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山田天満宮
撮影地:愛知県名古屋市北区山田町
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
撫で牛
方向祈願牛
当宮は名古屋城の鬼門の方位に位置し、八方除守護神としても祈願され、菅原道真公の方向祈願牛が祀られました。
牛のお顔を祈願される方位に向け、鈴に願いをこめて道真公にかけ、道真公に向かってお参りすると、合格・成績向上・就職成就の願いが叶うと云われています。 人形供養
金神社
延享三年(西暦1746年)「庶民」の福徳円満、商売繁盛、金運招福、街道往来の御神徳と御加護を願って奉祀されました。
また、御神徳は金明神を信仰する人々が持っている財宝を金明神の御神水にて洗い清めると一切の不浄と禍事が取り除かれ、これによって神明の感応を得て、福徳福銭の御利益を頂くと云われています。 黄金(こがね)洗いとも云い、ざるの中に財宝または金銭、くじ等を入れ、えびす様・だいこく様に御神水をそれぞれ三度かけていただき、その流れ出ました御神水にて洗い清めると、金運招福、商売繁盛、開運くじなどの福徳利益の御神徳を授かると云われています。
よりそい石
御嶽神社の神域にお祀りするよりそい石は、
皆さまが迷いなく良い縁に導かれますように見守っておられます。願いが叶うように、優しく撫でてお参りください。 文教の祖神として、世の崇敬厚き山田天満宮は、贈太政大臣正一位菅原道真公の御神霊を奉祀する神社です。寛文12年(西暦1672年)四代将軍徳川家綱公が、教育・学問を広く世に広めるため、文教の政治を奨励しました。
当時尾張の国藩主徳川光友公は、家綱公の文教政治を重視し、文教の太祖と仰がれ、その生涯を通じて、垂範され「和魂・漢方・至誠・愛燐」人生の根本義の大道を示された贈太政大臣正一位菅原道真公の御神霊を太宰府(太宰府天満宮)より尾張の国並に、尾張藩の教育学問並び道真公の出世に肖るための祖神としてお迎えし、当宮の地尾張の国春日井郡山田の郷に、文教・出世・厄除祈願宮として奉祀し、尾張藩主を始め、藩士領民挙って朝夕当宮に、教育・学問の上達、開運出世、厄除を祈願遥拝致しました。 更に、光友公は、山田の郷の領民の守護神として御神霊を御鎮座お祀りしたのです。また当宮は、尾張藩(名古屋城)の鬼門の方位に位置するため、領民の「地相・家相・方位・日柄・厄除」等に由来する一切の災禍を除く八方守護神として祈願されています。 折から頻発した悪疫・天災・地変に際し、ご霊験大いにあらわれ山田天神信仰が庶民の間に広がり、崇敬者、日に月に多く繁栄を極め、学問の上達・開運出世・諸願成就・悪事災難除と御神徳は実に広大無辺にあらせ給います。 山田天満宮HPより
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神々の詩
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街中の赤い鳥居、田んぼの中のこんもりした森、山の頂の小さな社、全国至るところに神社はあります。神社のある風景、それは映画やドラマでもおなじみの、ごく身近な、しかし日本にしか見られない独特の風景です。
このような神社を中心とした、日本の神々への信仰が神道です。
神道は、日本人の暮らしの中から生まれた信仰といえます。遠い昔、私たちの祖先は、稲作をはじめとした農耕や漁撈などを通じて、自然との関わりの中で生活を営んできました。自然の力は、人間に恵みを与える一方、猛威もふるいます。人々は、そんな自然現象に神々の働きを感知しました。また、自然の中で連綿と続く生命の尊さを実感し、あらゆるものを生みなす生命力も神々の働きとして捉えたのです。そして、清浄な山や岩、木や滝などの自然物を神宿るものとしてまつりました。やがて、まつりの場所には建物が建てられ、神社が誕生したのです。このように、日本列島の各地で発生した神々への信仰は、大和朝廷による国土統一にともない、形を整えてゆきました。そして、6世紀に仏教が伝来した際、この日本固有の信仰は、仏教に対して神道という言葉で表わされるようになりました。
神道の神々は、海の神、山の神、風の神のような自然物や自然現象を司る神々、衣食住や生業を司る神々、国土開拓の神々などで、その数の多さから八百万の神々といわれます。さらに、国家や郷土のために尽くした偉人や、子孫の行く末を見守る祖先の御霊も、神として祀られました。奈良時代にできた『古事記』『日本書紀』には、多くの神々の系譜や物語が収められています。
神道の信仰が形となったものが祭りです。祭りは、稲作を中心に暮らしを営んできた日本の姿を反映し、春には豊作を、夏には風雨の害が少ないことを祈り、秋には収穫を感謝するものなどがあり、地域をあげて行われます。祭りの日は、神社での神事に加えて神輿や山車が繰り出し、たくさんの人で賑わいます。
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八劔神社
撮影地:愛知県名古屋市守山区大森
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
大弁財功徳天社 御嶽社 多賀神社 天王社 秋葉社
天神社
八劔神社は第50代桓武天皇の時代延暦12年(793)に、この地方を支配していた豪族山田の連によって「大森北八劔」の地に創建されたと伝えられています。その後宝暦10年(1760)第116代桃園天皇の時代に大森地区を流れる矢田川と天神川の合流地である元郷に近い「大森中ノ町田」の地に遷座されました。そしてこの時に本殿も新築されたといわれていますが、当時度重なる地震や風水害による神社地の孤立や盗難などによる被害もあって、昭和2年(1927)に現在地に本殿はそのままの姿で移築して再び遷座されました。
「八劔神社」の名称は熱田神宮の別宮「八剣宮」に由来すると思われますが、当社がいつごろからこのように呼ばれるようになったかは明らかではありません。 八劔神社には建速須佐之男命・日本武命・天之火明命の三柱が祀られています。 このうち前二柱は「八剣宮」の祭神と同じですが、天之火明命は尾張氏の祖と伝えられる神で当社の境内神社 尾関社の祭神でもあります。このことは古代当社は古代 尾張氏の一族である山田の連が祀った先祖の霊を、中世になって大森城主 尾関氏が受け継いできたと想像されます。いずれにしても、この神社は古代より大森に住んでいた人々の厚い信仰心によって1200年もの長い歴史をもつ由緒ある神社となっています。 八劔神社HPより
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宮迫神明社
撮影地:愛知県西尾市吉良町宮迫
Nikon D800・Ai AF-S Zoom Nikkor ED 28-70mm F2.8D(IF)
祭神:天照大神・誉田別尊・大山咋命
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三徳龍神社
撮影地:愛知県名古屋市名東区名東本通
LUMIX GX7・LUMIX G 14mm F2.5 ASPH.
