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私にとって、この秋から冬にかけての大きな喜びは、まさしく、
リサ・バティアシュヴィリの新譜、チャイコフスキーとシベリウスの協奏曲集を聴くことでした。
毎日のように、聴き惚れていました。聴くたびに、何とも言えない幸福感にうっとりしてしまいます。
リサさんのヴァイオリンは、その深い音楽的理解にしても、ボウイングやフィンガリングの
自在なテクニックにしても、あまりにも事も無げに表現されていくので、ともすると、
その凄さが「自然」であるように聴こえてきます。しかしその桁違いのクオリティは、
私の場合、聴くたびに驚嘆の度を増していくのです。
再録音のシベリウス、初録音のチャイコフスキー、
いずれも、私にとってすでに掛け替えのないものになりました。
今回のパートナーは、ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレ。
リサさんの音楽性とバレンボイムのそれがマッチするとはあまり思えず、
少し心配しておりましたが、ティーレマンとのブラームスのときと同様、
想像以上によく噛み合っていました。
チャイコもシベリウスも、ソリストのテンポ感、フレージングに丁寧に寄り添ってます。
SKBのサウンドは分厚く、重量感は満点。また歌劇場オケだけあって、響きはゴージャス。
究極の「合わせもの」を日々演奏している集団だけに、テンポにせよ、音程にせよ、
ハーモニーにせよ、互いによく聴き合って、集まるべきところにきちんと集まる。
そのアンサンブル能力は見事と言うほかありません。そしてオケだけになると、
盛り癖があるのは、いかにもバレンボイムらしい(笑)。
彼女のレコーディングは、今後も「巨匠」との共演になるのでしょう。レーベルの意向で。
当然、巨匠にも自身の経験、音楽観、作品理解、そして個人的な趣味があります。
自我の塊のような芸術家同士の、抜き差しならぬ「対決」が展開されるに違いない。
時には決死の綱引きがあり、時には信じがたいほどの一体感が生まれます。
彼らが繰り広げる激しい摩擦、燃焼と科学反応もまた、演奏芸術の醍醐味ですね。
シベリウスについて。
サカリ・オラモ指揮フィンランド放響との初録音から10年足らず。
あれも素晴らしい演奏だっただけに、今回、再録と知って驚きました。
でも、ここ数年の彼女のシベリウスを聴いていると、確かに進境著しいものがあり、
彼女としてもきっと、ある種の確信を得て、再録音を望んだのではないかと思います。
音楽的な構えの拡大と共に、彫りは一層深まり、ひたすら本質へ切り込むさまは圧巻です。
大きな音楽でありつつ、細部の彫琢は精密。聴き終わると、「アーメン」と唱和したい気分。
「げに、かくあるべし」と。同曲の録音史上、最高峰だと思います。
オラモ盤の引き締まった響きとキレの良さ、そしてバレンボイム盤での濃密な響きとスケール、
両方とも魅力に満ちたシベリウスです。比べて愉しむのもよいですね。
ついでに言えば、前回はストラド、今回はグァルネリ・デル・ジェスと、演奏楽器が異なります。
はっきり個性の違いが現れています。高音部のダイヤモンドのような輝きは前者の、
低音部の厚み、太さ、まろやかさ、人の声のような安心感は後者の最大の強みですね。
さあ、チャイコフスキー。
徹頭徹尾、歌い抜く。その一途さに、胸を打たれます。と同時に、
演奏はとてもナラティブな運びを見せています。物語の朗読のよう。歌と語り。その合一。
ですから、一音一音、一弓一弓、多彩な色合いとニュアンスを宿しながら、
どこもかしこも見事なフレージングで歌い上げていくと同時に、その音色の変化や
イントネーションは、より大きなコンテクストの中にすっぽりと収められています。
曲全体の大きなヴィジョンが見失われることは絶対にありませんが、
それは、建築的なコンポジションというより、文学的なコンテクストによる造形です。
どの楽章も、テンポの設定、設計が絶妙ですが、その組み立ては、
歌と語りが情感豊かに流れていくための〈呼吸〉と結びついているようです。
例えば1楽章、ソロ・ヴァイオリンのカデンツ風の導入から第1主題の提示へ。
作曲家が付した幾重ものスラーの意味を丁寧に汲み取り、小さな起伏で息を整えつつ、
導入句全体を完全にひとつの流れに収めていきます。続く第1主題の提示も同じ。
切々と歌いながら和声的な緊張と緩和を繰り返し、それらを大きなラインとして
連綿と紡ぎだしていきます。こうした歌と語りによる練り上げを繰り返しながら、
一息一息の呼吸の深さ、長さ、強さ、しなやかさが、どんどん拡大してゆく。
自在な緩急/強弱によって、〈時間〉のナラティヴな流れは伸縮を繰り返し、
ひとつひとつの言葉は意味=方向づけられ、やがて長大な物語に編み上がる。 その証は、展開部、カデンツ、再現部へと音楽的な深度を増していく点にあります。
難儀な提示部を経た後の展開部は、往年の巨匠も今日一線で活躍する演奏家も、
突然機械的になってしまったり、単なる技巧的処理の連続となってしまいがちです。
しかしリサさんの演奏は、展開部以降も、その歌と語りが一段と真に迫っていきます。
こういう演奏は簡単なようで、決して容易ではありません。まさに類稀なものです。
続く2楽章。これを聴いて、何か言い添えることなど、私には思い浮かびません。
歌と語りの醍醐味は、ここに極まります。
3楽章は一転、歌と踊りですね。リズム感、テンポの運び、もう抜群です!
