続・つっぱりオヤジの戯言

新しい展開に向って突っ走るぞっ!

小説『あなたがいるから』

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どれくらいの時が経ったろう。
寒さのせいで身体が芯まで冷え切った感覚を自覚できるまで俺たちが我に返ることはなかった。
それに気づくとたまらなくなって、どちらともなく互いに身体を摩り合い
笑いながら俺たちは慌てて車内に戻った。

4t車を駐車場の端に寄せ、運転席でしっかり寄り添ったまま毛布にくるまり暖を取る。
暖かくてこの上なく気持ちいい。
目の前には真っ暗な山々の影が見えるだけで、あの星空はもう視界の中には入らなかったが、
何も言葉を交わさず二人だけの最後の時間を惜しむように味わっていた。
この幸せな感覚が永遠に続けばいいのにと思った。
直ぐに優子の鼻息が再び寝息に変わる。
俺の胸に顔を埋めている優子の髪が俺の頬に微かに当たってむず痒い。
そう感じる度に優子の額に頬を押し付けても、優子は子供のように安心し切って目を覚ますことはなかった。
俺は眠れないというより寝るのが惜しく、ずっとこの感覚を味わっていたかった。

次に意識が戻ったのは夜明け前の薄暗い6時半ごろだった。
まだ疲れ切っているのか身動きもできず重い瞼を微かに開く。
降ってないようだが昨日の雨のせいでかなり深い靄に辺りは包まれていた。
気温は上昇しているのだろう。

真冬の夜明けは一気に明るくなる。
ボーっと眺めているとフロントガラスが大型液晶に映し出されている自然のドキュメントのように
非現実的に見えた。
目の前の映像は、まるでフェードインするように霧が晴れ、様変わりを始める。
次第に視野がはっきりしてきた。その光景に俺は肩を揺すぶり寝ている優子を起こした。

しばらくして優子も意識半分で瞼だけを開けたようだった。
二人して無言のまま目の前に展開される映像を無意識に受け入れていた。

駐車場の低い柵の直ぐ向こう側が湖であることが初めてわかった。
霧は湖一面水面を這うように渦を巻きながら流れていた。
その霧に根元を隠された木々の輪郭が湖の向こうに次第にはっきり浮き彫りになって来る。
その幻想的な光景はまるで天国の入口にいるかのようだった。

やがてその木々の根元に戯れる白い霧が鮮やかな紫色に変わり始めた。
その紫の霧が中央に集まってきて空に昇って行く。
その紫の霧の柱を追いやるように次に緑が現れ集まっては空に向かって行く。
次に黄色、最後に橙が現れた。

『何でこんなことが起こるのだろう?』俺は不思議な感覚に陥った。
まるで縦の虹を斜めから見ているようだった。

直ぐに太陽が姿を見せ、はっきり明るくなると
瞬く間にそのノンフィクションのドラマはスライドが終わるように静かに消えてしまった。

僅か10分くらいの出来事だろうか?
俺たちはしっかり寄り添ったまま身動きもせず感動に浸っていた。

人間は『世界』を口にはするが、それは人にとって都合のいい『社会』のことで、殆ど何もわかっちゃいない。
学校でも本当のことは教えない。
自然の言葉を超えたメッセージは人間を常に優しく包み育んでいる。
それを意識できないのは人間のエゴのせいかもしれない。

しかし、人間がその自然との繋がりをいくら絶とうとしても自然は淡々と受け入れて、
恣意なくその姿を惜しみなく現してくれる。
いや気づかないだけで日常の営みとして延々と繰り返えされているのだ。

昨夜の星空も特別のことではなく自然のありのままの姿でしかない。
しかもそれは人間との揺るぎない絆を感じさせる。

その意味自体を考えることさえも人間の傲慢なのだろうか?

「綺麗だったね。」しばらくして優子がぽつりと言った。
「ああぁ、そうだな。」
そう答えると俺は抱いている左の腕にゆっくり力を入れ優子を引き寄せるとその額に心を込めて口づけをした。
一瞬俺の薄い無精ひげでもチクリとしたのか優子の顔がピクッと動いた。
優子はすぐさま強く自分の頬を俺の胸に押し当てて来た。

何とも言えない幸福感、まるで世界が二人っきりになったようだった。

自然も確かに変化しているのだろう。成長しているのかもしれない。
しかし、それは極々平凡な気の遠くなるような反芻、反復の繰り返しの先に結実されるもので、
人間の忍耐とか努力など到底及ばない。
少なくともこの人生が終えるまで俺は優子に対するこの気持ちを持ち続けることができるだろうか?

そのためには自然のように日々起こる出来事を淡々と受け入れ過不足なく生きるしかないと思えた。

これからどのようなことが起きようともその現実は俺たちの都合を超えて最良のものであり、
俺たちの人生にとって全て必要不可欠であることを予想させた。

『俺は何があっても優子と共に生きていく。』
それは一時の高揚や情熱ではなく、極自然に静かに俺の心に沁みてくるものだった。


その余韻を惜しみながら、俺は4t車をスタートさせるしかなかった。
帰りまで3時間しかない。ギリギリ間に合う時間だった。


これが優子との出会いの頃、最初で最後の大切な思い出となった。

結局優子を連れて行ったことが会社にバレてしまうのだが、それはたいした問題ではなかった。
引き止める哲に後ろ髪を引かれるでもなく、俺は次の運送会社に移って行った。


そして、それから1ケ月もしない春の初めに、あの優子からの突然の電話で

俺たち二人は別れる決心をするのだった。



(第一章 終わり)

