四季の旅人写真館

四季折々の日本の原風景と花の写真を撮影しています。本ブログ掲載の画像は著作権を放棄しておりません。

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五色園 3

五色園 3   五色山  大安寺     浄土真宗系単立
撮影地:愛知県日進市岩藤町



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Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D

           縁結び弁財天女



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川越の名号
建暦元年、流罪勅免の使いが越後国府に来ると伝え聞いた親鸞聖人は、草庵を後にして国府に向かいました。しかし途中雪に見舞われ、柿崎につくころにはすっかり日も暮れてしまいました。
 そこで聖人はこの地の扇屋の門をたたき一夜の宿を請うことにしました。しかし扇屋夫婦は邪険に断り「軒下なら勝手にするがいい。」と言って戸を閉めてしまいました。そこで聖人は厚く礼をのべられ、念仏を唱えながら夜の明けるのをお待ちになりました。
 流石に無情の夫婦も、戸の隙間より漏れてくる念仏の声を聞いて尊さが身にしみて自らの非礼を詫び、聖人を家の中へお招きになりました。ここで聖人は御仏の教えをお説きになると、夫婦はたちまち念仏の行者となりました。
 非常にお喜びになった聖人は扇屋に「南無不可思議光如来」の九字の名号を与え。翌朝「柿崎にしぶしぶ宿をとりけるに、主の心熟柿(うれし)なりけり」と地名の柿崎を折り込んだ歌を詠まれました。それに対し扇屋の主人も「かけ通る法師に宿を貸しければ書き(柿)呉れたりや九字の名号」と返しました。
 扇屋の妻は聖人の発ったあと、名残を惜しみ聖人のお跡を慕っていきました。そして、既に川を渡られた聖人にお形見をお願いしますと聖人は向こう岸からこちらに向かって空中に六字の名号を書かれました。すると扇屋の妻の手元の紙に「南無阿弥陀仏」の六字が浮かび上がったのです。扇屋の妻は歓喜してこれを押し頂き、川越しに聖人とお別れいたしました。



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赤山明神貴婦人解逅
親鸞聖人二十六歳のとき、都からの帰路、比叡山の麓にある赤山禅院にお参りされました。聖人が神前で静かに念誦していると、陰から美しい女性が現れました。そして聖人が比叡山に帰ることを知ると「私も年来このお山に参詣したいと思っておりました。どうかご一緒させていただけないでしょうか。」と懇願しました。しかし聖人は「比叡山は、舎那円頓の峰高く、止観三密の谷深く、五障(女は梵天・帝釈・魔王・転輪王・仏になれない)三従(幼いときは親に、結婚すれば夫に、老いぼれれば子に従う)の女性は入山することができないのです。法華経にも女性は垢穢にして、仏法の器に非ずと説いております。それ故、伝教大師も結界の地と定めたのです。」と答えて入山できないことをお説きになりました。それを聞いた女性は「たしかに女性は五障三従のさわりがあり成仏できないといわれています。しかし伝教大師も、一切の衆生にはすべて仏性があるとおっしゃっています。鳥や獣にいたるまで、男女の別はありますが、女人だけを除いてはたして真実の悟りに達することができるでしょうか。」と嘆きました。そして「どうか貴僧は、末世の女人の善知識となって御仏の慈悲が届くようにお力添えをお願い申し上げます。」と言って袖から白絹に包んだ玉を取り出し聖人に差し出しました。「これは、闇夜を照らす玉です。なにとぞ御仏の教えを低く卑しい谷に下して、あらゆる人々を導いてください。」そう言うと、女性の姿はどこともなく消えてしまいました。




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弁円悔悟の場面

板敷山での祈祷・待ち伏せに失敗した弁円は猛々しく稲田の草庵に踏み込みました。しかし、弁円を迎え入れた聖人の顔には微笑みがもれ、まるで弁円を包み込むようでありました。そのお姿に弁円は害心が跡形もなく消え、そして剣を投げ捨て大地にひれ伏し涙を流しました。
 弁円は「かかる円満具足のご聖人ともしらず、日夜命を狙っておりました私でございます。どうぞこの首を落としてください。お願いいたします。」と懺悔するのでありました。聖人は「この親鸞は一切衆生に仏の救いを信じせしめるために努力をしているのです。仏を拝む念珠は持つが、未だ人を切る刀剣を手にしたことはありません。」といい、御仏の教えを諭されました。
 かくて親鸞聖人を殺害しようとした弁円は明法坊という法名を賜り、稲田で聖人のお世話をするようになりました。そして明法坊弁円はのちに聖人のお供で板敷山を通るときに
 山も山 道も昔に かわれねど
 かわりはてたる わがこころかな
と詠み、過去を懺悔し回想したのでありました。



