原爆を取り上げたのは5〜6編だけ。
  「できるだけ当時のことを忘れたかった。」
 転機となったのは、ずっと離れていた広島を久し振りに訪れた時だった。復興は進んでいたが、街並みはがらりと変わり、道路の向こう側にずらっと並んでいたはずの家々は緑地帯になっていた。自分の知る広島の記憶を語り続けるために、避けては通れないと思った。
 <掘り返して 建て替えても 記憶 という 昼間も暗い 場所が ある>
 2003年に出した詩集に収めた「八月・そして白刃」の一節。被爆したことを明かすと、お見合い話が破談になってしまうような被爆者の悲哀を読んでいる。
 広島には峠三吉や栗原貞子など、著名な原爆詩人がいた。原爆直後を描いた先人たちとは違う試みをしようと、戦前からの長い歴史を時系列に並べる叙事詩に取り組んでいる。
  「子や孫の世代に伝えていくために、これからも一場面でも多く残していきた   い。」

平和の灯のつどい

また暑い夏が巡ってきました。
平和大切にしたいのに、憲法改正に関してセメント副総理はまたしょうもないことをいって、世界を騒がせてますね。
もういい年の大人が何考えてるのかな。
頭の中見てみたいね。
 
平和の灯のつどい
記念公園で祈りささげる
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核廃絶を願い平和記念公園を歩く参加者たち
 
 原爆死没者の冥福を祈り、核廃絶と世界平和を願う「ヒロシマ平和の灯のつどい」が31日、広島市中区の平和記念公園であった。原爆慰霊碑前に集まった高校生ら約80人が公園内の「平和の灯」から採火した火を掲げ、平和への祈りをささげた。

【核廃絶を願い歌を歌う参加者たち】
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 広島市女性団体連絡会議などの主催で今年で15回目。旧ソ連時代に核実験が実施されたカザフスタン出身の留学生で山陽女学園高等部(広島県廿日市市)1年、マディナ・ショムパノワさんらが採火し、参加者が持つろうそくに点火。
 
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 カザフスタン被爆者のための鎮魂歌「ザマナイ」をスピーカーで流しながら公園内を歩き、核廃絶への思いを新たにしていた。

私と原爆(3)

68年前の重い記憶をどう伝えるか。様々な思いで広島、長崎を見つめる人々を取り上げ、
できるだけその思いを伝えるべく掲載させていただきます。
第3回目は、映画監督の石田優子さんです。
 
私と原爆(3)

 昨年12月に73歳で死去した漫画「はだしのゲン」の作者中沢啓治さんが、震える唇の間から無意識に舌を何度も出しながら被爆体験を証言する。薬の副作用とみられる痛々しい姿を「見せればいい」と意にも介さず、漫画が描けなくなっても語ることで原爆や戦争と最後まで戦い続けた。
 約80分の記録映画「はだしのゲンが見たヒロシマ」の監督石田優子さんは「中沢さんの思いが映像の中に生きている。若者たちへのメッセージとして、さらに伝えていくことが恩返しになると思う。」と話す。
 東京世田谷区出身。はだしのゲンを初めてアニメ映画で見た小学1年生の時、原爆の熱線でやけどした皮膚が手足の先から垂れ下がる場面がショックで夜眠れなかった。その後、図書館で漫画を読むたび、開いては閉じることを繰り返した。
 「こんな私が映画を作っていいのか」とためらう石田さんの背中を、中沢さんは「思いっきりやってみなさい。信じてるよ。」と押してくれた。
 もともと撮影は、広島市のNPO法人と、所属する映画製作・配給会社が、被爆者や戦争体験者の証言映像を原爆資料館に寄贈したり講演会で流したりする目的で始めた。4人目に登場したのが中沢さんだ。
 6歳で被爆した広島の鮮明な記憶を、聞く人の脳裏に浮かぶように語る力強さに、スタッフのみんながひかれ、映画化が決定。撮影は中沢さんの肺に癌が見つかる2010年9月までの1年間で計約20時間に及び、東京から広島へ何度も足を運んだ。
 重い証言が淡々と続く作品のラストシーンは、中沢さんの無邪気な笑顔だった。
  「核兵器は絶対いかん。100歳までの30年間で映画を作って訴えたい。よー  いスタ ート、言うてね。」
がんの発症が分かる前の映像だ。
 編集中に「亡くなってしまうかもしれない」と不安が頭をよぎったが「だからといって私たちの映画を変えたくない。元気な中沢さんで終わらせたかった。」と振り返る。
 11年4月の試写会。初めての監督作品に中沢さんは一言の注文も付けず「よくやったな」と、にこにこしてねぎらった。
  「きっと、この映画があってよかったと喜んでくれてるんじゃないか。亡くなって  も証言が残り、みんなに見てもらうことができるから。」

