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檜尾山 観心寺 高野山真言宗 遺跡本山
撮影地:大阪府河内長野市寺元
阿弥陀堂
御影堂
行者堂
役行者 西日にあたっていました。
開山堂
道興大師御廟
星塚 七 破軍星
観心寺は、日本で唯一の北斗七星を巡礼する霊場でもあります。
境内には7つの星塚がある。 Nikon D300・AF-S DX VR Zoom-Nikkor ED 18-200mm F3.5-5.6G(IF)
空海は高野山を開くための拠点として観心寺を整備された。
当時の真言宗の主なルートは
高野山→観心寺→飛鳥 川原寺→奈良 東大寺→京都 東寺である。
一日約十里を歩いて高野山から京都まで4日の行程。
過去を追うな 未来を願うな
過去は すでに捨てられた
そして未来は まだやってこない
ただ 今日なすべきことを熱心になせ
釈尊のことば
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空海(真言宗)
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今歴史上の人物で興味があるのは「空海」と「西行」です。
歴史、古典が苦手な私が写真撮影することで歴史上の人物に興味を覚えました。弘法大師 空海にまつわる地を訪れた際の記録として書庫を加えました。
「空海の風景」「空海の道」では司馬遼太郎さん、永坂嘉光さんにあまりにも失礼なので単に「空海」とします。
歴史、古典が苦手な私が写真撮影することで歴史上の人物に興味を覚えました。弘法大師 空海にまつわる地を訪れた際の記録として書庫を加えました。
「空海の風景」「空海の道」では司馬遼太郎さん、永坂嘉光さんにあまりにも失礼なので単に「空海」とします。
頭上には広大な空があった。前方には果てない海があった。
空や海に比べれば、自分は小さなものだ。しかし真言を唱えている瞬間、空と海の広がりの中に自分というものが融け込んでいき、世界と
自分が一つのものになった気がした。自分というものが世界全体に広がっていき、空と海とが、自分の中に入り込んでいく・・・・・
三田誠広 「空海」より
空や海に比べれば、自分は小さなものだ。しかし真言を唱えている瞬間、空と海の広がりの中に自分というものが融け込んでいき、世界と
自分が一つのものになった気がした。自分というものが世界全体に広がっていき、空と海とが、自分の中に入り込んでいく・・・・・
三田誠広 「空海」より
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檜尾山 観心寺 高野山真言宗 遺跡本山
撮影地:大阪府河内長野市寺元
楠公学問所 中院
鎮守堂 阿梨帝母天堂 重要文化財
金堂 国宝
弘法大師礼拝石
建掛堂 重要文化財
楠木正成首塚
Nikon D300・AF-S DX VR Zoom-Nikkor ED 18-200mm F3.5-5.6G(IF)
観心寺は、文武天皇の大宝元年(701年)、役小角によって開かれ、初め雲心寺とよばれていた。
その後、平安時代の初め大同三年(808年)に弘法大師空海が当寺を訪ねられた時、境内に北斗七星を勧請され、弘仁六年(815年) 衆生の除厄のために本尊如意輪観音菩薩を刻まれて寺号を観心寺と改称される。 弘法大師は当寺を道興大師実恵に附属され、実恵は淳和天皇から伽藍建立を拝命して、その弟子真紹とともに天長四年(827年)より 造営工事に着手された。 以後、当時は国家安泰と厄除の祈願寺として、また高野山と奈良・京都の中宿として発展する。 後醍醐天皇は当寺を厚く信任され、建武新政後(1334年頃)、 楠木正成を奉行として金堂外陣造営の勅を出され、 現在の金堂ができた。正成自身も報恩のため三重塔建立を誓願される。延元元年(1336年)、神戸の湊川で討死後、正成の首級が 当寺に送り届けられ、首塚として祀られている。
その後、当寺は足利、織田、徳川にそれぞれ圧迫を受け、最盛期五十余坊あった塔頭も現在わずか二坊になっているが、境内は 史跡として、自然に恵まれた環境の中で、山岳寺院の景観を保持している。 |
