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どれくらいの時が経ったろう。
寒さのせいで身体が芯まで冷え切った感覚を自覚できるまで俺たちが我に返ることはなかった。
それに気づくとたまらなくなって、どちらともなく互いに身体を摩り合い
笑いながら俺たちは慌てて車内に戻った。
4t車を駐車場の端に寄せ、運転席でしっかり寄り添ったまま毛布にくるまり暖を取る。
暖かくてこの上なく気持ちいい。
目の前には真っ暗な山々の影が見えるだけで、あの星空はもう視界の中には入らなかったが、
何も言葉を交わさず二人だけの最後の時間を惜しむように味わっていた。
この幸せな感覚が永遠に続けばいいのにと思った。
直ぐに優子の鼻息が再び寝息に変わる。
俺の胸に顔を埋めている優子の髪が俺の頬に微かに当たってむず痒い。
そう感じる度に優子の額に頬を押し付けても、優子は子供のように安心し切って目を覚ますことはなかった。
俺は眠れないというより寝るのが惜しく、ずっとこの感覚を味わっていたかった。
次に意識が戻ったのは夜明け前の薄暗い6時半ごろだった。
まだ疲れ切っているのか身動きもできず重い瞼を微かに開く。
降ってないようだが昨日の雨のせいでかなり深い靄に辺りは包まれていた。
気温は上昇しているのだろう。
真冬の夜明けは一気に明るくなる。
ボーっと眺めているとフロントガラスが大型液晶に映し出されている自然のドキュメントのように
非現実的に見えた。
目の前の映像は、まるでフェードインするように霧が晴れ、様変わりを始める。
次第に視野がはっきりしてきた。その光景に俺は肩を揺すぶり寝ている優子を起こした。
しばらくして優子も意識半分で瞼だけを開けたようだった。
二人して無言のまま目の前に展開される映像を無意識に受け入れていた。
駐車場の低い柵の直ぐ向こう側が湖であることが初めてわかった。
霧は湖一面水面を這うように渦を巻きながら流れていた。
その霧に根元を隠された木々の輪郭が湖の向こうに次第にはっきり浮き彫りになって来る。
その幻想的な光景はまるで天国の入口にいるかのようだった。
やがてその木々の根元に戯れる白い霧が鮮やかな紫色に変わり始めた。
その紫の霧が中央に集まってきて空に昇って行く。
その紫の霧の柱を追いやるように次に緑が現れ集まっては空に向かって行く。
次に黄色、最後に橙が現れた。
『何でこんなことが起こるのだろう?』俺は不思議な感覚に陥った。
まるで縦の虹を斜めから見ているようだった。
直ぐに太陽が姿を見せ、はっきり明るくなると
瞬く間にそのノンフィクションのドラマはスライドが終わるように静かに消えてしまった。
僅か10分くらいの出来事だろうか?
俺たちはしっかり寄り添ったまま身動きもせず感動に浸っていた。
人間は『世界』を口にはするが、それは人にとって都合のいい『社会』のことで、殆ど何もわかっちゃいない。
学校でも本当のことは教えない。
自然の言葉を超えたメッセージは人間を常に優しく包み育んでいる。
それを意識できないのは人間のエゴのせいかもしれない。
しかし、人間がその自然との繋がりをいくら絶とうとしても自然は淡々と受け入れて、
恣意なくその姿を惜しみなく現してくれる。
いや気づかないだけで日常の営みとして延々と繰り返えされているのだ。
昨夜の星空も特別のことではなく自然のありのままの姿でしかない。
しかもそれは人間との揺るぎない絆を感じさせる。
その意味自体を考えることさえも人間の傲慢なのだろうか?
「綺麗だったね。」しばらくして優子がぽつりと言った。
「ああぁ、そうだな。」
そう答えると俺は抱いている左の腕にゆっくり力を入れ優子を引き寄せるとその額に心を込めて口づけをした。
一瞬俺の薄い無精ひげでもチクリとしたのか優子の顔がピクッと動いた。
優子はすぐさま強く自分の頬を俺の胸に押し当てて来た。
何とも言えない幸福感、まるで世界が二人っきりになったようだった。
自然も確かに変化しているのだろう。成長しているのかもしれない。
しかし、それは極々平凡な気の遠くなるような反芻、反復の繰り返しの先に結実されるもので、
人間の忍耐とか努力など到底及ばない。
少なくともこの人生が終えるまで俺は優子に対するこの気持ちを持ち続けることができるだろうか?
そのためには自然のように日々起こる出来事を淡々と受け入れ過不足なく生きるしかないと思えた。
これからどのようなことが起きようともその現実は俺たちの都合を超えて最良のものであり、
俺たちの人生にとって全て必要不可欠であることを予想させた。
『俺は何があっても優子と共に生きていく。』
それは一時の高揚や情熱ではなく、極自然に静かに俺の心に沁みてくるものだった。
その余韻を惜しみながら、俺は4t車をスタートさせるしかなかった。
帰りまで3時間しかない。ギリギリ間に合う時間だった。
これが優子との出会いの頃、最初で最後の大切な思い出となった。
結局優子を連れて行ったことが会社にバレてしまうのだが、それはたいした問題ではなかった。
引き止める哲に後ろ髪を引かれるでもなく、俺は次の運送会社に移って行った。
そして、それから1ケ月もしない春の初めに、あの優子からの突然の電話で
俺たち二人は別れる決心をするのだった。
(第一章 終わり)
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