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祥陀羅尼山 薬樹王院 滝山寺 天台宗
撮影地:愛知県岡崎市滝町
三門 保安年間(1120〜24年)〜文永四年(1267年)
文永四年(1267年)、飛騨権守藤原光延(飛騨の内匠)が建立したもので、三間一戸の壮大な楼門である。柿(こけら)ぶきの思い切り張り出した大屋根の勾配はゆるやかではないが反転があり、軸部はやや狭小であるが構造形式もよく整い、鎌倉時代の特色である雄建美がある。
門の両側に控える仁王像は運慶仏師の作だといわれており、正面に掲げられた「瀧山寺」の扁額は日本三蹟の一人である藤原行成の八代の孫、行純の子で世尊流の書家の作である。
本堂
貞応元年(1222年)三河の地頭で清和源氏の流れをくむ足利義氏が額田郡碧海の庄、吉良の東条・西条の住人に命じて五間四方の本堂を建設した。
現在の本堂は、明治四十三年頃に解体・大修理をしたものであるが、桧皮ぶきの寄せ棟造りで、ことに肘木の彫刻は極めて雄々しく、虹梁・木鼻・蟇股(かえるまた)等と共に鎌倉建築の特徴をよく表している。 また、和様・唐様・天竺様を取り入れた様式は、何れもが当代の名工の手になった会心の作で、唐様建築が行われ始めた鎌倉建長寺の建立に先立つこと三十年、藤原文化から鎌倉文化への様式の過渡期に当たり、古い伝統を守りながら早くも大胆に新来の様式を加味していることは興味深いものである。 このことから瀧山寺本堂は古建築の中でも特に名建築といわれる所以である。明治三十七年国指定重要文化財に指定。 梵鐘
徳川五代将軍 綱吉公寄進 元禄十年十一月十四日
Nikon D800・Ai AF-S Zoom Nikkor ED 28-70mm F2.8D(IF)
吉祥陀羅尼山薬樹王院と号し、本尊は薬師如来。瀧山寺縁起によれば、朱鳥元年(686年)奈良時代の伝説的な山岳修行者、小角(おづぬ)が青木川の滝壺から薬師如来を拾い上げ、安置するために「吉祥寺」という一堂を建てたのに始まると言われる。
小角は自ら薬師如来像を彫刻し、その仏身に金色の薬師如来を納め御堂に安置しました。 やがて400年の月日が流れ、保安年間(1120〜24年)、比叡山で修行した仏泉上人永救(ぶっせんしょうにんえいぐ)が、仏法興隆のためこの地に来住。荒廃してしまっていた吉祥寺跡に再び霊場を建て、物部氏の外護により本堂を造営しました。
上人を慕って弟子入りするものは跡を絶たず、境内には360もの寺院が建立され、そのころに官府の命によって寺名を「瀧山寺」と改めました。 その後、物部氏に替わり熱田大宮司家が大壇那となり、熱田大宮司季範夫妻の孫、寛伝上人に話は移っていきます。 源頼朝の従兄弟にあたる寛伝上人は瀧山寺僧侶となり、縁故から頼朝公の厚い信仰を得ました。頼朝公没後には、菩提のため正治三年(1201年)頼朝公の3回忌にあたるこの年に惣持禅院を創建。本尊として頼朝公の御歯と御髪を納めた聖観音菩薩・梵天・帝釈天の三尊像を仏師、運慶・湛慶父子が造立しました。
その後は承久の乱後に三河守護足利氏が壇越となり最盛期を迎えます。 その後、貞応ニ年(1223年)には足利義氏が本堂立替を援助し、泰氏・頼氏・家時・貞氏の歴代も所領や仏具を寄進、瀧山寺は足利氏の準菩提寺となっていきました。また、室町時代には三代将軍義満の援助により本堂が造営されたが、戦乱によって次第に寺盛は衰退していきます...
そのさらに400年後の江戸時代。瀧山寺は再び中興を見せます。比叡山天海僧正の命により住職となって入寺した亮盛上人は三代将軍家光公に見いだされ、寛永十八年(1641年)家光公より朱印地を拝領する。正保三年(1646年)には、家康公誕生の地の守護である瀧山寺隣地に東照宮が設立されました。
この江戸時代には「青龍院・玉泉院・常心院・浄蓮院・観量院・密厳院」の六坊があったが、明治初期に廃され、現在浄蓮院のみが瀧山寺本坊として残っています。 |
最澄(天台宗)
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