本殿 御神木
OLYMPUS PEN E-P1・ボディキャップレンズ 9mm F8 Fisheye
三徳とは、「天の徳」「地の徳」「人の徳」をいう。
昔々、ここの沼に三徳竜神が住んでいたという。ある日、安良霊神(やすながれいじん/御嶽教先達/出来町の人)の枕元に立つと、「私を祀れ。さすれば、この地を繁栄させん」と告げた。安良霊神は、お告げの地を探し当て、高針の地主30数名に掛け合い、この地を提供してもらった。
最初は、マムシとの格闘だった。そして沼地を埋め(沼が窒息しないようコンクリートのフタには、息抜き穴がある)、社を建て た。その後、区画整理によって周囲が土盛りし、狭い道路(高針街道)も広く高くなったので、相対的に周囲より一段低くなってしまった。かつては、はるかかなたの田んぼまで見渡すことができた三徳龍神社の敷地こそが、昔の面影を今に伝える。 裏手の楠のご神木には、「木に触ってから、自分の悪い所をさすると良くなる」とのいわれがある。また、赤白の幟(80本)は、信者によって半年に一回(お彼岸から、次のお彼岸まで)交換されている。 三徳龍神社の起元
この地域には古来より御威徳灼(あらた)かなる龍神が鎮座されてゐると伝えられていた。 昭和初期のころ大先達安良(ヤスナガ)霊神は龍神の御神意を拝伺せる結果、霊感によりこの地に龍神の鎮座する祠(ほこら)の建立が得らるゝなれば龍神の力を以って将来この地域一帯を繁栄させるとの御神告(オツゲ)があった。大先達安良霊神は村内有力者各位にその旨を伝えた。
結果有力者各位より是非龍神の鎮(しず)まります祠の建立の懇請(こんせい)を受け、現在地の提供を得た。 然しながらこの地は當時(とうじ)足の踏入れも不可能の荒地であったが、霊神は独力を以って日夜営々と荒地を切開きここに神鎮まります祠を建立しました。 尚、御神告(オツゲ)により三徳龍神社と敬称し、有力者各位の奉賛(ほうさん)を得て今日の隆盛を見るに至った。ここに大先達安良霊神の御鎮(ミタマ)を偲(しの)び、以って顕彰の詞とする。 大先達安良霊神(故水谷与太郎先生) 三徳龍神社奉賛会
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富部神社
撮影地:愛知県名古屋市南区呼続
Nikon D800・Ai AF-S Zoom-Nikkor 17-35mm F2.8 IF-ED
本殿 国重要文化財
龍王社 居森社
秋葉社
金比羅社
富部神社は1603年(慶長8年)、愛知県津島市の津島神社から勧請されたことに始まる。1606年(慶長11年)、清洲城主松平忠吉(徳川家康四男)が病気平癒の祈願をしたところ、日ならずして快復し、その恩頼奉謝として本殿、拝殿、祭文殿、廻廊が創建される。
創建以来、「富部蛇毒神天王」「蛇毒神天王」「蛇毒神社」などと呼ばれていたが、明治に入り現在の「富部神社」と改称され現在に至る。 桃山建築の姿を残す本殿は、国の重要文化財、祭文殿・廻廊、1727年(享保12年)作の山車(高砂車)は名古屋市指定有形文化財に指定されているそうです。 御祭神 素戔嗚尊
富部神社は名古屋市南部の笠寺台地上に位置します。江戸時代には台地は松に覆われた大きな島とみられ「松巨島(まつこじま)」と呼ばれていました。古代、台地の周辺は海で「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれ、海を広範に眺めることの出来る景勝の地であり、「愛知」の地名のおこりの地とも言われています。万葉集では「桜田に鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟 汐干にけらし鶴鳴き渡る」「年魚市潟汐干にけらし知多の浦に 朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ」と詠まれています。
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