シギーのブログ談

マーチャント・バンク、インベストメント・バンク、投資銀行、航空機ファイナンス、音楽、グルメなど雑談を気ままにしています。

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1990年前後は北欧の銀行や南欧の銀行が自己資本の補足のために期限付きSubordinated Bond
(期限付き劣後債券)やPerpetual Bond (永久劣後債券)を発行していました。

リース会社がカゴヌケ(篭脱け、特別目的会社使用)と呼ばれたスキームをつくって1億ドル程度の金額
をシンジケートを組み積極的に投資していました。ヨーロッパの投資家が劣後債の投資を控えて
いた頃だったので日本のリース会社等のNon-Bank は重要な投資家でした。

期限付きは10−15年満期で5−10ぐらいに金利がかなりステップ・アップする仕組でした。永久劣後債は15年ぐらいで金利が2倍以上になるようなスキームだったと思います。劣後債を発行する銀行に期限前償還の選択権(Call Option)があるものでした。15年ぐらいで金利が跳ね上がるので
銀行が多分コールするから実質は15年満期だろうとの判断でした。

私も某リース会社に幹事(Lead Manager)になってもらいあるスペインの銀行が発行
する永久劣後債の仕組案件をアレンジしたことがあります。

Private Placement (私募)の永久劣後債ではなかったですが既発のイギリスの銀行
のPerpetual Bond(Perp ともいう。)での思い出があります。

当社のロンドンの債券本部のユーロ・ボンド兼ストラクチャード商品
のヘッド・トレーダーが上記の永久劣後債をポジションに持っていました。マーケットの環境
が悪くロンドンのセールスでは売れなかったようです。東京で売れないかと
言うことでコンタクトがありました。東京のトレーダーから渡された電話にて
日本の投資家の好む仕組を彼に話してStructuring によっては売れるかも
と伝えました。

金利のStep Upの簡単な仕組をつくってもらい某事業法人の金融子会社に売りました。
ロンドンのトレーダーのGH氏は在庫がさばけて大変喜んでいました。

1年後くらいにロンドンの債券本部のパートナーのヘッドと一緒にGHなど数人
が東京に来ました。私の馴染みであった防衛庁近くの六本木のカラオケで
歌えるスナックに彼等と一緒に行きました。債券本部のヘッドは美声で歌が上手かったです。
ロンドンにはカラオケがまだほとんどなくGHなどは初めてのようで
楽しんでいました。


GHは後年に日系の大手証券に転職しパブ・チェーンの証券化で稼いだようです。
何年だったかシティでボーナスを最高金額もらったと記事で読んだことがあり
彼がと驚きました。同社からSpin Outして投資会社を創業したと聞きました。

2年前に金融関係に勤める若い方達が目指すPrivate Equity (未公開企業などへの投資)
の情報をインターネットで探しているときにたまたまGHの名前を見つけました。
オオクラ・ホテルでのPEのセミナーのメイン・ゲスト・スピーカーに
なっていました。彼の会社名が分かり駄目もとで挨拶メールを入れ
ました。常套文句の東京かロンドンで又会えたらいいなあとメッセージを
付け加えました。

嬉しいことに私を覚えてくれたようで彼から返信があり偶然でラッキーにも来週に
東京に行くから皆で会おうよと誘いがありました。GH、元同僚など7名が六本木
の鳥居坂の和食店に集まりました。10数年ぶりの再会で
深夜まで酒を飲みました。彼はカラオケの初体験からカラオケに
はまって大好きとのことでした。

一昨年の年末には「an inconvenient truth Al Gore 」不都合な
真実の本が彼の会社から贈られてきました。2007年6月に同社
の投資家の説明会でゴア元副大統領が演説をする予定とレターに
書いていました。

昨年の末にまた「The Great Crash 1929 John Kenneth Galbraith」の
本が贈られてきました。戦前の大恐慌の時代と現在の状況は差異があるが
この本は彼の愛読書で参考になるとレターに書いていました。
サブプライム問題で今年、数年は厳しい年になりそうだが投資機会がある
と述べていました。

ジョージ・ソロスが今年になって戦後最大の恐慌とかマスコミに
言っているように予想以上に欧米人の著名な投資家は現況をシビアに判断している
と後から分かりました。実は私はサブプライム問題は1980年代後半
の不動産、S&L問題と状況がよく似ており20年後に歴史は繰り返すぐらいにしか
予想していませんでした。当時のようにニューヨーク、ロンドン
のマーケットが崩壊すれば相対的に東京の地位があがると
ポジティブに昨年の年末に予想していました。もちろん当時と
違って中国、アジアの諸国、中近東などの産油国が元気なので
東京への期待感は同じシナリオではないと思っていました。

少なくとも最近はサムライ債など活発に発行されて日本のマネー
をよりあてにしているようですね。

米国スーパー・マーケットのK社のSenior Vice President一行がジャンク・ボンドの販売にともない
東京に来られました。日本の投資家向けにANAホテルで説明会を開催しました。

