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久能山 東照宮
撮影地:静岡県静岡市駿河区根古屋
御祭神 徳川家康公
相殿 豊臣秀吉公
織田信長公
一の鳥居
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
表参道
1159段 「いちいちご苦労さん」
一の門 門衛所
汗が出てきたので休憩、情けない!
桜門
東照宮の御祭神である徳川家康公は天文11年(西暦1542年)12月26日、三河国(現在の愛知県)の岡崎城でお生まれになりました。時は戦国時代、ご幼少のころより人質のご身分であった家康公はあらゆる艱難辛苦を跳ね除け、遂には天下を統一し征夷大将軍の座に就かれました。戦国時代の混乱は家康公の治世によってたちまち回復し、あるゆる産業、学問、文化が花開いた「太平の世」が始まったのです。
晩年を駿河国(現在の静岡県)駿府城で過ごされた家康公は、元和2年(1616年)4月17日に75年の生涯を結ばれました。亡くなる直前、余命いくばくもないことを悟られた家康公は家臣たちに「遺骸は久能山に埋葬すること」を遺命として託されました。ご遺命の通りに遺骸はただちに久能山に遷され、二代将軍徳川秀忠公は久能山に徳川家康公を祀る神社を造営することを命じました。大工棟梁には中井正清が選ばれ同年5月に着工、1年7ヶ月の期間で建てられたのが久能山東照宮です。
社殿は当時最高の建築技術・芸術が結集された「 権現造 ( ごんげんづくり ) 」の様式で、日光東照宮を始め全国に多数造営された東照宮は久能山東照宮が原型とされました。また、棟梁を担当した中井正清はその生涯で名古屋城(国指定特別史跡)・仁和寺(重要文化財)・二条城(国宝、世界文化遺産)など現在にも残る重要な建造物を手がけましたが、久能山東照宮は中井正清の晩年の傑作であるという評価から、平成22年に国宝に指定されました。 静岡鉄道HPより
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神々の詩
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街中の赤い鳥居、田んぼの中のこんもりした森、山の頂の小さな社、全国至るところに神社はあります。神社のある風景、それは映画やドラマでもおなじみの、ごく身近な、しかし日本にしか見られない独特の風景です。
このような神社を中心とした、日本の神々への信仰が神道です。
神道は、日本人の暮らしの中から生まれた信仰といえます。遠い昔、私たちの祖先は、稲作をはじめとした農耕や漁撈などを通じて、自然との関わりの中で生活を営んできました。自然の力は、人間に恵みを与える一方、猛威もふるいます。人々は、そんな自然現象に神々の働きを感知しました。また、自然の中で連綿と続く生命の尊さを実感し、あらゆるものを生みなす生命力も神々の働きとして捉えたのです。そして、清浄な山や岩、木や滝などの自然物を神宿るものとしてまつりました。やがて、まつりの場所には建物が建てられ、神社が誕生したのです。このように、日本列島の各地で発生した神々への信仰は、大和朝廷による国土統一にともない、形を整えてゆきました。そして、6世紀に仏教が伝来した際、この日本固有の信仰は、仏教に対して神道という言葉で表わされるようになりました。
神道の神々は、海の神、山の神、風の神のような自然物や自然現象を司る神々、衣食住や生業を司る神々、国土開拓の神々などで、その数の多さから八百万の神々といわれます。さらに、国家や郷土のために尽くした偉人や、子孫の行く末を見守る祖先の御霊も、神として祀られました。奈良時代にできた『古事記』『日本書紀』には、多くの神々の系譜や物語が収められています。
神道の信仰が形となったものが祭りです。祭りは、稲作を中心に暮らしを営んできた日本の姿を反映し、春には豊作を、夏には風雨の害が少ないことを祈り、秋には収穫を感謝するものなどがあり、地域をあげて行われます。祭りの日は、神社での神事に加えて神輿や山車が繰り出し、たくさんの人で賑わいます。
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洲原神社 2
撮影地:岐阜県美濃市須原
拝殿
七間四面の入母屋、桧皮葺の大建築である。角柱は小面をとり、舟肘木を用い、内陣は出組格天井となっている。正面中央間に虹梁を入れ撥形の束をのせている。長享元年(1487) に村山対馬守忠広が建てたという棟札があるが、現在の建物は江戸時代の物と考えられる。
本殿
奈良時代に越前の名僧泰澄大師によって創建されたと伝えられる洲原神社の社殿は、この近郷には稀な壮麗なものである。この神社は古来農桑の神として尊崇され、江戸時代から洲原講の組織があって各地からの参詣が多かった。
中央本殿
間三面入母屋造り桧皮葺、前面に向拝がつく。三手先斗組であるが支輪はなく、斗組の間に蟇股を入れ、唐様を主として和様を混ぜ、市内で最も規模の大きい立派な本殿である。 社伝によれば康正年間に建立し天正13年(1585)に鉈屋山城主佐藤歳次郎方政によって修理されたということであるが、さらに江戸時代にも大修理を加えたものと推定される。