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日吉丸矢作橋出世の糸口




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浅野祥雲
1891年、岐阜県恵那郡坂本村(現中津川市)に生まれる。父親は農業の傍ら、土人形を製作する職人であった。父の仕事を継いで土人形製作を始めるが、土では大きな作品がつくれないことから、コンクリートでの作成を思いついたという。1924年、33歳のとき名古屋に移住し、映画館の看板を描くなどして生計を立てる。作品は中部地方を中心に800体近くが現存しており、ほとんどが身長2メートル以上の人物像(仏像)で、コンクリートの表面にペンキで着色され、一箇所に集中して林立することが特徴である。リアルさ・稚拙さ・ユーモラスさをあわせ持った作風で、一度見たら忘れられない強烈さから一部で人気を博している。

                              (Wikipediaより)






五色園 2

五色園 2   五色山  大安寺     浄土真宗系単立
撮影地:愛知県日進市岩藤町




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Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D

日野左衛門門前石枕の場面
 
 日野左衛門尉頼秋は常陸の国(茨城県)に流刑になり、その後自由の身となっても故郷には帰らず金貸しをしてそこに居を構えていました。
左衛門は生来の人間不信で、また流罪後それは一層強まり「信じられるものは銭しかない。」とうそぶくようになっていました。
 ある年の晩秋、左衛門は借金の取立てに廻りましたが、逆にことごとく延済を申し込まれたことに腹を立て夕刻からやけ酒をあおっていました。外はいつの間にか冷え込んで雪になっています。そんな左衛門が女房に当り散らしているところに、布教途中の親鸞聖人が一夜の宿を求められましたが、すさんだ心の左衛門は言下に断ったのでありました。やむなく聖人は軒先で夜を明かすことにしました。聖人は門前の石を枕として横になりましたが、雪は次第に吹雪となって全身を包みます。親鸞聖人は身体を横たえながら念仏を繰り返し唱えました。
 夜半、左衛門の夢枕に観音菩薩が現れ「左衛門、なんじ知らずや、いま門前に阿弥陀如来が泊まらせたまうぞ。早く教化をこおむるべし。この機を逃せばなんじは未来永劫、苦海をのがれられぬぞ。」と告げられました。このお告げに驚いた左衛門はとびおきて家を出てみました。するとそこに映るのは吹雪のなか一心に念仏を唱える親鸞聖人のお姿でした。
 あわてた左衛門は平身低頭無礼を詫び、親鸞聖人を家へ迎え入れこれまでの悪行をすべて告白しました。親鸞聖人は「私たちは悪いことばかりしています。人を憎み呪いもします。だが、汚れきった心であっても信じる心だけは誰にでもあるもの。その心こそが永遠にかがやく仏の光なのです。」とねんごろに御仏のご慈悲をお話になりました。大慈大悲の阿弥陀仏の本願を知らされた左衛門はその夜のうちに親鸞聖人のお弟子となり、法名を入西房道円と名付けていただきました。
 その後道円は念仏道場を開き、石を枕に念仏する親鸞の姿を重ねそこを枕石寺と名付けました。







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鈴虫松虫



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鹿ヶ谷鈴虫松虫の剃髪得度
勢力を強める吉水の法然門下に対し危機感をもった他宗派は、興福寺を代表として朝廷に対し吉水教団の撲滅を願い出ました。そのため御所では念仏停止の是非を論ずる評議が行われることになりました。
 そのころ、法然上人の弟子、住蓮と安楽は鹿ケ谷の草庵において六時礼賛による声明念仏という御法事を営み、御仏の功徳を人々に説いておられました。ことに、二人の声は先を急ぐ人も思わず足を止め聞き入ってしまうほどであり、そこを通りかかった院御所女房の鈴虫と松虫も深い感動をおぼえたのでありました。
 以後、機会を見つけては聞法に通うようになった鈴虫と松虫は、後鳥羽上皇が留守のある晩ひそかに御所を抜け出し鹿ケ谷の声明念仏に結縁しました。安楽らの説法と声明に心をゆさぶられた二人は憂き身をやつす我が身を思い、弥陀の本願に救われるという事実にふれ、発心して尼となったのです。
 このことを知った上皇は烈火のごとく怒り、興福寺の訴えを取り上げ念仏停止の裁断を下しました。