Road Show でハイヤーに乗って個別に商社の子会社、リース会社など十数社の見込み客の会社を訪問しました。K社の方は会社の業務の説明をし、ニューヨークから来た投資銀行部門のスマートなバンカーが発行予定のハイ・イールド債の条件の概要を説明をしました。私は英語のよく分からない顧客の投資担当者にはかいつまんで日本語で説明をしました。

同社は現在でも米国で最大手のスーパーマーケットの一社のようです。
(後年にはケース・スタディとしてLBOではスパーマーケットのSafeway がRecapitalizationではK社が
 よくとりあげられているようです。)

ロード・ショウ後にK社の人達、同僚達と六本木の料亭「篁(タカムラ)」の炉端の席に座って枡酒を交わし美味い料理を食べたのを思い出します。

Metal Powder(金属粉)の技術力をもったJ社ではSpin Off(一事業部門の分離独立)にともない
高利回り債券を発行するものでした。同社の財務部長は指をならしながら金属粉から金属部品を
作る技術力の同社の利点をアピールしていました。プレゼントにランプのような金属製のライターを
記念にもらいました。

フォークリフトなどのメーカーのY社の社長などは大変フレンドリーで楽しい人達でした。
社長は顧客へのプレゼンテーションが大変上手くさすがはCEOだと感心しました。

本社からはHigh Yield 部門のCo-HeadのDSが同行していました。
彼も愉快なひとでした。ロード・ショウで訪問した顧客には毎度、弊社はハイ・イールドでは
No.1になるつもりはなとい言っていました。我が社は他社よりも慎重に会社をScreening(審査)をして
マーケットに出すというような事をアピールしていました。
(インターネットで調べると同社は今でも健在でフォークリフト生産ではトップのようです。)

当時はドレクセル・バーナムがJunk Bondでは郡を抜いてトップでした。私達の会社は2番手でした。
ところが間もなく1990年にドレクセル・バーナムが倒産して当社はNo.1になってしまいました。

六本木のカラオケ・スナックに寄って皆で酒を飲み歌ったりしました。
ヘッドのDSはたまたま誕生日であり米国の彼の奥さんに電話で東京で誕生日の
お祝いを皆でしてもらっていると嬉しそうに話していました。外国人にはカラオケはまだ
珍しい時代でした。
( Co-Head だったDS氏には東京で1年半前に銀座の和食店で久しぶりに再会しました。
  某ヘッジファンドのパートナーの一人でした。もう一人の元Co-Head はソロス・ファンドのCEO後に  某コンサルタント会社のトップの方と一緒にインドに投資しているとその時に彼から聞きました。
  現在はPEの創業者のようです。)

ジャンク債券を多数集めてシニアー債、ジュニア債などを発行するCBO (Collateralized Bond
Obligation)のセールスをしました。ハイ・イールド債のCBO(債券担保証券)はまだ珍しい頃でした。発行して順調なCBOでしたが1年後に投資銀行部門の顧客の取引と債券本部でのCBO取引で
Conflict (利益相反)があるのではないかと問題が某筋から提起されたようでCBOは
期限前償還されました。エクイティ部分の投資家は利益が出ていたそうでした。

前のLBO、ジャンクボンドのブームは1985-1989年あたりで直近はLBO,M&Aのブームは
2006-2007年のようです。約20年のタイムラグですが歴史は繰り返すをつくづく感じる
今日この頃です。

米系投資銀行へ転職

1989年の初めに赤坂アークヒルズにあった某インベストメント・バンクに転職しました。入社してすぐに昭和から平成へと時代が変わりました。米国では1987年のマーケットの崩壊(ブラックマンデー)の後は投資銀行の人員を削減していたようですが東京ではインベストメント・バンクの人員はまだ380名程度で拡大の時期でした。赤坂アーク・ヒルズには受付の豪華さでマスコミで話題になったり学生の就職先で最も人気のあったソロモン・ブラザース証券や米系投資銀行が数社がオフィスを構えていました。

ニューヨークでの最終インタビューを無事に終わり債券本部(Fixed Income Division)に所属することになりました。Non-flowの債券、仕組み商品 (Structured Product)を扱うチームでした。朝礼などの関係で7:30頃早に出社してトレーダーからニューヨークのマーケットの話題や戦略などの説明がありました。

前の銀行系Investment Bankと新会社のスタイルの違いを感じました。前の会社はロンドン本部とコンタクトする機会が多く夜は遅かったですが朝は9時出社でした。Capital Market的なPrivate Placement
業務と債券本部でのビジネスの違いもありました。オフィスはTradingやSalesの人達の電話での声で騒がしくスピードがあり取引が活発でした。映画の「ウオール街」のシーンに出てくるようなディーリング・ルームの席でした。暫くはカルチャー・ショックを感じました。会社の研修を受けないまま入社まもなくにジャンク・ボンドの案件にタッチしあわただしく働き始めました。東京ですがウォール街流の投資銀行のハードワークの始まりでした。