私と原爆(2)

68年前の重い記憶をどう伝えるか。様々な思いで広島、長崎を見つめる人々を取り上げ、
できるだけその思いを伝えるべく掲載させていただきます。
第2回目は、バレリーナの森下洋子さんです。
 
私と原爆(2)

  「平和を祈り、踊り続けることが使命と思っています。」
 原爆投下から3年後の広島で生まれたバレリーナ森下洋子さんは、幼い頃一緒に暮らした祖母晴代さんの姿が目に焼き付いている。
 爆心地付近で被爆し、左半身に大やけどを負った当時44歳の晴代さん。遺体と間違われ、亡くなった人たちとともにお経まで上げてもらった。一命は取り留めたものの、顔や手足にケロイドが残り、左手の指はくっついてほとんど動かせなくなった。それでも「生きていられて幸せ」と、笑顔を絶やさず、レストランを営んでいた母や会社勤めの父に代わって面倒を見てくれた。
 1980年に79歳で亡くなるまで、原爆への恨み言は一切聞いたことがない。
  「命の重みやあきらめない強さを、祖母の生き方に教えられました。」
 そして、原爆は決してあってはならないという思いを胸に強く刻んだ。
 3歳でバレエに出遭って60年余り。国内外で活躍し、今も第一線で舞台に立つ。2001年から団長を務めるバレエ団では、団員に「人々が手を取り合っていけるような舞台を届けよう」と呼び掛ける。世界の平和も核廃絶も、
出発点は人を愛する心だと信じているからだ。
 東日本大震災翌年の12年5月、人形をめぐる恋騒動を描いたバレエの名作「コッペリア」を、大災害に見舞われた街を舞台に、犠牲者の鎮魂と復興に力を合わせる希望の物語に作り直し、自ら主演を務めた。
 今週再演すると、上京して観劇した宮城県の女性が「震災が忘れられてきているから、すごくうれしい。」と感想を寄せてくれた。作品を通して震災への思いを共有し、前に進む一助になれたらと願う。いつの日か、東北でも上演するつもりだ。
 森下さんは12歳まで過ごした広島で、すさまじい苦しみを背負いながらも、信念を持って立ち上がろうとする大人たちの熱気を肌で感じた。
  「原爆も震災も、私たちは忘れない。バレエで希望や勇気のメッセージを伝えたい。」
 柔和な語り口に力がこもった。

私と原爆(1)

68年前の重い記憶をどう伝えるか。様々な思いで広島、長崎を見つめる人々を取り上げた記事が新聞に載っていました。
できるだけその思いを伝えるべく掲載させていただきます。
第1回目は、俳優の平幹二朗さんです。

私と原発(1)

 広島におそろしい原発が落ちた−。1945年8月6日、小学6年だった平幹二朗さんは疎開先の広島県上下町(現府中市)で耳にした。広島市で暮らす母久代さんは、原爆ドーム近くの郵便局へ歩いて出勤中で、ほどけた靴ひもを結び直そうと偶然ビルの影でかがんでいて奇跡的に助かった。
 23年前に80歳で亡くなった久代さんと、11月で同じ年齢を迎える。生きたかったであろう原爆犠牲者の思いを「背負っているというか、何かしなきゃいけないと感じる。」
ノンポリな生き方をしてきた自分が「覆い隠していたものから、カバーを取ってみるかな。」と考え始めた。
 戦時中は海軍兵学校のある江田島へ行くのが地元の男の子の道。でも「僕は戦争が怖くて、怖くて仕方なかった。」
 夫が戦地に行けないよう妻が両目を傷つける小説「清作の妻」の筋書きから、兵役を免れる方法を知る。疎開先の親戚の家にあった薪割り用の斧で恐る恐る、指を切断する練習をした。
 “恐ろしい爆弾”の後、久代さんは何日待って帰ってこなかった。焼け野原になった広島市内へ親戚が探しに行き、約15km離れた可部町(現広島市)の別の親戚宅に非難していたと分かった。
 一時、危篤状態に陥った久代さん。頭髪が抜けて目も見えなくなったが、大分県別府市の病院で手術を受け、視力は回復した。
 カナダ生まれの日系2世。療養の後、元気になると単身上京、英語を生かして駐留米軍関係の家でメードとして働きながら、平さんを高校に通わせた。
 父文雄さんは、生後9カ月の平さんを残し23歳で早世。「母1人、子1人で育った。戦争と戦後の貧しさの中、寄る辺がなかった。」と振り返る。
 政治的な質問には終始言葉少なだ。しかし「平和は大事で、戦争を放棄した、世界に数少ない国の在り方を守るべきだと人一倍感じる立場に入る」と語った時は、瞳がひときわ力強く輝いた。       (平幹二朗さん)

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