|
1965年頃から父親がアメリカの”フォークの父”といわれている
ピート・シーガー(Pete Seeger)と職場の同僚を介して文通しており
フォーク・ソングの話題をよく聞きました。当時私は中学生でした。
父親がピートの作詞・作曲した「花は何処に行った
(Where have all the flowers gone」や彼の共作の
「勝利をわれらに(We shall overcome)]の歌を英語で度々歌っていました。
父親はピートのレコードや本を職場の同僚を通じて貰っていました。
何年前に私がそのうちの何冊か貰いました。
1967年10月にピートが家族と一緒に愛媛・松山にピートの
奥様(日系アメリカ人Ms.Toshi)の
親戚を尋ねた時に父親が彼に会う機会がありました。
松山城などを案内したようです。
1986年頃にまた松山にピートと家族がまた訪れ父親が再会することが出来ました。
この時は旅館の一室でピートはバンジョで同行してきたお孫さんと一緒に歌ったり
して楽しんだようです。父親もハーモニカで演奏に参加したようでした。
( この2回の会見の際にピートと一緒に写った写真が何枚かあります。)
中学、高校時代亜はザ・ブロードサイド・フォー「若者たち」、森山良子「この広い野原いっぱい」
などが流行っており私も学校などで合唱した覚えがあります。
森山良子は日本のジョーン・バエズと言われていました。
私の両親は1970年頃に広島でのジョーン・バエズの
コンサートの際にピートの奥様(Ms.Toshi)の紹介で
特別にジョーン・バエズとも会えました。
1967年頃に流行った「青春の光と影」のジュデイ・コリンズとも
松山で会いやはり松山城を案内しました。
(このバエズ、コリンズと父親が一緒の写真があります。)
高校受験の頃だったか高石ともやの「受験生ブルース」の曲が
ラジオからよく流れていました。高校二年生の時に大学生であった兄の影響もあり
松山市駅の駅前でフォーク・ソングを大学生と一緒に歌ったことがありました。
岡林信康の「友よ」,「くそくらえ節」や高田渡の「自衛隊に入ろう」などの曲でした。
当時はベトナム戦争反対の反戦歌が多かったです。
高校の学生集会でフォークの集会の話題をしたところ
学生指導の先生に後で呼び出しを受けたことがありました。
「平和を訴えてなぜ悪いのですか」と言ったところ「君の根がもっと
大きくはって大樹になってからにしろ」と言われました。
私は50代の今も根はしっかりと張っていません
五つの赤い風船の「遠い世界に」も高校生の頃よく聴きました。
ジローズの「戦争を知らない子供たち」、加藤和彦と北山修の
「あの素晴らしい愛をもう一度」などが流行っていました。
日本の「ピート・シーガー」と言われる小室等の「雨が空から降れば」
の曲も1971年頃であったと思います。
福岡の大学に入学したのが1972年でしたが入学当初は合ハイ(合同ハイキング)といって
女子大学生との親睦会が何度かありました。ギターを持って行く友人がいて
公園の広場などで参加者全員でフォーク・ソングを合唱して楽しみました。
もとまろの「サルビアの花」、古井戸の「さなえちゃん」、
吉田拓郎の「結婚しようよ」は入学当初に流行っていた曲でした。
間借りのアパートが一緒だった若くして亡くなった友人M君がよく
吉田拓郎の曲をギターを弾いて歌っていたのを思い出します。
彼はもちろん髪が肩近くまで伸びていました。
ビリー・バンバンの「さよならをするために」もこの頃よく歌いました。
( 何年か前に娘の中学校でビリー・バンバンのコンサートがあり久しぶりに
「さよならをするために」と「白いブランコ」を聴きました。すごく良かったです。)
その後ガロの「学生街の喫茶店」、吉田拓郎の「旅の宿」、
井上陽水の「傘がない」、泉谷しげるの「春夏秋冬」などが流行りました。
ギターが弾ける連中がもてはやされた時代だったです。私はギターは弾けないので
フルートでフォーク・ソングの曲を間借りの部屋で吹いていました。
大学二年生頃(1973年)にはかぐや姫の「神田川」がポピュラーになっていました。
学生の中にも同棲する者もいて私なんかは同棲生活に少し憧れた思いがあります。
「神田川」は私の愛唱歌です。ちょうど同じ時期に
福岡出身の井上陽水の「心もよう」もラジオからよく流れていました。
キーが高く私はうまく歌えない曲ですが大好きな1曲です。
同じ福岡出身の海援隊の「母に捧げるバラード」やチューリップの「心の旅」
もこの頃でした。福岡には有名な『昭和 』というライブ・ハウスがあり
井上陽水、海援隊、チューリップ、甲斐バンドが当時出演していたようだです。
私は残念ながらこの店には数回しか訪れていません。
チェリッシュの「若草の髪かざり」、「白いギター」の曲も流行しました。
「若草の髪かざり」は姉の結婚式の時に父がバイオリンで
私がフルートで演奏した想い出の曲です。
大学3年生の頃(1974年)はダ・カーポの「結婚するって本当ですか」
や中村雅俊の「ふれあい」の曲が好きでした。「ふれあい」は
よく口ずさみました。マイペースの「東京」も思い出深いです。
東京に淡い憧れを持ちました。
甲斐バンドの「バス通り」もこの頃だったです。
大学4年生の頃(1975年)はかまやつひろしの「我が良き友よ」
や風の「22才の別れ」がよく歌われていました。
この歌では女性が22才ですがちょうど私も22才で
なぜか共感があり大好きな曲です。いまでも
カラオケで歌っています。
バンバンの「 「いちご白書」をもう一度 」。
この曲もやはりいまでもカラオケの愛唱歌の一つです。
地方の大学でもありまだ最後の学生運動が残っていた
時代でした。1年生の時には無期限ストライキと
銘打って授業がほとんどなかったです。
学園紛争も経験して就職活動もしないといけない
4年生でこの曲の歌詞が身にしみました。
イルカの「なごり雪」もちょうどこの頃流行りました。
荒井由実の「あの日にかえりたい」も
大好きな曲でした。よくフルートで吹いていました。
卒業してから地元の銀行の軽音楽部でこの曲をコンサートで
合奏した想い出があります。
社会人になってからはカラオケで青春時代を思い出して
フォーク・ソングをマイク片手に歌うか時々フルートで
フォーク・ソング大全集にある曲を吹いて楽しんでいました。
数年前からJR駅の広場あたりでギターを持って
歌っている若者を見るたびに当時が懐かしくブームは
繰り返すのかなあと嬉しく感じています。
|