アメリカでは1980年代後半はM&AやLBOの取引が活発で新聞紙上を賑わせていました。これらの取引にともないHigy Yield Bond(又はJunk bond という)の発行が盛んになっていました。ブラック・マンデーの後のマーケットの悪化やジャンク・ボンドのNo.1の投資銀行のドレクセル・バーナム社の問題などでハイ・イールドのマーケットに変化が起こっていました。1989年にはドレクセルの
ジャンク・ボンドの帝王マイク・ミルケン氏がインサイダー取引で有罪の判決が出て牢獄に行くことになった年です。

Junk Bondの調達が米国だけでまかなえなくなっていた時期でバブルの時代である元気な日本の市場に注目していました。東京まで発行体の会社のCEOやCFOなどの役員が投資銀行のバンカーと一緒に資金調達のために来日していました。Road Showという言い方で見込みのある顧客を訪問してPresentation(案件の説明)をしていました。

Junk Bond がHigh Yield と呼び名が変わっていた頃です。ニューヨークの本社が作成した資料を基に日本の投資家向け和文の販売資料の作成に携わりました。英文の中にRecapitalization という耳慣れない言葉がありました。敵対的買収(Hostile Takeover)の防衛策として既存の株式を債券に変える資本変更にともなうハイ・イールドの発行でした。ダイエーがモデルにしたとうスーパーマーケット大手のK社の案件でした。発行した債券の支払いができるか5-7年の会社のCash Flow のProjectionなどが資料の中に記載されていました。


当時はリース会社、住宅金融、事業法人の金融子会社などノン・バンクが積極的にジャンク・ボンドに投資していました。High Yield bondのほとんどの投資家はSenior Subordinated Bond(優先劣後債)を購入していましたが中には支払い順位の劣るJunior Subordinated Bondを買う投資家もいました。ノン・バンクの投資家はHigh Yield Bondに限らず、ヨーロッパの金融機関の劣後債券や欧米企業のPerpetual
Bond(永久劣後債券)の主な投資家でした。

前勤務先の銀行系インベストメント・バンクは航空機のリースや海外向けの仕組みローンの
アレンジではトップ・プレヤーでしたが債券などを使った仕組み商品のビジネスが
より拡大しており変わる場合は本格的な投資銀行に転職を考えていました。

日本経済新聞社の「アメリカの投資銀行」という本を数年前に読んでソロモン・ブラザーズ、
モルガン・スタンレー、リーマン・ブラザーズ、ファースト・ボストン、ゴールドマン・サックス等の
歴史のある投資銀行に大変興味を待っていました。

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日本のリース会社がアルジェリアの国営銀行に数百億円の規模でファイナンスをしていました。
私も国営銀行の一つであるアルジェリア外換銀行向けの篭脱けリースを大手リース会社に仲介したことがあります。

調印式を帝国ホテルで開催しました。リース会社の担当者と当日の調印式の段取りを事前に打ち合わせ
会場の下見をしてチェックをしました。アルジェリアの調印者は駐日アルジェリア大使でした。前もって大使館に連絡をとって出席の事前確認をしていました。現れた大使は気さくな感じで笑顔をたやさず話しやすい人でした。いわゆるテクノクラートの人達は皆さん英語が巧いと思いました。

この日は当社のマーチャント・バンクのManaging Directorや私の上司であるTM氏も調印式の後、主席者と歓談していました。(ちなみにTM氏は後にWeight Of Yen 日本経済の本当
という本を出しニューヨーク、ロンドンで好評でした。リチャード・クー氏、堺屋氏と一緒にテレビにエコノミストとして出たこともありました。彼の「動かぬ日本への処方箋」という本は面白かったです。
Japan As No1の著者エズラ・ボーゲル氏がハバードでの彼の先生だったようです。)

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4件目の案件では正月に愛媛の松山に帰っていましたがロンドンの担当者、トルコのイスタンブール支店担当者と連絡を電話で取り合って1月11日のClosing 予定日に間に合うよう打ち合わせをしました。

トルコのアンカラに代表リース会社の人達と一緒に出張しました。ロンドンから来たCT法律事務所の弁護士と書類の事前チェックを済ませました。(私のロンドンの相棒のRI氏はトルコで会った時には皆に両手の親指を耳にあて手を開いてひらひらさせておどけるタイプの面白い人でした。後に彼はロンドン本部のプロジェクト・ファイナンス担当マーネージング・ディレクターに昇進していました。)

シンジケート・ローンの契約はイギリスの法律を準拠法にするのが一般的です。同国財務省のビルで調印式が行われました。財務省が公共事業庁向け割賦販売契約書、ローン契約書にに保証をしていました。財務省次官と公共事業庁の高官が同席していました。(後に彼らは中央銀行の総裁やトルコ・欧州委員会の委員長などに要職についていました。)調印が無事終了して出席者でトルコ料理の昼食を食べ
歓談しました。

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