俺は一人になっても全然孤独感など感じなかった。
日頃の一人旅とは全く違う。幾ら運転が好きでも、いつもは仕事以外の何ものでもないのだ。
俺は優子を起こさない程度に鼻歌を歌いながら上機嫌で運転していた。
このまま行けば朝の7時頃には十分京都に着くように思えた。

しかし、都会の朝は高速道路も混んでいて神戸くらいからは思うように走れなくなった。
吹田から名神道に入り京都南ICで降りる頃には8時を過ぎていた。
高速を降りダラダラと通勤ラッシュの中、都会の騒音でやがて優子も目を覚ました。
眠い目を擦りながら『ここどこ?』と尋ねる優子はやはり可愛かった。
京都だと答えると矢庭に興奮が甦ったようだ。
俺の膝から慌てて身体を起こすと助手席の窓にしがみついて目を丸くし京都の街並みに見入っていた。
京都の街並みは日常的ではない古(いにしえ)の佇まいを感じさせた。

しかし、正午前までには大阪に戻り荷物を降ろさなければならない。
残念ながらゆっくり観光めぐりをしている余裕はなかった。

碁盤の目のように整えられた道路を抜け京都タワーを目印に京都駅に向かう。想像以上にお寺が立ち並ぶ、東西の本願寺、古都の風情を残した祇園の狭い道に入り込んだり
『あっ、ここが三十三間堂だぁ!』とか『金閣寺のあるとこだ!』とか、
めくら滅法運転しても感動に暇(いとま)がなかった。

停まってゆっくり鑑賞する時間も、ましてや4tを停める場所も中々ない。
嵐山に着いた時は9時を過ぎていたが唯一停める場所があったので降りてみることにした。

毎年暖冬が続いて九州では寒さに疎くなっている。しかしここがこんなに寒いとは思いもしなかった。
トラックを駐車場に停めて降りると強い横風が頬に当たって痛いほどだ。
ここの風のことを『比叡おろし』というのかどうかわからないが、
山々の背の高い竹林が強風に大きくなびいて『ゴーゴー』とうなり声を上げている。

俺はしっかり優子の肩を抱き優子は俺にしがみつくように歩いた。
真冬の平日の朝なので殆ど人気はない。それが寒さを一層強く感じさせる。
優子は寒さなど全く気にもならないように元気で楽しそうだった。
元々観光とか趣味ではないので古い名所とかに行っても何も感じないのだが、
優子と初めて体験する自然の感覚が俺の心に染みてくる。

朝食と寒さをしのぐために一軒の情緒ある佇まいのお店に入ることにしたが、京都言えば豆腐料理。
しかし、その値段の馬鹿高さに目が飛び出しそうだ。これも優子との思い出のためだから仕方ない。

俺たちは後ろ髪を引かれながら早々と京都を後にした。
大阪の荷物を降ろす場所についたのは正午ギリギリだった。
13時になって一回目の電話を哲に入れる。帰りの荷物を引き取るのは夕方五時以降と言うことだった。

夕方の時間まで通天閣など4tを転がしながらブラブラした。
郊外でないと中々停めるところはない。車を降りたのは唯一太陽の塔のある万博跡地くらいだった。

それでもその数時間はあっという間に過ぎてしまった。
帰りの荷物を積み込んで再び走り出したのは6時を過ぎていた。

ドライブインで食事を取った後には流石の俺も眠気が刺してきた。30時間以上一睡もしてない。
2度目の電話を哲に入れる。仮眠したいと言うと朝10時まで戻ればいいということだった。

優子も疲れ切っていて互いに泥のように眠りこけた。次に起きたのは夜の10時を過ぎていた。
途中で休みながら帰っても十分時間はあった。
僅か2時間ばかりの仮眠でも俺には十分だった。ハンドルを握りさえすれば完璧に正気に戻るのだ。

帰りの車の中では必然的に会話も少なくなる。
優子は行きとは大違いに大人しく寝ては起きてを繰り返えしていた。
何度も勧めて、やっとのことで優子を仮眠席に追いやった。

残念ながら高速に乗ると直ぐに雨が降ってきた。
雨は次第に強くなって行ったが、全然苦にはならない。
優子は爆睡している様子でピクリッとも動かなくなった。


4時間ほど走ると突然後ろから優子の声がした。
「わぁ〜っ!星が綺麗!」

時計に目をやると夜中の3時、まだ雨はかなり強く降っていた。星など見えるはずがない。
俺は優子が寝ぼけていると思ってゲラゲラ笑って返した。

そこは千代田というインター付近で中国自動車道の中で最も山奥の標高が高いとこだった。
しかし、しばらくたってまた優子が寝ぼけた叫び声を上げる。
「ホンと星が綺麗!何でエ!」
仕方なく俺は、フロントガラスに顔を近づけて空を見てみた。

雨は降っているがところどころ雲が薄くなっているところがある。
それが見えるのは月明かりのせいではなかった。
その雲間から見たこともない星屑の明かりが雲を照らしている。
優子の声は寝ぼけているせいではなかった。優子には仮眠席の小窓から上空が見えていたのだ。

優子は急に起き上がり後ろから俺の肩を叩いてまた叫んだ。
「ねえ、ねえ、タカさん!星が綺麗よ!こんなのわたし生まれて初めて!」

俺は次のパーキングエリアに4tを停めることにした。
やがて雨が上がり4tは誰もいない真っ暗な駐車場のど真ん中に停まった。
再び俺はフロントガラス越しに空を見上げた。上空の雲はかなり開けてきて満天の星空に姿を変えていた。