アウアーのカット版を演奏していますが、この選択も含めて、私には文句なし。
リサ・バティアシュヴィリのチャイコフスキーは、大小無限の美しい弧を描く。
歌と語りの呼吸は、ささやかな休息に刹那、胸を緩めても、そこに留まることなく、
大きな物語を紡ぎ出すべく、終曲の彼方に向かっていく。
ロシアの平原を、どこまでも吹き抜けていく風のように、音楽は小節線を越えていく。 いのちを与えるのは、息だ。
1楽章の再現部の中に、この作品の白眉がある。
ほんの3小節、時間にしてわずか15秒ほど。プネウマがそっと撫でる野の花は、
明日には萎れ、枯れてしまうかもしれない。でも今日、それを美しく装ったのは、
ロシアの大地である。
こんなに愛おしく、慈しみ深く、小さな音符たちを祝福する演奏を私は知らない。
このCDは、そこを聴くだけでも、至福の喜びがある。私はそう確信してます。
みそ
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真の美しさを湛えた、格調高いアンサンブル。
とびきりの演奏家たちによる天衣無縫のモーツァルト。
確かな技術とイマジネーションで、幻想の襞に分け入るブリテン。
N響首席オーボエ奏者 青山聖樹さんの最新CDは、
モーツァルトやブリテンのオーボエ四重奏曲を中核に据えた室内楽アルバム。
しかしその醍醐味を堪能するには、それなりの舌を、耳を要します
濃い味付けばかりで疲れ切った舌では、繊細な香りを取り逃がします。
音楽も同じこと。語りの強度は静けさの深さと双子なのですから。 アンサンブルのパートナーは、ヴァイオリンの玉井菜採、ヴィオラの大野かおる、
チェロの河野文昭。4人は、フルーティストの金昌国氏率いるアンサンブルof
トウキョウのメンバー。青山さんが全幅の信頼を寄せる、勝手知ったる盟友との
共演は、極上のアンサンブルに結実しています。
青山聖樹&アンサンブルofトウキョウ
青山聖樹 (オーボエ&コール・アングレ)
玉井菜採 (ヴァイオリン)
大野かおる (ヴィオラ)
河野文昭 (チェロ)
収録曲:
J.C.バッハ:オーボエ四重奏曲 変ロ長調
M.ハイドン:ディヴェルティメント ハ長調 P.98
モーツァルト:オーボエ四重奏曲 ヘ長調 K.370
ブリテン:幻想曲(オーボエと弦楽トリオのための)作品2
モーツァルト:アダージョ K.580a
あまりにも素晴らしいので、私は毎日のように聴いています。
2016年に発表された新譜CDの、とりわけ室内楽部門における最高レベルの
名盤であると確信しています。格調の高さと趣味の良さを兼ね備えた、
これほどの演奏芸術は、世界中探しても、そうそう見つかるものではありません。
でも正直に申し上げると、1点だけ、ひどく残念に思っていることがあります。
録音のバランスです。オーボエと弦楽三重奏のバランス。
オーボエががっちり前に出ていて、弦三部はすっかり後ろに配置されています。
これは、本当に“モッタイナイ”編集だと言わざるをえません。
室内楽作品集とはいえ青山さんのCDですから、オーボエを中心に音響設計を
するのは、当然のことかもしれません。またこのCDに限らず、オーボエであれ
フルートであれ、管と弦楽アンサンブルの室内楽は、管にとって心地よい音色と、
弦にとって心地よい音色がどうしても異なってしまうため、調整困難になります。
そういうことを考えると、致し方ない面もあるわけですが、これだけくっきりと
オーボエと弦三部の前後配置が際立つと、どうしても気になってしまいます。
音楽がどうしても1対3に分離し、オーボエだけが格別雄弁に聴こえてしまう
嫌いが拭いきれません。最初の2曲はまだ耐えられますが、モーツァルト、
ブリテンになると、さすがに、ちょっぴり残念な気持ちになってしまいます。
青山さんのオーボエは文句なく素晴らしいですし、オーボエ・ファンにはそれで
良しかもしれませんが、室内楽アンサンブルとしてこのCDを愉しむとなるとね。
とはいえ・・・。
そうなると、弦三部はいかにも「控えめ」で、「出しゃばらず」といった印象に
落ち着いてしまうかもしれませんが、演奏を丁寧に聴くと、そんな軽はずみな感想
ではとても語れない、信じられないほど濃密なアンサンブルが、まるで事も無げに繰り広げられていることに、こういう録音バランスからでさえ、伝わってくるのです。
だから、モッタイナイと申しているのです!
