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尾山神社
撮影地:石川県金沢市尾山町
LUMIX GX7・LUMIX G 14-42㎜ F3.5−5.6 ASPH.MEGA O.I.S
神門
明治8年の建築で、和漢洋の三洋式を混用した異色の門として全国に知られ、兼六園と共に金沢市のシンボルにともなっています。第一層には戸室石(角閃安山岩)を用いてあり、第三層は四面五彩のギヤマン張りで、もとは御神灯が点灯され、その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標たらしめたものです。なお第三層目に設置された避雷針は、日本最古のものです。
織田信長公に仕え青年時代は赤母衣衆として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。
前田利家公の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています。実母が利家公の母の姉で利家公とは従兄関係であり、利家亡き後は、芳春院と号しました。
金谷神社
二代藩主前田利長公をはじめ三代から十七代までの藩主、当主と正室(夫人)をお祀りしています。
東神門
旧金沢城の二の丸の唐門で、明治3年以来旧卯辰山招魂社前にあったものを、昭和38年に当社境内地に移築しました。金沢城は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この門が幸い難をのがれたのは、唐門の二匹の竜が水を呼んだためと言い伝えられています。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物です。
尾山神社
慶長4年(1599)閏3月3日、利家公が薨去します。その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。
そこで利長公は、守護神としていた物部八幡宮ならびに榊葉神明宮を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、利家公の神霊を合祀しました。これが、卯辰八幡宮です。むろん藩あげて、厚く祭儀を執り行い、尊崇しました。
ちなみに、物部八幡宮は、もと東海老坂村の鎮座です。利長公が、越中国の守山城におられたとき、守護神としていました。榊葉神明宮は、もと越中国阿尾の鎮座です。
さて、廃藩置県後、旧加賀藩士等は祭祀を継続し、利家公の功績を不朽に伝えんと、明治6年旧金谷御殿の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。尾山神社と称して、郷社に列せられます。翌明治7年には県社に昇格、そののち明治35年には別格官幣社に列せられました。また、平成10年には正室であるお松の方も合祀されました。
廃藩後、旧藩士たちは禄を離れて、必ずしもその生活は楽ではなかったはずです。
それにしては、素晴らしい雄大な社殿を造営したものと感嘆いたします。これもひとえに、利家公の神威の然らしめるところ、前田家三百年の仁政があればこそです。利家公を敬慕し、仁政に浴した士民が、こぞって忠誠と感謝のまごころを捧げてきた結果でしょう。
戦後は神社社格制度が廃止され、現在は神社本庁の別表神社になっています。今では金沢市の総社的神社として崇敬されるにいたり、市民の心の故郷として親しまれています。
尾山神社HPより
25年ぶりの再訪でした。
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2019年08月21日
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