シギーのブログ談

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(父の戦争体験記 「占守の春 」 No.1から続けてお読みください。)

7.占守よさらば!!

「本当かも知れない!!まさか」と双方の混じり合った
気持ちで毎日の日課を進めていた、当時私は気象観測
をやらされていたので真夜中に起きて出ては村上崎
の波打際に立って、観測ボールのゲージを見たり
又遥かな故郷を偲びながら考え込むこともあった。

二月に入った或る日突然「下士官以上大隊本部に
集合」との命令があった。待ちに待った内地帰還
かも知れない、懐かしい内地が見えるとの予感
で鼓動する胸を押さえたのである。

本部より帰った中島隊長は中隊全員を整列させて
厳粛に「皆よく聞け、明後日朝四時西出に向かい
出発の準備、身辺の整理と転出準備を
それ迄に完了せよ、目的地は不明終わり」
と命令された。

それから隊内は大騒ぎで慌しい張切った梱包作業
と出発準備で懸命であった。

それから私達は懐かしい又悲しい事件のあった
神馬川の基地を栄養失調で死亡した初年兵の
遺骨を抱えて引揚げたのである。

定められた日の午後五時頃幌筵島(ホロムシロトウ)の
片岡に到着、翌日午前二時頃桟橋から船舶隊より
廻された上陸艇に乗り沖合に待機していた御用船
三隻に分乗したのであった。昨年2月に上陸した時は
5,000屯の優秀客船の高島丸で輸送されたが
今度の船は1,700屯から2,000屯の
ボロ船ばかりであった。

「高島丸も潜水艦にやられたとよ!!」
「片岡も毎日のようにB29の空襲だったそうだ」
と色々のニュースを聞かされた。私は1,700屯
の天正丸の船倉の一室の中で異様な形をした
寒中救命胴衣を着けたまま横になり深く
眼を閉じていた。

がんこうらんの花!!そして山田二等兵、後藤二等兵、
尾崎二等兵の死!!トカッリ!!そして島に残してきた
乾燥かぼちゃの空缶のヴァイオリン!!パネル兵舎、
そして中島中隊長の作詞作曲の「神馬川守りの歌」
の一節 ”旭に匂うアライド島 はるかに望むはカムチャッカ
難攻不落の占守島 無敵の要塞神馬川”

苦しかった時歌った歌声等をそれからそれへと
走馬燈の様に頭に描きながら瞑想に耽ったのである。

若者達はそれでも希望に満ちていた。
軈(やが)て各隊を通じて「この船は小樽港
に向かって出航する、米潜水艦が出没するから十二分
に注意せよ!!」と命令が伝達され「わっ」と歓声がわいた。
私は一筋の涙に頬を濡らしつつ深く眼を閉じ眠りに
落ちてゆく。

内地だより、小樽だぜ!!地方人の顔が見える、
生きよう生きている幸せ!!船はジグザグ航路
で静かに静かに航行してゆく。

さようなら占守島!!


ー終わりー

(父の戦争体験記 「占守の春 」 No.1から続けてお読みください。)

6、カジカ 栄養失調のこと

ここ占守島では猛吹雪の季節がやっと過ぎ去って
再びがんこうらん(千島桜)の花が咲く春の訪れを
約していた。

その頃である、各隊のあちこちで栄養失調患者
が出始めた。戦死として広報されている者の
中にはこの悲しい栄養失調で病気をしたものが
かなりいた筈である。私共小隊内では誰言うこともなく
この栄養失調になった患者のことを「カジカ」と
言っていた。

「カジカ」とは前に述べたが北海地方の方言であろうか
千島海域辺りで獲れる頭デッカチの身の比較的
少ない又目玉の飛び出た丁度栄養失調になった
患者の顔つきをした魚である。鱒の一種だったかも
知れない。

占守島付近はご存知の通り最良の漁場であるが
当時は漁どころではない何時米潜にやられる
かもしれない。

例のタラバ蟹はたくさんとれて我々隊でも
漁労班から受配して食べたがこれら魚類は多くても
人間の身体の栄養バランスは難しくものである。
生野菜が一切なかったのだから次第に
栄養失調を来たしてくる。各隊ともこの患者の
続出を見たのである。私の班の尾崎一等兵も
その一人であった。

平ぺったいニキビ顔、ひょろりと足の長いこの
兵隊は愛知県知多郡から来た男であった。

と或る夜中のことであった。ダルマストーブ
の近くでぐっすり寝込んでいた私の肩を
「とんとん」叩く者がいる。私は「何だ」と目を
こすりながら起き上がるとそこにこの寒い
夜中に袴下(こした ズボン下)もつけずと尾崎
が立っているではないか、「尾崎この寒いのに
どうした」と言うと尾崎は済まなそうに
「兵長殿申し訳ありません下血して袴下を
汚しました」と答えた。私は内心大変だと
思い「どこで」と言いひょろひょろしている
彼の後ろに従ったのである。

廻り廊下の隅でたくさんの血が流されている、
そして下痢状となっている。これは栄養失調
が悪化すると内臓が弱り下痢が続く、そして
更に悪化するとついに下血するのである。
尾崎はそれ迄にも軽い栄養失調にかかって
たので練兵休となっていたのであったが
何か急に固いものでも食べたか知れない。

早速私は木下衛生兵を起こして処置を
依頼した。次第に弱っていく尾崎を九州出身者
の堀尾上等兵他三名が尾崎を担送するために
大隊本部に向かったのは朝三時頃であった。
占守の朝三時は夜明けで明るい。
村上崎のパネル兵舎を遠ざかって行く
一行を私は見えなくなる迄見送ったのである。

それから一週間程して私共が洞くつ堀の
1日の作業を終えて「どたり」とパネル兵舎の
床上に身体を投げ出していた時である。
竹田上等兵が突然入ってきて「おい、尾崎が
今朝死んだぞ、かわいそうに、とうとうカジカに
やられたのう」と知らせて来た。私はつい先日迄
同じ班内で平ぺったい顔をして目をしょぼつかせていた
彼の姿を瞼に浮かべて何ともいえない気持ちがした。

それより死体を引き取りに一箇分隊が行く、
その翌日の午後三時頃であった。
松田大隊長も来られ各中隊の選抜兵に護られて
悲しい姿で毛布にくるまった尾崎の死骸が
帰ってきた。そして「火葬衛兵」が立てられた。
私はこの司令の任に当ったのである。

上松上等兵の葬する悲しみを込めた
葬送の音!!そして波打際で小さい
砂浜の上に、カムチャッカ、ロパトカ岬を
目前にして尾崎の亡骸が古丸太の上に
横たえられ重油がかけられて火がつけられた
のである。

そして傍らに五名編成の衛兵が交代で
一人づつ一昼夜立硝したのである。

「ガサガサ」と古木がくずれた炎の間から
僅かに見える尾崎の身体が次第になくなり
「ガサリ」と潰れる、白くなった尾崎の
骨片を見た瞬間私はこの世の運命の
悲しさをひしひしと感じこの哀れな兵隊の
記憶が脳裏に焼き付いてならなかったの
である。

その事件があって丁度我々部隊が占守島に
上陸をしてから一年半経た頃である。
隊内のあちこちで「近く我々部隊は北海道に
引揚げるそうだぞ」と言い噂が立ち始めたのである。

ー 続く −

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