俺たちは上着を着込んで雨上がりの駐車場に降り立った。
後にも先にもこんな星空を見たことはなかった。感動で言葉も出ない。
夏の夜、海に行って空を眺めていると次第に目が慣れ焦点が合ってきて
星が降るように群れをなして見えることがある。しかし、その時の星空はその段ではなかった。

薄い綿菓子のような雲がレースのベールのように戯れながら足早に視界の外に消えて行く。
たちまち夜空は散りばめた宝石のような無数の星々に埋め尽くされた。
星雲やミルキーウェイのような星の川が無数の光り輝く星々をバックにしでも、
まるで図鑑のように浮き立って鮮明に見えるのだ。

天空は無限と言えるほど遠くに感じさせながら、宇宙全体は俺たちを優しく包み込むように身近に感じた。

地球はこんなにも無数の数え切れない多くの星座に本当は包まれているのかと思った。
人間の存在どころか地球さえも塵のようにちっぽけに感じる。
この壮大な宇宙の中で俺たち人間は些細なことに拘り四苦八苦しながら生きているのか。
人間の哀れさ、与えられた人生の儚さを感じずにはいられなかった。

しかしまた、間違いなく俺たち人間もこの宇宙の一部なのだ。
その必然的な繋がりと揺るぎない強い絆を感じ、何とも言えない安堵感に心は満たされるのだった。

山の中のパーキングエリアは僅かばかりの外灯があるだけで山々は真っ暗で何も見えなかった。
しかし、その夜空は無数の光り輝く一面の星々に照らされ信じられないくらい明るかった。

俺たちは肩を抱き合い寄り添ったまま無言でその自然のプラネタリウムを時が経つのも忘れ見入っていた。

やがて2月になり、優子は間もなく春休みに入る。優子は早生まれなので19歳の誕生日ももう直ぐだ。

恵比寿運送での仕事も順調だった。
相変わらず哲と俺は名コンビだったし、彼は俺にそのままいて欲しかっただろう。
しかし俺は、ここを後にするのを決めていた。待遇や仕事に不満がある訳ではない。
逆にこのままいると居心地が良すぎて、ずるずる抜け出せなくなる気がした。

中距離運転の仕事は楽であってもそれ以上でもそれ以下でもない。
トラックの運転手は仕事を覚えると年齢に関係なく同じのことの繰り返しだから能力的に成長とかない。何十年やっても運転手は運転手。多分そんな人生は刺激がなさ過ぎて耐えられないだろうと思った。

ある日の夜間明けの午後、俺は優子と久々英国茶館にいた。

昼間だったので店には明美と珍しくママがいた。
この店はチェーン店でママは全体の管理も任され、週に3日ほど昼間にしか顔を出さなくなっていた。
相変わらずママは個性的な色気を放っている。
肌の色が透けるように白くか細い。彼女は見た目以上に気品と人間的なゆとりがある。
この店の制服は基本的にピンクとブルーだがママだけは白を着ていた。

この店はそのままスナックにしてもこのメンバーだったら大繁盛だったろう。
都心の盛り場にクラブを出してもママならトップクラスだと思った。

昼間なので慶介とか博はまだ顔を出していない。

優子と俺は他愛無い話をしていたが、ふと急に優子が思い出したようにニヤニヤして言った。
「あのね、お父さん今度昇進するかもしれないの。」
「ほう、それは目出度いな。」
優子の親父はエリートと言っても裕福な家庭環境だった訳ではない。若いころ医者になりたかったらしいが、
家庭の貧しさから高校もアルバイトをして自力て卒業したほどの苦労人だった。

その親父が警視に昇格するかもしれないというのだ。
高校卒で警視になるには並大抵の努力ではなかったはずだ。しかも優子の親父はまだまだ40歳半ば。

「よくは分からないのだけど、昇格試験なのか勉強のために東京に10日くらい行っちゃうの。」

警視になると地方公務員から国家公務員になる。そのため東京の警察学校に行かなくてはならないようだ。

「ふ〜ン、大変だな。」俺は特別興味もなさそうに答える。
「でっさあ。お母さんも『いっちゃおうかなぁ。』何て話が出てるの。
お父さん家事なんて全く出来ないからね。性格的に料理どころか掃除洗濯なんて絶対やらないの。」
「俺とは大違いだな。」
「その上、妹も大学受験で今月東京に行くの。もしかして重なるかもしれない。
そうなったらお母さん絶対行くって言ってるの。」
「ふ〜ん?」
俺の気ない返事に優子は珍しく苛々した。
「さっきから『ふ〜ン』ってばっかりで、何か思わない?」
「・・・?」俺はちょっと驚いて優子を見た。
「だからぁ。そうなったら一週間くらい家には私一人なの。」
『なるほど、そういうことかぁ』
俺はそういう話題には疎かった。
それに優子以外誰もいないとは言え盗っ人みたいで家に上がり込む気には到底なれない。

「休み取れるかなぁ。」
「そっ!」優子はちょっと膨れっ面をして言った。
「でも、そうなったら少しは長く一緒に居れるよね。ちょっと心配だし・・・。」
「お父さんもお母さんもそれ心配してるんだけど『全然大丈夫よ。』って言ったら、
その気になっちゃって・・・。あ〜あっ、二人でどっか行きたいなぁ。」
「そうだなぁ。哲に休めるか聞いてみるか。」
「ホンと?駄目ならタカさんの仕事に着いていくとか・・・。トラックとか乗ったことないし
一晩中タカさんとドライブなんて楽しそう。」

