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徳興山 建中寺 浄土宗
撮影地:愛知県名古屋市東区
Nikon D800・AF-S Nikkor 50㎜ F1.4 G
龍巻奥ノ院春日燈籠
地蔵尊
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法然(浄土宗)
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煩悩のうすくあつきをもかへりみず
罪障のかろきをもきをも沙汰せず
ただ口に南無阿弥陀仏と唱へて
声につきて決定往生のおもひをなすべし
【法然】
罪障のかろきをもきをも沙汰せず
ただ口に南無阿弥陀仏と唱へて
声につきて決定往生のおもひをなすべし
【法然】
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徳興山 建中寺 浄土宗
撮影地:愛知県名古屋市東区
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
内陣 許可を頂き撮影しました
Nikon D800・AF-S Nikkor 50㎜ F1.4 G
慶安4年(1651)尾張二代藩主徳川光友が建立した尾州家代々の菩提寺。浄土宗。父義直の菩提のために創建し、以後、尾張徳川家の菩提寺となった。
創建当時は周囲は石垣と堀で囲まれ、四万八千坪(158,400平方メートル)の境内に多数の堂が立ち並ぶ規模を誇った。境内の東側には大きな松林があり、鬼門の方角は京都御所の「猿が辻」のように凹ませてあった。
1785年(天明5年)の大火災で総門・三門などを除く多数の建物が焼失したが、翌1786年(天明6年)から1787年(天明7年)にかけて再建された。
本堂裏には、県文化財指定の権現造りの霊廟があり、歴代藩主の位牌を安置。慶安5年造営の市指定文化財の総門・山門は山間一戸の様式による重層楼門。創建当時のもので偉容を誇っている。宝物には蒙古襲来絵巻模写2巻、田植屏風等がある。
何度も前は通過しているが、久しぶりに訪れた。
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坂松山 高岳院 一心寺 浄土宗 通称「骨仏の寺」
撮影地:大阪府大阪市天王寺区逢坂
仁王門
本堂
納骨堂
開山堂
念仏堂
Nikon D300・AF-S DX VR Zoom-Nikkor ED 18-200mm F3.5-5.6G(IF)
一心寺の発祥は文治元年(1185)。
浄土宗をお開きになった法然上人がこの地の四間四面の草庵「荒陵の新別所(あらはかのしんべっしょ)」で「日想観*」を修せられたことが由来とされています。 草庵は法然上人の本名をとって「源空庵」と呼ばれ、その後「一心寺」へと改称されました。1600年、関ヶ原の戦いがあった年、徳川家康公の第8男仙千代君が夭折し、一心寺で葬儀が営まれましたが、導師を務めたのは時の住職で、家康公と同郷三河の僧本誉存牟(ほんよぞんむ)上人でした。以来、家康公との結びつきが強く、慶長19年(1614)の大坂冬の陣では家康公の本陣が当地におかれました。 そして江戸時代末期からは年中無休で施餓鬼法要を行う「おせがきの寺」として賑わい、明治20年にお骨佛が造立されてからは「お骨佛の寺」として親しまれ、開かれた寺、庶民の寺としての歴史を歩んできました。 * 日想観とは「観無量寿経」に説かれる修法で、夕陽を見ながら極楽浄土を観想する16観の初観。 |
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飛車山 龍音寺 浄土宗
「間々観音」 「尾張三十三観音 二十四蕃札所」
撮影地:愛知県小牧市間々本町
尾張徳川家の菩提寺である建中寺から移築された山門。
阿弥陀堂
本堂
賓頭盧尊者
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
龍音寺という名より「日本唯一お乳のお寺 間々観音」で広く知られている。
1492年に建立された浄土宗の寺で尾張三十三観音の一つでもある。 |
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一心院 安養寺 浄土宗
撮影地:滋賀県犬上郡多賀町河田
芹川の源流エチガ谷
川に降りる所があり休憩したら古刹が・・・・。
Nikon D300・AF-S DX VR Zoom-Nikkor ED 18-200mm F3.5-5.6G(IF)
この安養寺は神護景雲3年(789)に、 霊仙山上に建っていた霊仙寺の支院として創造され、 霊仙三蔵が使僧として訪れていた一千二百有余年の歴史ある古刹 である。 (看板説明文より) 霊仙(りょうせん、759年? - 827年?)は、平安時代前期の法相宗の僧。出自については不明であるが、近江国の出身とも阿波国出身とも伝えられる。霊船・霊宣・霊仙三蔵とも称される。日本で唯一の三蔵法師である。興福寺に学び、804年(延暦23年)、45歳で入唐した。最澄・空海と同じ遣唐使である。長安で学び、810年(弘仁元年)醴泉寺(れいせんじ)でカシミールから来た般若三蔵が請来した「大乗本生心地観経」を翻訳する際の筆受・訳語(おさ)をつとめた。811年(弘仁2年)に三蔵の号を与えられる。時の唐の皇帝憲宗は仏教の熱心な保護者であり、霊仙も寵愛を受けて大元帥法の秘法を受ける便宜を与えられるが、仏教の秘伝が国内から失われることを恐れた憲宗によって日本への帰国を禁じられた。憲宗が反仏教徒に暗殺されると、迫害を恐れて五台山に移る。825年(天長2年)淳和天皇から渤海の僧貞素に託された黄金を受け取り、その返礼として仏舎利や経典を貞素に託して日本に届けさせた。日本側は貞素の労苦を労うとともに霊仙への追加の黄金の送付を依頼し、また日本に残された霊仙の弟妹に阿波国の稲千束を支給するように計らった。その後、828年(天長5年)までの間に没したようで、一説によれば霊境寺の浴室院で毒殺されたという。唐に渡ってから死ぬまで日本の地を踏むことはなかった。840年(開成5年)7〜8月、霊境寺に立ち寄った円仁が、入唐留学僧霊仙の最期の様子を聞いている。また、円行・常暁が入唐した際には霊仙の門人であった僧侶から手厚く遇されて霊仙の遺物や大元帥法の秘伝などを授けられて日本に持ち帰ったという。
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