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月見の宴
 親鸞聖人(十八公麻呂君)は日野の里、法界寺のほとりでお生まれになりました。父君は藤原有範卿、母君は吉光御前といわれる方で、平安時代の貴族の長男としてお生まれになりました。
 信心深い母君、吉光御前が常に長谷寺の観音に念じて藤原家の跡継ぎを願われ、観音の申し子として生まれたのでありました。ところが、十八公麻呂は二歳になられても口を一文字に堅く閉じ片言も話されませんでした。まわりの人々は奇異の感に打たれていました。
 そんな八月の十五夜、人々は月見の宴を催されました。
 父君、藤原有範卿のひざに抱かれてじっと空を見上げておられた松若君(十八公麻呂)は、月が天中高く冴え渡ると同時につかつかと前に出られて、両手を合わせつきを拝み「なむあみだぶつ」と一声称えられました。人々はその声を聞いて驚き喜びの声をあげるとともに、松若君が非凡の和子であると歓喜せられたのでありました。




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信行両座



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親鸞聖人が法然上人の下、吉水の草庵に通っていたある日、法然上人に許しを得て門弟たちを信の座「信不退」と行の座「行不退」の二つの席に分け、どちらの考えでいるか明らかにしました。
 「信不退」とは、弥陀の本願を信じるだけで生涯信心を失わない不退転が得られると信じることをいい、「行不退」とは本願を信じてなお、不退転を得るためには念仏の行を積まなければならないとする考え方です。
 ほとんどの門弟たちは行の座に着座しましたが、高弟の信空、のちの「唯信鈔」を書いた聖覚は信の座に着きました。そしてそこに遅れてきた熊谷蓮生房が事の次第を聞き、慌てて信の座に着きました。続いて親鸞聖人も信の座に着座し、これで一同が着座してざわめきが鎮まると、法然上人もおもむろに「私も信の座に着こう。」と言って「信不退の座」に着きました。このとき行の座を選んだ門弟たちは一応に驚き、自らを恥じまた後悔しました。






浅野祥雲
1891年、岐阜県恵那郡坂本村(現中津川市)に生まれる。父親は農業の傍ら、土人形を製作する職人であった。父の仕事を継いで土人形製作を始めるが、土では大きな作品がつくれないことから、コンクリートでの作成を思いついたという。1924年、33歳のとき名古屋に移住し、映画館の看板を描くなどして生計を立てる。作品は中部地方を中心に800体近くが現存しており、ほとんどが身長2メートル以上の人物像(仏像)で、コンクリートの表面にペンキで着色され、一箇所に集中して林立することが特徴である。リアルさ・稚拙さ・ユーモラスさをあわせ持った作風で、一度見たら忘れられない強烈さから一部で人気を博している。
                              (Wikipediaより)








五色園 1

五色園 1   五色山  大安寺     浄土真宗系単立
撮影地:愛知県日進市岩藤町




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Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D



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五色園は、愛知県日進市岩藤町にある日本で唯一の宗教公園。1934年(昭和9年)に、森夢幻(後の大安寺初代管主)が、多くの人の助力とともに建設したもの。後に正式名称が「宗教法人五色山大安寺」となった。園内には、親鸞の教えを視覚的に感知させることを目的とした塑像が多数配されているほか、大安寺本堂や五色園墓地、宿坊などがある。
なお塑像の作者は、コンクリート像作家として知られる浅野祥雲である。
                               (Wikipedia 五色園より)



五色園の名前は園内の五種の樹木の彩りから由来しています。それは、松竹梅に桜と紅葉をあわせたものといわれています。




四天王寺

荒陵山  四天王寺     和宗総本山
撮影地:大阪府大阪市天王寺区四天王寺
 
 
 
 
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          南大門から仁王門を望む
 
 
 
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仁王門
 
 
 
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中心伽藍
 
 
 
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           五重塔
 
 
 