4人が一体となって生み出している、実に有機的な音楽的対話を、より存分に
届けてくれる録音設定になっていたら、どんなに素晴らしいCDになっただろう!
玉井・大野・河野の弦三部である限り、オーボエの音をマスクしてしまうような
懸念は、絶対にあり得ないはず。私はアンサンブルofトウキョウのコンサートで
何度となくこの4人のアンサンブルを聴いてきましたが、断言できるもの!
モーツァルトにしても、ブリテンにしても、他の設定を想像できないほど
絶妙のテンポ設定で、受け渡しも合いの手もどれもこれも最高のタイミング。
完璧といってよいほどイメージが共有されたフレージング。管弦を質的な差を
越えて調和が生み出される音色とハーモニー。これらは、この4人だからこそ
可能になった室内楽の醍醐味。それをもっとダイレクトに伝えてくれる録音に
なっていたら、どんなに素晴らしいだろうか。そうと思わずにいられません。
ブリテンについてひと言付け加えるなら、この「オーボエと弦楽三重奏のための
ファンタジー」は、弦三部の音楽的な充実が圧倒的で、私には弦三部が主であり、楽想の変化は常に弦三部が主導しているように思われます。
オーボエは、その上に乗って戯れるように歌い、語り、そして沈黙する―。
だからブリテンで弦三部を後ろに引っ込めてしまっては、アンバランスな印象が
濃くなってしまいます。極めて完成度の高い演奏に仕上がっているだけに、
やっぱりモッタイナイ・・・。 それでも、私はこのCDを多くの皆さまに、強くお薦めしたい。
とりわけ音楽家を目指す若い人たちに。
オーボエの学生さんであれ、ヴァイオリンであれ、ヴィオラ、チェロであれ、
ぜひスコアを手にとり、すべてを掬い取る覚悟で、各パートを耳を傾けてほしい。
この名手カルテットが、互いを聴きながら、それぞれどんなことをしているのか。
彼らがごく当たり前のように、事も無げにやっていることのひとつひとつが、
室内楽の真骨頂につながる一歩一歩なのだと、必ずや確信するはずです。
みそ
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紀尾井シンフォニエッタ東京としては、最後の定期公演。
私は2日目に行ってきました。
紀尾井シンフォニエッタ東京 第105回定期演奏会
2016年6月18日(土) 開演:14時
リーダー(指揮者なし): アントン・バラホフスキー(Vn)
リュドミラ・ミンニバエヴァ(Vn)(ペルト作品)
紀尾井シンフォニエッタ東京(Orch)
ブリッジ:弦楽オーケストラのための組曲
ペルト:タブラ・ラサ
ドヴォルザーク:弦楽セレナーデ ホ長調Op.22 アンコール マスカーニ: 歌劇「カヴァレリア・ルスティカーナ」より間奏曲
「神は細部に宿る」。
そんな言葉が浮かんできた演奏会。
バイエルン放送交響楽団のコンサートマスターであり、
紀尾井シンフォニエッタでもコンサートマスターを務める、
アントン・バラホフスキー。彼をリーダーに指揮なしプログラム。
今回の公演のために、いったいどれほど綿密なリハーサルを行ったのだろう。
指揮なしプログラムの場合、メンバーがいろいろ意見交換しながら築き上げて
いくのでしょうが、その一方で、コンサートマスターの示す方向性が決定的に
重要になるはずです。
KSTの弦セクションのアンサンブル能力の高さは、皆さんよくご存じのはず。