優子はどう見てもトラックとか似合わない。
でもこの娘は見た目以上に好奇心が旺盛で何でも素直にやってみたがる子だった。

「それは無理だな。仕事に女連れて行くなんて、禁止されてるしバレたら即クビもんだ。」
「タカさん『規則なんてクソ食らえっ!』っていつも言ってる癖に・・・。
一見ワルそうに見える割には全然真面目なんだから・・・。」
「そうじゃなかったら優子も俺とは付き合わなかったろ?見た目は生まれっつきだから仕方ないだろ。」
優子はちょっとムッとしたようにそっぽを向いた。

慌てて俺は言う。
「優子の誕生日も近いし出来るだけ一緒に居れるようにするよ。でも本当にどっか泊まりにでも行けるのか?」
「多分毎晩電話掛けて来るわ。でも一日くらいだったら大丈夫。寝てたって言えるもん。」
真面目な優子にしては大胆な発言だった。

「本当にそうなったら色々計画立ててみようか。楽しみだな。」
ご機嫌を取るように言った俺のその言葉で、少しは優子も機嫌を直したようだった。


しばらくして優子の思惑通り両親は東京に行くことになった。両親は10日間、その間妹の受験が3日間重なる。
しかし、二人の期待を裏切るように俺のスケジュールは夜勤開けの休みが一日あるだけだった。
俺はそれでも3日間少しは優子と長く一緒に居れることで十分満足だった。

当然俺も優子とできるだけ一緒にいたいのは山々だ。こんな機会は滅多にない。
優子の誕生日も近いので彼女は喜ぶことを何かしたいと思っていた。

しかし逆に事態は最悪になった。
夜勤の仕事が珍しくチャーターが入り長距離で大阪へ荷物を運ぶことになったのだ。
夜中の1時に出て昼過ぎに大阪に着く。
大阪からの帰りの荷物を積み込み次の日の朝に帰って来ると言う強行軍。
これではその3日間殆ど優子と過ごせなくなる。

あれこれ悩んだ挙句、俺は掟破りをするしかないと思った。
どうせ辞めるつもりだから見つかってクビでもいいのだ。事故だけは絶対気をつけなければならない。

そのことを優子に提案すると彼女は飛び上がって喜んだ。
初めての体験にワクワクして興奮を抑えららないという感じだ。
確かに若い娘がトラック野郎と二泊三泊も一緒に走るのは滅多にない経験かもしれない。
俺も大阪に行ったのは2〜3度しかなかった。

2月と言っても異常気象で雪など殆ど降らない。その年は特に暖冬だった。
下道じゃなく高速を自費で通れば往復時間を10時間ほど短縮できる。
一気に京都か奈良まで足を伸ばし、昼過ぎに大阪に着いて荷物を降ろし、
夕方までの5〜6時間大阪で過ごせるかもしれない。

やると決めたらタコグラフで会社にバレてもたいしたことはないと思える。
私用で行ったからと後で燃料費を払えばいいだけだ。そう考えると俺も次第にワクワクしてきたのだった。

待ちに待ったその日、俺は特に念入りにいつもの4t車を点検し磨きを掛けた。
夕方一旦アパートに戻り10時ごろまで仮眠を取るつもりだったが興奮して全然眠れなかった。
魔法瓶にコーヒーを用意し、優子の家に約束の11時に迎えに行く。
優子はまるで遠足にでも行くかのように弁当やお菓子が入った大きなバックを抱えて
シルビアに乗り込んできた。
彼女にしては珍しくジーパンにロングブーツだった。
黒のハイネックに白のダウンジャケットでスポーティだった。

「電話あった?」真っ先に俺は優子に尋ねた。
優子は笑顔で『バッチリ!』というように指で丸を書いてウインクして見せた。
戻れるのは明後日の朝になる。

俺たちは幸せの絶頂だった。話さなくてもお互い自然に笑みがこぼれる。
多分俺もいつになくしまらない顔をしていただろう。
会社には哲がまだいるかもしれなかった。会社の手前のミスタード―ナツで一旦優子を降ろす。
ちょっと淋しいが少しの辛抱だ。

俺が会社に着くと勤勉な哲はやはり事務所で待っていた。
「タカさん、早いなぁ。」哲は俺を見るなりそう言った。
「慣れない大阪なんで早めに出ようと思ってね。」ホンとに一分でも無駄には出来ないのだ。
「帰ってくるのは明後日の朝だな。明日大阪に着いた時と出る時の2度は電話を入れてくれよ。
大阪まで10時間は掛かるから居眠りは絶対するな。眠たくなったら仮眠しもいいから、
事故だけは十分気をつけてくれ。」心配性の哲が見送りながら言った。
俺が持つバックの大きさに一瞬不思議そうな顔をしたが、彼は何も言わなかった。

俺は4t車に乗るとエンジンを掛け、待ち遠しく感じながらもしばらく暖気運手をした。
何があっても車は大切にしなければならない。
『いよいよ出発だぁ。』気合を入れ直し4tをスタートさせる。
表通りに出て優子の待つミスタードーナツに向かった。

店の前に着くと優子は白い息を吐きながら中から飛び出してきた。
助手席側のロックを外すと俺も一旦車から降りる。
車高の高い4tだから慣れない優子は乗れないかもしれなかった。
案の上ドアを開けてやっても、どう足を掛けて乗ったらいいのか優子は戸惑った。
右にしようか左にしようか足を上げるたびにケラケラ笑うばかりで力が入らないみたいだった。