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
祭神
中央本殿 御祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
東本殿 御祭神 伊邪那美命(いざなみのみこと) 西本殿 御祭神 大穴牟遅命(おおなむちのみこと) |
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洲原神社 1
撮影地:岐阜県美濃市須原
社号標 石の太鼓橋
桜門
三間二面の楼門で入母屋桧皮葺である。小面をとり角柱を用い上層二手先、下層出組の斗組を使用している。唐様を主とした建築で寛永17年(1640)に再建、さらに寛保元年(1741)に再建された。下層の左右側面は粗い連格子を入れ、老樹がうっそうと茂り境内の至るところが透かして見え、建物と環境がまことによく調和している。
すぐ近くに長良川が青く見える Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
洲原神社は、今より約1300年前、元正天皇の御代養老元年に(西暦717年)、越前国足羽郡麻生津村、神職三神安角の二男泰澄が加賀国白山の絶頂で厳かな修行行うていられた時に霊夢を感じ、其の状を具(つぶ)さに、天皇へ奏上されたので、元正天皇より泰澄に斎鎮の勅命下り、又当社御造営使として、伴安麿に御剣一口と封戸若干、従者二人に甲胃を添えて下し賜う。養老5年5月、実に宏大荘厳な御社殿が御造営の工を竣え、勅を奉じて泰澄が御祭神をお祀(まつ)り申し上げたのであります。
当社古来「正一位洲原白山」とも称(たたえ)奉り、洵に御由緒深い大社であります。 |
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大矢田神社
撮影地:岐阜県美濃市大矢田
拝殿
本殿
別宮 荒祭若宮神社
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
当社は美濃市大矢田、天王山の麓楓谷の鎮座である。上古人皇第7代皇霊天皇の御代(約2270年前)の創祀である。元正天皇の養老2年(718)僧泰澄は篤く当社を尊仰し、天王山一山を開基し、広大な堂塔伽藍を建立して、天王山禅定寺と称し聖武天皇の御信仰も篤く頗る盛観を極めた。社頭を牛頭天王社と称した。天王山は当地の豪族後藤勘左衛門城主の城郭の有った所で標高537メートルの霊山である。後奈良天皇の弘治2年(1556)兵乱起こり類火に罹って全山焼失した、正町天皇の永禄2年(1559)牛頭天王社の仮殿を建設し、その後百有余年霊元天皇の寛文12年(1672)釈迦堂跡に現在の本殿が再建された。明治維新に到り、神仏分離の大命によりすべての仏堂仏像を廃し、明治3年には牛頭天王社を大矢田神社と改称した。明治6年1月美濃国第8大区第9小区の郷社に昇格する。昭和21年10月宗教法人令により宗教法人となる。昭和27年1月神代の喪山神話に関係する縁の神社、喪山天神社、華堂神社、青柳神社を合併した。昭和27年12月宗教法人法により宗教法人となる。天王山の麓、楓谷は文部省指定の天然記念物ヤマモミジ樹林となり、古くより有名であり、境内社喪山天神社は天若日子命を祀る喪山神話の地で、付近一体は神話縁の故郷である。又御本殿および拝殿は國の重要文化財に指定されている。
御祭神:建速須佐之男命、天若日子神、阿遅志貴高日子根神
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澁川神社
撮影地:愛知県尾張旭市印場元町
拝殿
本殿
天武天皇悠紀斎田跡記念碑
澁川稲荷社
山神社 町内社
神明社 八剣社 八幡社 熊野社
連理木
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
澁川神社 御 由 緒
当社は、壱千九百年前景行天皇の御代に現在地の南凡そ5百米の蘇父河(そぶかわ後に澁川)の地で、地元民勧進により、高皇産霊大神(たかみむすびのおおかみ)が、創祀されたことに由来すると云い伝えられます。 その後、天武(白鳳)五年(西暦676年)天武天皇即位に伴う大嘗祭で、この地域に新穂を収穫する悠紀斎田が定められたのを機に、現在地に遷座し、同時に大年神(おおとしがみ)など、七神が七神が合祀されました。 また、延喜年間(西暦929年)には式内社に撰進され「山田郡の総鎮守」として、朝廷からの幣帛も授かる存在となり、約四百五十年前武将織田信長が本殿を改修、貞享五年(西暦1688年)には、尾張藩主徳川光友により、本殿が改築されるなど、史上の著名人にも崇敬された由緒ある神社です。 平成十四年社殿を焼失し、平成二十年に本殿と祭文殿と拝殿が一直線に並ぶ尾張造りの社殿が、再建され、現在に至っています。他に境内には東五社ノ宮、西五社ノ宮、新明社、熊野社、八幡社、忌明社、山神社が、末社として祀られ、明治・大正期には近郷集落より、八剣社、稲荷社、津島社も遷座されました。 御 祭 神(高皇産霊神=たかみむすびのかみ) 高皇産霊神(たかみむすびのかみ) |