私も当日、期待して足を運びましたが、想像をはるかに超えていました。
全身で演奏をリードするアントンの姿を見ていると、そして舞台から立ち上って
くる音楽を聴いていると、「ああ、アントンらしいなあ」と思うとともに、メンバーの
半端ない団結力に、圧倒されるばかりです。
それにしても、ステージ上のバラホフスキーさんは、とても美しいですね。
音楽への全き献身に溢れています。それが全員へ清らかに波及しています。
さて今回、最初のフランク・ブリッジからアンコールのマスカーニまで、
とにかく、やっていることが実に細かい!信じられないほどに。
でも、音楽の流れはごく自然。人工的な操作を感じさせず、機械的になる
瞬間は微塵もない。絶妙のテンポ感で、音楽はつねに柔らかく息づいます。
ひとつひとつフレージングが磨き抜かれ、美しいハーモニーが作られていく。
音色の統一感も素晴らしい。どれもこれも趣味が良いのだから、言うことなし。
声部のバランスもよく、重たくなることなくテンポ感を決めているバス声部も、
過度に出しゃばることもないけれど充実した内声部も、よく機能しています。
今回セカンドの頭に座ったのは、「タブラ・ラサ」で第2ソロを務めたアントン夫人、
リュドミラ・ミンニバエヴァさん。臨機応変な強調性と凛とした潔さ。
音は夫より良いかも。
それで一曲目。ブリッジは天国で涙を流して喜んでいたに違いない!
既存の録音を色々聴いてみましたが、どれもこれもぱっとしない演奏ばかり。
(ごめんなさい)。作品ができて百余年。東京の室内オケがこんなにも格調高く、
そして克明に各キャラクターを描き切ってくれたことに、感激したでしょう。
ミニマルな音列の中で極小の差異が生滅するペルト「タブラ・ラサ」も、
旋律美の宝庫でありつつ、似たフレーズにも細かい変化を描き込んでいる
ドヴォルザーク「弦楽セレナード」も、演奏のアプローチは一貫しています。
あらゆる声部の、一つ一つの音符休符にいたるまで、細大漏らさず丁寧に
意味づけしていこうとする、その徹底さ。よくこんな気の遠くなるような作業を
したものだと、感心の溜息が出ます。
あえて作業という言葉を使ったけれど、創造性/想像性の発露の裏側に、
とてつもなく地道で地味な作業が続いていることを思うと、ちょっと恐いでしょ?
だって、私がうっとりしていた心地よさは、演奏家たちのヒリヒリ疲弊するような、
まさしく身を削るような、細かい準備に支えられているのだから。(おそらく)
(メンバーの皆さんが、とても楽しくリハーサルしていたと信じたい・・・。)
細部へ、細部へと入っていくことは、ときに危険を伴うことです。
迷宮の中で見通しを失い、大きなヴィジョンが見えなくなることもある。
すべてを拾い上げ、すべてに等しい存在価値を与えようとすると、
何が表で、何が裏なのか、分からなくなる。前後、上下、主従といった対比が
解消され、立体感を失い、音楽はかえって平べったくなり、リアリティを失う。
細部に寄生して、死へ誘うのは悪魔かもしれない・・・。
(でもこういう極限の準備を、アントンはいつもヤンソンスの下でやっているの
だろうなと思ったりもしました。)
祝福あれ。今回宿ったのは神のほうだ。
細部の細部まで、一切を充填したのは、神の《プネウマ》である!!
アントンとメンバー全員の「プロフェッショナリズムの聖性」に脱帽。
それでは、来年春からの新生・紀尾井ホール室内管弦楽団を、
心待ちにしています!