何気ないどうでもいいことの一つ一つがこのときは新鮮に感じた。

やっと乗り込んで4tが走り出しても二人はニヤニヤするばかりで中々会話にならなかった。
優子は4tの運転席の広さに感動したり、座席の後ろにある仮眠のスペースとかに興味を持ったり、
フロントガラスに近づいて視界の広さを満喫したり、好奇心丸出して目を輝かせていた。
車内は暖かいのでブーツを履いてるとむくんでパンパンになる。
俺は優子のためにスリッパを用意していた。少なくとも優子がトイレを求めるまでノンストップだ。

優子は一通り4tのチェックが終わると、
今度は『おにぎり食べない?』とか『お菓子いる?』とか俺の世話をしばらく焼き出した。

走り出して直ぐに高速に入り関門橋を渡って山口、岡山、広島、兵庫を経て大阪までの約600km、
ゆっくり休まなければ7時間くらいのドライブだ。
その頃まだ山陽自動車道はなかった。中国山脈の尾根づたいに造られた中国自動車道は延々とカーブ道が続く。
荷物を満載した4t車では精々平均120kmの速度くらいでしか走れない。

1時間ほどしてやっと慣れたのか優子も落ち着いて普通の会話になっていた。
これまで互いのことは殆ど話したように思っていたが、こと細かな思い出話は尽きる事がなかった。
それも殆どが笑い話だ。夜中に風呂から上がって台所を通るときにでかいゴキブリをグチャっと
踏んづけてまた風呂に入るはめになったとか、寝坊して焦って寝癖を直すのにヘヤースプレーを
髪にかけたら鏡に映っているスプレー缶にハエの絵がついていたとか、そんな他愛もない話ばかりだった。

夜中の中国自動車はがら空きで4tは快調に走っていた。俺は一気に京都まで足を伸ばすことにした。

車内は広く優子がドアに近づいていると手を伸ばしても彼女には届かない。
暇な優子は俺に近づいて顔を俺の肩にもたれかけたり、疲れてくると俺の膝を枕にして寝そべったりした。
後ろに毛布もあるので寝るように勧めても中々優子は言う事を聞かなかった。

夜中の2時になりパーキングエリアで最初の休憩を取った。
中国自動車道は山の中なので雪になるほどではないにしろ結構寒かった。
明け方の5時に近くには兵庫県に入り興奮して眠れなかった優子も、
うとうとし出してついに俺の膝の上で眠りについた。

「お前、家の反対押し切ってでも悠子と一緒になる気がないなら悠子に近づくなっ!
親がどう言おうと会社の後継ぎなんて蹴ってでも貫くつもりがないと、
どっちにしろうまく行かないぞっ。」
ますます慶介は戸惑って言葉が見つからず俯いて考え出した。
明美が心配して近づいてきた。他のお客の手前もあるのだろう。
「タカさん、声が大きいわよ。みんなに聞こえるじゃない。
さっきから『ゆうこ、ゆうこ』ってどっちの『ゆうこ』の話?」
明美はしれ〜っと会話に入ってきた。

「佐藤悠子・・・みたいだ・・・。」俺も慶介も答えないので博がぽつりと言った。
「えっ?誰が悠子ちゃんと結婚するの?」
俺は、俯いてる慶介の方に首を振って明美に答えた。
「ええ〜っ!慶介君?そりゃ無理よっ。」明美は当然のように言ってのけた。
慶介が驚いて顔を上げる。
「だって、女たらしのボンボンの慶介君じゃ、悠子ちゃんとは吊り合わないもん。
わたしの勘はよく当たるし、地獄耳だからそんな気配があったら直ぐわかるわ。
悠子ちゃん、いまは男と付き合う気なんて全然ないんだから・・・。
諦めてその辺の尻軽女で我慢しなさい。」
俺のより明美の言葉の方が慶介には効いたみたいだった。

「お、俺は本気なんだ・・・。」慶介がたどたどしく声にした。

明美は瞬間的に『カッカッカッ!』と笑ってから言った。
「誰だってそのときは本気でしょ。慶介君何人この店に女の子連れてきた?
その度に『今度は本気だ』とか『この女は特別だ』とか言ってたじゃない。
それがタカさんの言葉なら信じれるけど、・・・。
もっともタカさんならそんなこと口にしないけどね。」
慶介は20歳にも満たない小娘にいいように言われっぱなしだった。
明美は高校のときヤンキーだったので同年代よりは男女の関係を見て来たのだ。
「大体、付き合ってもいないのに結婚だなんて、頭おかしいんじゃない。
自分が望めば誰だって手に入ると思ってんの?」
「そっ、そんなことないぞっ!」頭に来たのか慶介が言い返した。

「あら、付き合ってなくても結婚望まれるなんていいなぁと思うけど・・・。」
店が暇になったのか、いつの間にか近くにいた美由紀が明美の後ろから言った。
「それにさぁ、悠子ちゃんいま傷ついてるから、変に付き合おうとか言うより
『結婚してくれ!』何て言われたら、ふら〜っとその気になるかもよ。」
「それこそ、慶介君の思う壷じゃない。」明美が言い返す。

「バカ、俺は本気だって言ってるだろ!」慌てて慶介が言う。
「言えば言うほど言葉が軽くなるわよっ。」明美は慶介の言葉を無視するように言った。
「美由紀ちゃんどっちの味方なの?そんなんで結婚しても不幸になるだけじゃん。」

「モチ悠子ちゃんの味方に決まってるでしょ。いいじゃない、うまくいかなければ離婚すれば、
慶介君お金持ちだから慰謝料しっかり取れるわよっ。」
「なるほど、それも有りねぇ。」明美は簡単に納得した。