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金堂
聖徳太子のご本地仏である救世観音をお祀りし、四方を四天王が守護しています。毎日11時より舎利出しの法儀が厳修されます。南無仏のお舎利を以て、ご先祖のお戒名(霊名)が書かれたお経木にあてられ、又参詣者の頭にあててもらおうと多くの信者さんが参詣されます。
 
 
 
 
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六時礼讃堂
境内中央に位置する雄大なお堂で、昼夜6回にわたって諸礼讃をするところから六時礼讃堂の名があります。薬師如来・四天王等をお祀りしており、回向(供養)、納骨等を行う当寺の中心道場でもあります。入口には賓頭盧尊者像やおもかる地蔵が祀られ、独特の信仰を集めています。
 
 
 
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極楽門
推古元年創建。昭和37年、松下幸之助氏の寄贈により再建された西大門は、極楽に通ずる門の意味から、通称 極楽門とよばれている。
 
 
 
Nikon D300・AF-S DX VR Zoom-Nikkor ED 18-200mm F3.5-5.6G(IF)
 
 
 
 
 
 
四天王寺は、推古天皇元年(593)に建立されました。今から1400年以上も前のことです。『日本書紀』の伝えるところでは、物部守屋と蘇我馬子の合戦の折り、崇仏派の蘇我氏についた聖徳太子が形勢の不利を打開するために、自ら四天王像を彫りもし、この戦いに勝利したら、四天王を安置する寺院を建立しこの世の全ての人々を救済する」と誓願され、勝利の後その誓いを果すために、建立されました。
 
その伽藍配置は「四天王寺式伽藍配置」といわれ、南から北へ向かって中門、五重塔、金堂、講堂を一直線に並べ、それを回廊が囲む形式で、日本では最も古い建築様式の一つです。その源流は中国や朝鮮半島に見られ、6〜7世紀の大陸の様式を今日に伝える貴重な建築様式とされています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

善光寺東海別院

双蓮山  善光寺東海別院   単立
「祖父江善光寺」  「尾張善光寺」
撮影地:愛知県稲沢市祖父江町祖父江南川原
 
 
 
 
イメージ 1
Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
 
 
 
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公爵近衛文麿筆
 
 
 
 
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内陣
Nikon D800・AF-S Nikkor 50㎜ F1.4 G
 
 
 
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Nikon D800・AF Zoom-Nikkor 24-120mm F3.5-5.6D
 
 
 
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Nikon D800・AF-S Nikkor 50㎜ F1.4 G
 
 
 
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極楽戒壇めぐり
善光寺東海別院へ参拝された方は誰でも、かいだんめぐりといって瑠璃壇の下のくらやみをお念仏を称えながら回り善光寺如来様とご縁を結び善根を得ると必ずめぐるものです。
如来様のご安置してある真下が御錠前のある所でその中には善光寺東海別院が日本一をほこる極楽の荘厳がご安置されております。
中央に阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩と十六観菩薩が安置され、宝樹、宮殿楼閣、宝池には五色の蓮華が咲きそれぞれの光を放っております。(工事中でした)
 
 
 
言い伝えによりますと天正十年(1582年)織田信長・信雄によって善光寺ご本尊如来さまが岐阜より尾張甚目寺へ御遷座の途中、祖父江付近に立ち寄られたとあり、
その場所に明治四十二年・四十三年と蓮田であった境内地に1本の茎から二つの花が咲くという奇瑞を縁として、開基旭住上人が信州善光寺本坊大勧進より善光寺如来さまを勧請して善光寺東海別院を創立しました。
善光寺東海別院は信州善光寺の別院です。
善光寺如来さまは、現当二世(この世もあの世も)お守り下さるありがたい仏さまです。
善光寺東海別院の本堂は善光寺特有の撞木(しゅもく)造りで間口14間奥行20間の総欅造りの大伽藍です。
信州善光寺の本堂の約3分の2の大きさを誇ります。
                        「善光寺東海別院HPより」
 
 
 
 
  
 
戒壇巡りを終え階段を上がった所に、
『ぼけないための五ヶ条』がありました。
1. 仲間が居て気持ちの若い人
2. 人の世話をして感謝の出来る人
3. ものをよく読みよく書く人
4. よく笑い感動を恐れない人
5. 趣味の楽しみを持ち旅の好きな人
 
 
 
 
 

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