みそ
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ヴィルデ・フラングさん。つい先日も来日し、メンデルスゾーンのコンチェルトで
オケと共演したり、リヒャルト・シュトラウスのソナタを中心としたリサイタルで、
多くの聴衆を熱狂させた(のよね?)。ノルウェー出身のヴァイオリニストです。
私はいずれも聴きに行けず、とても残念でした。
なので、もうだいぶ前にリリースされたんだと思いますが、
彼女の新譜、ブリテンとコルンゴルトの協奏曲集についてちょっと感想。
当CDの1曲目に収録されたコルンゴルトについては、特に言うことありません。
「素晴らしい」。 以上。
唯一、さらなる希望があるとすれば、もうちょっとウィーンを彷彿とさせる
芳醇な音色があってもよいかな、という点。この曲は、確かにアメリカ亡命後の
1945年の作曲で、ハリウッドの映画音楽に携わってすっかり人気者になって
からの作品ですが、やっぱりコルンゴルト作品には、いつの時代の作品でも、
どこかウィーンの香りが漂っていてほしいというのが、私の個人的願望。
ただ、フラングさんの音は、非常に柔軟で美しいですが、しっかりと肉付きもあり、弦の上っ面をスカスカなでるだけの刹那的な音ではない点に、好感を持ちます。
さて、ブリテン。この曲は1939年、カナダ滞在中に仕上がったのですが、
書き始めはイギリスを出発する前からとのこと。25歳の時の作品。
彼の天才ぶりが如実に現れた、初期の傑作といえるでしょう。
この曲は、ベルクのヴァイオリン協奏曲の影響を受けているとよく言われます。
ベルクを心から尊敬し、彼の下で学びたいと熱望していた青年ブリテン。
バルセロナにおけるコンチェルトの初演に立ち合う幸運に恵まれたブリテンは、
ほとんど崇拝に近い賛辞を贈っています。
その3年後に完成した作曲者唯一のヴァイオリン協奏曲は、初演者アントニオ・
ブロサがスペイン人ということもあり、ベルク作品との縁を感じさせます。
内容的にも、1楽章冒頭のソロ・ヴァイオリンの旋律も、オスティナートとして
保持される伴奏音型も、スペイン風。他方、終楽章で用いられるパッサカリアも、
ブリテンが幼い時に聴いて感動したブラームス第4交響曲の終楽章が意識されて
いるようですが、もともとはスペイン起源の音楽様式です。
この曲にはスペイン内戦が暗い影を落としている、というのはブロサの言ですが、
非常に攻撃的な荒れぶる中間楽章も含め、一貫して、悲劇的な世界観が現れた
作品です。ブリテン自身、この曲のただならぬ「重たさ」について言及しています。
前置きが長くなりましたが、で、フラングさんの演奏はどうかというと、
私が最初に聴いたときの印象は、「(特に両端楽章が)軽いな」、というものでした。
でも、何度か聴いていくうちに、そういう印象はだんだん薄れ、内燃する情念の
ダイナミズムを、深刻さとは別の、むしろ心地よい緊張感の中に封じ込めた、
彼女らしい演奏だと思うようになりました。抜き差しならぬ第2大戦前夜の
張り詰めた空気とは別物なのかもしれませんが。
この作品は、とにかく技術的に弾きにくく、ヴァイオリンの指回りの常識に
反するような複雑さに満ちていて、6度、オクターブ、10度といった目まぐるしい
上下動を繰り返す音階的なパッセージや、グリッサンド、ハーモニクスの頻用、
非常にトリッキーなリズムの変化が相次ぐ、とんでもなく演奏困難な作品です。
だから、譜面どおりに音が並び、正確にリズムと音程を取っていくだけでも、
至難の業なのですが、そのうえで、度を越した緊張と静寂を醸し出しつつ
作品の悲劇性を表現しようとなると、生半可な表現力では太刀打ちできません。
ブリテンらしい鮮やかな色づかいも、あたかも日蝕に隠されて黒光りする
〈コロナ〉として描かなくてはいけないし、どんなに疾駆するパッセージも、
魂から絞り出すような終楽章の一音一音も、〈無〉の深淵から〈有〉の生命へ
閾値を突き破って湧きあがるエネルギーを感じさせなくては行けません。
無有、生死、明滅、沈黙と鳴動、絶望と希望、憎悪と慈愛・・・。
引力と斥力の衝突がもたらす、現実界と想像界の交錯。
この曲固有の〈弾きにくさ〉も、重く厳しい拮抗と葛藤の表出ゆえのことでしょう。
そういう迫真性を、このうえなく濃密に表現した演奏は、
やはり作曲者ブリテン自身の指揮による、マーク・ルボツキーの演奏です。
徹底的に音色を描き分け、歌い尽くし、語り尽くそうとする美学。
いつ聴いても、衝撃的なほどに、テクストの向こう側へと引き込まれていきます。
