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東山菅原神社
撮影地:石川県金沢市東山
LUMIX GX7・LUMIX G 14-42㎜ F3.5−5.6 ASPH.MEGA O.I.S
1820年(文政3年)加賀藩十二代藩主 斉広の時に初めて金沢の犀川と浅野川の両地に妓楼を置くことが許可されました。そこで、犀川は石坂町に、浅野川は卯辰茶屋街で家屋を建てて、営業をはじめまました。その後、学問の神様と呼ばれる菅原道真を祀り、芸妓たちの守り神、ひがし茶屋街の鎮守社として創建されたのが、「東山菅原神社」です。
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神々の詩
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街中の赤い鳥居、田んぼの中のこんもりした森、山の頂の小さな社、全国至るところに神社はあります。神社のある風景、それは映画やドラマでもおなじみの、ごく身近な、しかし日本にしか見られない独特の風景です。
このような神社を中心とした、日本の神々への信仰が神道です。
神道は、日本人の暮らしの中から生まれた信仰といえます。遠い昔、私たちの祖先は、稲作をはじめとした農耕や漁撈などを通じて、自然との関わりの中で生活を営んできました。自然の力は、人間に恵みを与える一方、猛威もふるいます。人々は、そんな自然現象に神々の働きを感知しました。また、自然の中で連綿と続く生命の尊さを実感し、あらゆるものを生みなす生命力も神々の働きとして捉えたのです。そして、清浄な山や岩、木や滝などの自然物を神宿るものとしてまつりました。やがて、まつりの場所には建物が建てられ、神社が誕生したのです。このように、日本列島の各地で発生した神々への信仰は、大和朝廷による国土統一にともない、形を整えてゆきました。そして、6世紀に仏教が伝来した際、この日本固有の信仰は、仏教に対して神道という言葉で表わされるようになりました。
神道の神々は、海の神、山の神、風の神のような自然物や自然現象を司る神々、衣食住や生業を司る神々、国土開拓の神々などで、その数の多さから八百万の神々といわれます。さらに、国家や郷土のために尽くした偉人や、子孫の行く末を見守る祖先の御霊も、神として祀られました。奈良時代にできた『古事記』『日本書紀』には、多くの神々の系譜や物語が収められています。
神道の信仰が形となったものが祭りです。祭りは、稲作を中心に暮らしを営んできた日本の姿を反映し、春には豊作を、夏には風雨の害が少ないことを祈り、秋には収穫を感謝するものなどがあり、地域をあげて行われます。祭りの日は、神社での神事に加えて神輿や山車が繰り出し、たくさんの人で賑わいます。
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尾山神社
撮影地:石川県金沢市尾山町
LUMIX GX7・LUMIX G 14-42㎜ F3.5−5.6 ASPH.MEGA O.I.S
神門
明治8年の建築で、和漢洋の三洋式を混用した異色の門として全国に知られ、兼六園と共に金沢市のシンボルにともなっています。第一層には戸室石(角閃安山岩)を用いてあり、第三層は四面五彩のギヤマン張りで、もとは御神灯が点灯され、その放つ光は金沢の街を照らし、また遠く日本海を航行する船の目標たらしめたものです。なお第三層目に設置された避雷針は、日本最古のものです。
織田信長公に仕え青年時代は赤母衣衆として従軍しました。槍の名手だったため、「槍の又左」の異名をもって敵軍に怖れられました。
前田利家公の正室で、学問や武芸をたしなむ才能豊かな女性であったと伝えられています。実母が利家公の母の姉で利家公とは従兄関係であり、利家亡き後は、芳春院と号しました。
金谷神社
二代藩主前田利長公をはじめ三代から十七代までの藩主、当主と正室(夫人)をお祀りしています。
東神門
旧金沢城の二の丸の唐門で、明治3年以来旧卯辰山招魂社前にあったものを、昭和38年に当社境内地に移築しました。金沢城は、たびたび火災にあい、そのほとんどが焼失しましたが、この門が幸い難をのがれたのは、唐門の二匹の竜が水を呼んだためと言い伝えられています。今では、桃山風御殿建築の様式を偲ぶ貴重な建造物です。
尾山神社
慶長4年(1599)閏3月3日、利家公が薨去します。その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。
そこで利長公は、守護神としていた物部八幡宮ならびに榊葉神明宮を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、利家公の神霊を合祀しました。これが、卯辰八幡宮です。むろん藩あげて、厚く祭儀を執り行い、尊崇しました。
ちなみに、物部八幡宮は、もと東海老坂村の鎮座です。利長公が、越中国の守山城におられたとき、守護神としていました。榊葉神明宮は、もと越中国阿尾の鎮座です。
さて、廃藩置県後、旧加賀藩士等は祭祀を継続し、利家公の功績を不朽に伝えんと、明治6年旧金谷御殿の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。尾山神社と称して、郷社に列せられます。翌明治7年には県社に昇格、そののち明治35年には別格官幣社に列せられました。また、平成10年には正室であるお松の方も合祀されました。
廃藩後、旧藩士たちは禄を離れて、必ずしもその生活は楽ではなかったはずです。
それにしては、素晴らしい雄大な社殿を造営したものと感嘆いたします。これもひとえに、利家公の神威の然らしめるところ、前田家三百年の仁政があればこそです。利家公を敬慕し、仁政に浴した士民が、こぞって忠誠と感謝のまごころを捧げてきた結果でしょう。