「そんなことより、博君聞いたわよ。やったねぇ。」
急に明美が話を変えた。黙っている博が驚いて明美を見た。
「美由紀ちゃんとのことっ!
わたし昨日のこと知ってたから『どうだった?』って聞いたら、
美由紀ちゃんしゃあしゃあと『モチよかったわよっ。』だって。その後延々とのろけっ!」
意味深に明美は笑いながら言った。博は顔を真っ赤にして目を背けた。
『もう!』と言うように美由紀が明美の肩を叩いて二人は笑った。

博の懸念は消えたようだ。慶介は真剣な顔つきでまだ考えていた。
「わかった。俺悠子に告白する。もし反対されるなら家の後も継がない。
就職決まったし直ぐに結婚できるかどうかわからないけど、真剣に悠子に話してみる。」
独り言のように慶介はきっぱり言った。やはり、慶介は本気みたいだった。

「明美ちゃんだって、厳しいこと言ってるけど慶介君の味方なのよ。ただ悠子ちゃんのことが心配なだけ。
何故か悠子ちゃん男運がなくって騙されてきたけど、ホンとあんないい人滅多にいないわ。
慶介君ちょっと坊ちゃんぽいけど、背が高くイケメンだし見た目お似合いだってわたしは思うけどな。」
「う〜ン、可能性低いと思うけどなぁ。見た目なんて関係ないわよ。
ホンとわたしたち悠子ちゃんこそ幸せになって欲しいって思ってんだから・・・。
本気なら応援はするけど、騙したら慰謝料がっぽり貰うからね。」明美は自分のことのように言った。

「もう、慶介気合よっ!誠意をもって真剣にアタックすれば道は開けるよ。」
恵美子は真剣慶介を応援しているようだった。

いずれにせよ外野が決めることではなく悠子次第だった。
後は慶介がどう真摯に取り組むかしかなかった。


俺は初めからこの話はうまくいくと直感的に感じたていた。
振り返ると何となくだが、慶介がそう言い出す前からそんな気がしていたのだ。

男女の関係とは本当に不思議なもので、かなり確率の低いとこで短絡的に関係ができてしまう。
しかし、当の本人たちはその出会いが特別なもののように感じてしまうのだ。
『この人が一番わかってくれる。』とか『一番優しい』とか『一番』とか言いながら、
たいして人とは深く付き合ったことはない。極々少ないチャンスを『一番』と思い込む。

つまり、誰と結婚するのかは初めから決っているような気がする。
でないとお見合いとかで結婚できるわけがない。
それを『赤い糸』とロマンチックに言ってもよいのだが、現実にはそんな甘いものではない。
『この二人は結婚するな。』と感じて現実そうなることも多いのだが、それで幸せになるとは限らない。
 逆に『どうもこの二人は違うなぁ。』と思ったらそのうち別れることが多い。
もし間違って結婚でもするなら、うまくいかない確率は100%に近かったりする。

決まってはいてもある程度人間の自由意志に任されているのだと思う。
人間は理性と本能の動物で本能がある限り100%必然的には生きられないのだ。


客観的に見れば実際、慶介はいい男だった。
ある意味博もそうなのだ。堅物そうで融通の利かない要領の悪さはあっても実直で誠実さを持っていた。一人の女を思い続ける浮気とか出来ないタイプだ。
逆に慶介は我ままで軽薄であっても人生設計が明確で世渡り上手、男としての責任感もあったから、
嫁さんになる女が生活に苦労する事はないだろう。その上何より彼は優しい性格だった。

当然慶介の懸念する通り親からはかなりの反発を受けるだろう。しかし、悠子なら大丈夫と思った。
悠子の持って生まれた容姿以上に優しい人間性を理解できれば、誰だって彼女を気に入る。
ただ何となくだが、あの一平事件以来悠子には『ひた向きさ』という言葉がぴったりになった。
浮ついたりしないと言うより、現実的には喜怒哀楽を表に出さないようになっていた。

もともと悠子が慶介を嫌っていたわけではないので、慶介の申し出を頭から断ることはなかった。
しかし、悠子にとっても結婚と言う言葉を受け入れるにはそう簡単ではない。
慶介の気持ちが如何に真剣で本心かを悠子に納得させるには時間が掛かる。

まだ付き合っているという確信を持てない慶介は自信がなかったのか、
その頃よく俺に『ダブルデートをしましょう。』と持ちかけた。
2組のカップルでテーマパークや遊園地に行くのだ。俺はこれには閉口した。俺の趣味ではない。
しかし、優子も嬉しそうノリノリになって色々計画を進めるので仕方なく何度か行くことになった。
悠子も本心あまり気は進まないようだった。

明美を除いてそれぞれに春が来ていた。このまま何事もなく時は進むような気がしていた。
しかし、試練は直ぐそこに大きな口を開けて待っていたのだ。

やがて歳が明けて新しいときを迎えた。
俺にはクリスマスを祝う余裕も正月特別新たまるという習慣もなかった。
ただ去年と違って今は優子がいる。それだけでも俺にとっては雲泥の差だ。
俺たちは過不足なく訪れる日々を淡々と生きていた。

ただ、どんなに話しても話し尽きない思いや何度となく会っても、
もっと一緒にいたいという思いは一層募るばかりだった。

人間はどんなに愛し合ったとしても肉体的に隔たりを持っている以上一つにはなれない。
そのもどかしさが益々その思いを強いものにしていた。

もし、地球上のすべての人が、こんな感情を抱いたまま一生関わりを続けられるなら
世界はもっと平和になるだろうと思った。
しかし、残念ながら現実はそうではない。ということはこの感情は一過性のものなのだろうか?
俺の思いも優子の気持ちもやがて色あせ劣化してしまうのかもしれない。
未熟な人間に『絶対』と言い切れるものはないのだ。
そのときはそのときで受け入れるしかない。少なくともいまは優子に対する思いを大切に生きようと思った。