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龍池山 弘川寺 真言宗醍醐派 準別格本山 「西行法師終焉地」
撮影地:大阪府南河内郡河南町弘川
西行法師の墓
願わくは 花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ
西行
尾山篤二郎揮毫
仏には 桜の花を奉れ わが後の世を 人とぶらはば
佐々木信綱揮毫
西行人のみたまつつむと春ごとに 花散りかゝる そのはかのうえ
安田章生の歌碑
尋ねえて 袖に涙のかかるかな 弘川寺に残る古墳
似雲自筆の歌碑
本堂
Nikon D300・AF-S DX VR Zoom-Nikkor ED 18-200mm F3.5-5.6G(IF)
弘川寺は一度訪ねたいと思っていたが、やっと実現しました。
西行記念館が工事中で入れず、西行の真筆を見る事が出来なかったのが残念でした。
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龍池山 弘川寺 真言宗醍醐派 準別格本山 「西行法師終焉地」
撮影地:大阪府南河内郡河南町弘川
鐘楼と護摩堂
本堂
御影堂
護摩堂
鎮守堂
時じくに 松風のおと すみひゞく 西上人のおくつきどころ
佐沢 波弦 西行堂
年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり小夜の中山 西行 川田 順揮毫
Nikon D300・AF-S DX VR Zoom-Nikkor ED 18-200mm F3.5-5.6G(IF)
弘川寺は、天智天皇代、役行者によって開かれた寺院と伝えられています。また、大干魃のあった天武天皇の代、弘川寺にあった役行者に、雨乞いの祈祷をせよとの勅願があり、役行者はそれに見事答えて雨を降らせたといいます。そのため、天皇はみずから弘川寺に行幸し、以来勅願所となった、という伝説もあります。
弘川寺では、奈良時代の高僧、行基菩薩もこの地で修行したとも伝説されています。また、弘仁三年(812)には、嵯峨天皇の勅命によって弘法大師空海が中興したとも伝えられ、現在弘川寺には、弘法大師を祀る御影堂があります。確かであるのは、平安末期は文治四年(1188)、後鳥羽天皇の病気平癒の為、弘川寺に住していた空寂上人は、宮中で「尊勝仏頂法」を厳修。その功績によって、弘川寺奥の院として「養成寺」が建てられるなど、弘川寺は全盛期を迎えます。歌人として有名な西行法師は、空寂上人を慕って文治五年(1189)に来山。翌年2月16日、この地で73歳で死去しています。いよいよ隆盛を極めた弘川寺も、寛正四年(1463)に兵火によって全山焼失。やがて弘川寺のみ復興されました。近世は西行法師を慕ってやまず、弘川寺に西行堂を建てるなどして「今西行」と呼ばれた歌人、似雲法師があります。
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長沼山 萬徳寺 真言宗豊山派
「牡丹寺」
撮影地:愛知県稲沢市長野町東堤野
本堂
多宝塔と鎮守堂
多宝塔 国重要文化財
多宝塔は、下層を三間四方、内部に二本の円柱を立て来迎柱とし、前に仏壇を置く。屋根は宝形造、檜皮葺とし、頂に相輪をあげる。
建立時期が確認できないものの、様式・技法等から室町時代後期の建築と推定される。 鎮守堂
鎮守堂は、多宝塔(重要文化財)の北に位置し、八幡社ともよばれている。
建物は、一間杜流造で屋根は檜皮葺、棟札から享禄3年(1530)の建立であることが知られる。小規模ながら、建立年代の明らかな建造物として貴重な遺構である。 楊柳観音
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
勅願で慈眼が創建となっています。 木曾川の洪水で荒廃 承和元年(834年) 空海が再興 江戸時代は尾張国真言宗の 本山となり 末寺53ケ寺があったと言われています。 |