戦後は神社社格制度が廃止され、現在は神社本庁の別表神社になっています。今では金沢市の総社的神社として崇敬されるにいたり、市民の心の故郷として親しまれています。
尾山神社HPより
25年ぶりの再訪でした。
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人穴富士講遺跡
浅間神社
撮影地:静岡県富士宮市人穴
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
人穴浅間神社
かつては「光きゅう寺(こうきゅうじ)大日堂」があったとされるが、神仏分離令を受けて廃され、「人穴浅間神社」が置かれた。
昭和17年(1942)に少年戦車兵学校の開校に伴い地区の山野が演習地となり浅間神社も移転したが、昭和29年に復興された。現在の社殿は平成13年に建立されたものである。 洞穴内には、祠と碑塔3基と石仏4基が建立されている。
洞穴は、南西の端が進入口となり、洞穴中央部でくの字型に曲がっている。入口から約20mの位置に祠が、30mの屈曲部手前中央には直径約5mの溶岩柱がある。最奥部までは約80mで、そのまま閉塞していると考えられている。 ※安全対策を行った一部区間については入洞可能です。(洞穴内に入るには事前申込が必要です。) 文化財保護、安全上の問題から無断で入らないようお願いします。 人穴浅間神社の境内地には、富士講信者が建立した232基の碑塔が存在する。
18世紀中頃から、江戸を中心に富士講が隆盛すると、人穴は霊地(西の浄土)として信仰されるようになり、18世紀末以降、現在の東京都・埼玉県・千葉県を中心とした関東地方の富士講信者によって「墓碑供養碑」「祈願奉納碑」「顕彰記念碑」などが建立された。講(枝講)ごとにまとまって建立されており、刻銘から、各講の歴史や構成地域を知ることができる。 人穴富士講遺跡は、人穴浅間神社の境内にある。ここには、犬涼み山溶岩流内にできた長さ約83メートルの溶岩洞穴「人穴」と富士講講員が建立した200基を超える碑塔等がある。また、ここには、甲州街道や山梨県郡内地方に通じる郡内道(人穴道)が通っていた。
『吾妻鏡』には人穴探検の様子が描かれている。この人穴探検談は、後に浅間大菩薩の霊験譚「人穴草子」としてまとめられ、近世には富士講の隆盛もあり広く普及した。また、『吾妻鏡』には、人穴は「浅間大菩薩の御在所」とあり、当時人穴が富士山信仰に関係する場所であったことがうかがえる。 富士講の資料によると、江戸の富士講の開祖長谷川角行は、人穴に篭って修行し、仙元大日神の啓示を得たとされる。角行の教えは、江戸時代中期以降、江戸を中心に広まり、数多くの富士講が組まれた。また、角行は人穴で亡くなったとされ、人穴は富士講の浄土(浄土門)とされた。このため、人穴は角行の修業の地・入滅の地や仙元大日神のいる場所として信仰を集め、参詣や修行のために人穴を訪れる講員も多く、人穴は先達の供養碑や記念碑などの碑塔を建立することも多く行われた。 また、近世、人穴には、光きゅう寺(大日堂)があったとされる。光きゅう寺は修行者の世話をする施設だと考えられており、赤池家が管理していたとされる。赤池家は、この他、溶岩洞穴「人穴」やその周辺を管理し、参詣者の案内や修行者の世話、お札・御朱印の授与、碑塔建立の世話等を行っていた。 明治初年の神仏分離令・廃仏毀釈により、光きゅう寺(大日堂)は廃され、人穴浅間神社が置かれた。昭和17年(1942)には付近が軍用地として接収されたため周辺住民とともに人穴浅間神社は移転し、昭和29年(1954)現在地に復興した。なお、富士講の衰退もあり、碑塔の建立は昭和39年(1964)以降行われていない。 富士宮市HPより
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神明社
撮影地:愛知県長久手市神門前
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
石造りの八幡鳥居は、江戸時代初期の1662年(寛文二年)のもので、神明社は神明鳥居が建てられるのが一般的と云われる中、八幡鳥居が建てられたことは特異な例と紹介されています。
二ノ鳥居は神明鳥居
祭神 天照大御神
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羊神社
撮影地:愛知県名古屋市北区辻町
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
第二次大戦の名古屋空襲では周辺は焼けたのに羊神社だけは焼け残ったという。
御祭神
天照大神 火之迦具土神
由緒 創立年代は不詳成れど、平安時代第六十代醍醐天皇の御代(西暦901〜930年)にまとめられた延喜式神名帳に、尾張の国山田郡羊 神社と記され、本国帳に従三位羊天神と有る古社である。神社に保存されている棟札によれば、本殿は慶長18年(1613)に再建されたとある。その後天保9年(1838)尾張第11代藩主徳川斉温公の時代に改築され今日に至っている。 鎮座地は「つじ町」は「ひつじ」から「ひ」をとって名付けたともいわれる。 里の名を辻という御社の 羊の名にし負へるとぞ聞く 昔から氏子区域には極めて火災が少なく「火災除」の神として崇敬者も多い。 社名の由来
群馬県多野群吉井町にある「多胡碑」(日本三古碑の一つ)に刻されている多胡群の領主、羊太夫が奈良の都へ上がる時に立ち寄っていたゆかりの屋敷がこの地(現辻町)にあり、人々が平和に暮らせるように「人心を安らかに」という願いを込めて、羊太夫が祀ったといわれ、誰言う事無く「羊 神社」と呼び称えるようになったと伝えられている。 尾張誌に「今、村の名を辻と言えるのは羊の省かりたるやとそ」尾張国地名考に「住昔火辻村といひしを後世火の字を忌て単に辻村と書くといふ」と記されている。 |