恵比寿運送の仕事も順調だった。運転手はそれぞれ人生のハンディを抱えながら生きていたのだろうが、
叩き上げの哲の親父が心血注いで人生掛けて創りあげた会社の人情的風土と
哲のキャラクターそのものが運転手の心を繋いでいた。

その上中距離は運転時間が長く必要以上に人と関わることが少ない。
一旦会社を出ると夜遅くか次の日の朝にしか戻れない。
だから会社で同じ奴に出会う確率は精々3日に一度くらいしかなかった。
それでもいままで以上に仕事のことや客先のこと、ここに行ったらここで飯を食った方がいいなど、
これまでの職場になかったコミュニケーションが取れるのだった。

ただ、ここにも長くはいれないことを俺は感じていた。俺は何よりもマンネリ化した生活が苦手なのだ。
同じ職場に3ケ月もいると飽きてしまって刺激がなくなる。
しかし、今回ここを去る理由はそれではなかった。
決して運送の仕事を卑下しているのではない。社会にとっても必要な仕事だ。
もし時が経って優子と結婚できたとしても優子が俺の仕事を恥じることはなかったろう。
あくまでもトラックの運転手は俺にとって仮の姿でしかない。
俺が命を掛けられる仕事が必ずあるという確信が心の中にある限り妥協はできなかった。


英国茶館に行く回数も必然的に減って精々週に3度くらいになっていた。
佐藤悠子は失恋の痛手からすぐに立ち直ったが、一皮向けたように大人になったようだった。
試練は人間を強く賢くする。一方明美や美由紀には相変わらず何の変化もなく成長もないように思えた。

俺は夜間の仕事が続いて一週間ぶりの夕方、仕事帰りに英国茶館を訪れた。
真っ暗な駐車場に車を止め、いつものように通用口に向かう。
通用口に近づくにつれて入口のところをうろついている人影が見える。
ガタイのでかさからいって田沼博に間違いないなかった。
彼も俺に気づくと気不味そうに声を上げた。
「あっ、タカさん・・・。」
「何やってんだ?」怪訝な感じで俺は博に声をかける。そのまま中に入ろうとしても博は来ないようだ。
一旦開きかけたドアを閉めて、再び博に声を掛けた。
「入らないのか?」
「え〜っと、先に行っててください。」
戸惑ったように博は言うが、どうも歯切れが悪い。誰かを待ってるわけでもなさそうだ。
「どうしたんだ?こんな寒いとこで、さっさと中に入ろ?」
「いや、それがですね。」
やっぱり何かあったみたいだ。
「何かあったのか?」
「いや〜っ。どうしようかな。え〜っと、やっぱり駄目だぁ。」
と言って博は気味の悪い照れ笑いを浮かべた。
「誰か待ってるのか?」
「待ってるってほどのことでもないですが・・・。」
どうも博の態度は煮え切れない。こんな奴見ていると段々苛々してくる。
「実は美由紀さん待ってるんですが・・・。」
博は俺の苛々を気づいてか、でかいガタイを小さくするように小声で言った。
「美由紀?中にいるのか?・・・今日は早晩か?」
その俺の問いにも博はモジモジして中々はっきりとは答えない。
「さぁ?中に入ってないからわかんないです。」
「馬鹿かぁお前!こんな寒空の中、いるかいないかもわからない奴を待ってるのか?暇な奴だなあ。」
俺が一歩近づいたので博は少々たじろいだように身体を仰け反らせた。
「あの、言います。言いますから・・・。実は入れない訳があるんです。」
その言葉に、俺は多分博が告白でもして美由紀にフラれたのだろうと思った。
「もう、諦めろっ。執念深く待ち伏せなんかしてると益々嫌われるぞっ。」
その言葉に博は首を慌てて横に振って言った。
「違うんです。そうじゃないんです。実は・・・う〜ン言いにくいな。」
博は辺りを見回し誰もいないことを確認した。
「あのですね。美由紀さんとはうまく行き掛けたんです。タカさんだけに言いますから内緒にしてくださいよ。
デートってことではないんですが、何度か二人っきりで裏の公園とかで話して、
昨日美由紀さんの部屋に誘われて行ったんです。」
『ほう、可能性があったのかぁ。そりゃまた結構なことで、捨てる神あれば拾う神ありだな。』と思った。

「でっ、何が問題なんだぁ!」その後中々博が口を開かない。
「実はですね。段々いい感じにはなったんですけど、・・・つまり、いざという時になって、自分のが・・・役に立たなかったんです。」
『はぁ?』一瞬そう思ったが、次の瞬間俺は大声で笑ってしまった。
「あ〜あっ、だから言いたくなかったのにぃ。」博はいじけたように言った。
「だから、何なんだ?」俺は我に返って真面目に言った。
待ち伏せしてリターンマッチでもやらかそうかと言うのだろうか。
「いや、俺この歳になって初めてだったし、焦っちゃって、どんどん不味くなるし・・・。
そしたら美由紀さん笑い転げちゃって・・・。」
『そりゃ、大変だったな。でも、そんなことざらにあることで気にすることでもないのだ。』
と思ったが馬鹿馬鹿し過ぎて言う気にもならない。

「だから今頃、中では噂になって、みんなに笑われてるかと思ったら入れなくって、
でも美由紀さん、俺本気なんです。」
博が本気かどうかはわからないが、下半身に主導権握られてるだけかもしれない。
「バカか。美由紀がそんなこと言いふらすか。」
美由紀は勘違い女だが、そんなことで男を馬鹿にするような奴ではなかった。
「でも、あのとき笑い転げたんですよ。」
「俺も笑っただろう。ただ可笑しかっただけじゃないかぁ?じゃあ、お前何しにここに来てんだ?
そんなこと気にするならさっさと帰れ!」
博は黙ってうな垂れた。俺はちょっと博に同情した。

「わかった。わかった。俺が行って来てやる。少しここで待ってろ。」
博は急に顔を上げ希望に目を輝かせ嬉しそうに俺を見た。
俺は『仕方ねえなあ。』と言う感じでゆっくりドアを開け中に入った。

店の中に入ると何事もなかったかのように普通のままだった。
美由紀はカウンターの中にいた。
いつものカウンターの端から2番目に井上慶介も座っていた。
「やぁ、先輩!久しぶりですね。」
俺に気づいた慶介がすかさず言ったが、久しぶりといっても10日くらいなのだ。
俺もいつもの席に座る。
慶介は親父の会社の取引先大手メーカーにさっさと就職を決め、後を継ぐ準備を着々と進めていた。
すぐに美由紀が近寄ってきた。
「タカさん、お疲れ様ぁ!ホンと2〜3日顔見ないとどうしたのかなぁって思っちゃう。」
雰囲気からして博の懸念は妄想でしかなかった。あいつは自意識過剰なのだ。
俺は身を乗り出して美由紀に顔を近づけた。
俺のその仕草に一瞬真面目な顔になった美由紀も察したように耳を近づける。
「通用口の外で博が待ってるぞっ。」俺は美由紀の耳元で囁くように言った。
「田沼君?」美由紀は驚いたように目を見開いた。
「何で入ってこないの?」美由紀は続けて言った。
「知るか。自分で聞いて来い。」

美由紀は仕方なく明美に声を掛けそそくさとカウンターから消えていった。
「博が通用口で?」
聞こえていたのか慶介が呟く。
そのとき、向こう側にいた明美がニヤニヤして近づいてきた。
「ふふ〜ん、私聞いちゃったよ。美由紀さんと博君できちゃったみたい。」
その言葉にコーヒーを飲みかけていた慶介が吹き出しそうになって言った。
「いつの間にそんなことになってるんだぁ?」
慶介も彼らのことは知らないみたいだった。

美由紀は直ぐに戻ってきた。ちょっと間を置いて博が照れくさそうに入って来て慶介の横に座る。
でかい図体に似合わず、まるで借りてきた猫だ。
「ナンかあったの?」事情が呑み込めない慶介がそれとなしに博に尋ねる。
「いや、ナンもないっス。」博はそう言うとうな垂れて黙りこくった。

急に慶介が俺の方を向いて真面目な顔をして言った。
「実はタカさんに相談があったんですが、中々会えなくって、・・・真面目な話ですよ。」
「ナンなんだ?」俺は特別興味なさそうに言った。
「ちょっと言いにくいんですが、俺、悠子と結婚しようと思ってんです。」
突然の慶介の言葉に俺も飲みかけたコーヒーを噴出しそうになった。
『おいおい、たった一週間来なかっただけで状況はそんなに変わってんのかぁ?』と思った。
「悠子失恋して、その後直ぐお前とそんなことになってんのか?」
「いえいえ、悠子には何も言ってません。」
『はぁ?』
「俺、悠子のことずっと好きだったみたいで、でも彼氏がいたから諦めてたんです。
去年別れたって聞いてからずっと意識し出して、段々たまんなくなって・・・。でも俺、
ここにとっかえひっかえ女連れてきてるから軽薄な奴と思われてるでしょ。あいつ結構傷ついてたし、
いまの状況で悠子に付き合おうとか言っても多分真剣に捉えてくれない気がするんです。
でも、いまははっきり結婚するなら悠子だって思ってるんです。」
『思われてんじゃなく、お前は軽薄なんだよっ。』と思った。しかし、今回の慶介は本気みたいだった。

『う〜ン、なる程。いいかもしれない。』色々想像して俺はそう思った。
「よしっ!お前悠子と結婚しろっ。俺が許す。」俺は言った。
「何言ってんですかぁ。これからが相談なんですよ。」
「相談?」
「結婚となると色々問題あるんです。一番はうちの親父です。
親父の頭の中は大手取引先の身内の中から見合いさせて結婚させようと思ってるんです。
もう高校のときから言われてて、だから若いうちに遊んどけってのが口癖だったんです。」
『なんちゅう親だ。勘違いも甚だしい。息子の人生をナンと思っている。
しかしそう言われて都合よく遊んできたのもお前だろっ!』
と腹が立った。
「うちの親は絶対相手の家系がどうだこうだ。育ちがどうこうって言うんです。
嫁であっても学歴とか気にするし、悠子は中卒だから絶対誤魔化せないですね。」
「何言ってんだ!お前は馬鹿かっ!」段々我慢ならなくなって俺は大声になった。
一斉に店にいる全員が驚いた顔をしてこっちを向いた。

親にレールを引かれながら自分は自由に生きていると思っている。あまりにも自然すぎて自覚はないのだ。
何の手立てもなく人生の中に放り出され自分の力だけで切り拓いていかなければならない奴らも
多くいるというのに、まさに悠子がそうだった。
それに比べ下駄を履かされた、ある意味恵まれた人生を極当然の権利と思っている。

何故俺が大声になったのか慶介は理解できずに眼が点になっていた。

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