今日、ブリテンのヴァイオリン協奏曲のレコーディングは増えてきたし、
若い演奏家も果敢にチャレンジするようになりました。良いことですよね。
ただし、若きブリテン、しかも速書きでならしたブリテンが、火を吹く霊感と直観で
描き出したこの作品は、預言者的な眼光で時代の破局を映し出した類稀な作品
であって、弾き手も聴き手も、ある種の人生の成熟を要する作品にも思えます。
私は、ルボツキーとブリテンの演奏を聴き始めて、およそ20年。
年を経るごとに、驚嘆と厳粛さを感じるようになりました。
20年後、フラングさんのこの演奏を聴いて、私、どう思うのかしら。楽しみ。
みそ
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土曜日の定期2日目を聴いてきました。
素晴らしかったです。ちょっと感想を。
4月23日(土) 14:00開演 紀尾井ホール トレヴァー・ピノック(指揮) イモジェン・クーパー(ピアノ) 紀尾井シンフォニエッタ東京(オーケストラ)
(コンサート・ミストレス 玉井菜採)
フォーレ:組曲「マスクとベルガマスク」Op.112 ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番ト長調Op.58 ハイドン:交響曲第103番変ホ長調Hob.1-103「太鼓連打」 ***************************
アンコール
シューベルト:劇音楽「キプロスの女王ロザムンデ」より第3幕間奏曲
チェンバロ奏者で、古楽オーケストラ「イングリッシュ・コンサート」を創設し
牽引してきたピノックさん。紀尾井との共演は、2度の定期でモーツァルト・プロ、
昨年のホール開館20周年記念コンサートでバッハ『ロ短調ミサ』、そして4度目の
今回は、フォーレ、ベートーヴェン、ハイドンの名曲たち。
最初は、ピノックさんがフォーレ?と思いましたが、確かに考えてみますと、
イタリア古典劇に由来する劇音楽の組曲ですから、内容や形式からして、
むしろマエストロの得意分野というべきでしょう。実際、序曲が始まるや否や、
この公演が素晴らしいものになるだろうと確信できるものでした。
色彩豊かで、キラキラと輝き、リズムも溌剌としたフォーレ。
音楽はじつにいいテンポ感で、自然に流れていきます。
地中海の春風が柔らかく頬をなでるような心地よさ。一瞬にしてホールの
空気が変わります。しなやかな弦に、艶やかな木管。瑞々しいサウンドと
バランスが絶妙のハーモニー。メヌエットはメヌエットらしく、ガヴォットは
ガヴォットらしく、キャラクターのイメージがしっかり掴まれ、各曲の個性が
自然に立ち現れてきます。これがピノックさんのアプローチ。
小柄なマエストロが指揮台の上で、きびきび躍動し、実に愉しそうでした。
次はベートーヴェン。
イギリスの名ピアニスト、イモジェン・クーパーさんをお迎えして、第4協奏曲。
クーパーさんのソロは、じっくりとしたテンポで、ひとつひとつのフレーズを
慈しみながら、ふんわりとハーモニーで包んでいく、そんな演奏。
壮麗な「皇帝」コンチェルトと比較して、たおやかな旋律が美しい4番は、
女性的なイメージで捉えられることもありますが、とんでもない「イカれた」曲。
1楽章の和声の推移、2楽章のソロとオケのパラレル・ワールド、
3楽章のぶっ飛んだリズム。当時の観客は度肝を抜かれたに違いない。
クーパーさんの演奏は、音楽の枠組みをしっかり捕まえて、響きの輪郭を
明確に打ち出すという点では、やや不足もありましたが、飾らず気取らず、
フレーズの自然な流れを大事にしながら、ひとつひとつ丁寧に歌っていく。
その演奏には、彼女の人間性が溢れていました。
またオケも一丸となって、ソリストをサポート。充実し切っていました。
その美しき象徴が、第1楽章冒頭部。ピアノソロによるト長調の主題提示、
それをオーケストラがロ長調で引き取って入ってくる、この曲の〈いのち〉。
そこを、第1ヴァイオリンは、何とアップ・ボウで入ってきました!
この上なくしなやかで、優しく、共感に満ちた応答。ソリストが醸し出した、
母の抱擁のごとき柔らかい空気感を、見事なまでにそのまま引き取って、
肌理とぬくもりを先へつなげていく。清らかで静謐な弦の美しかったこと!
アップで始めるなんて! ナイス・アイディア。わたし、初めて見ました。
玉井コンマスの弓づけかな。こんな繊細な心配りで、ソリストに満腔の
共感を寄せるオーケストラに拍手。
後半はハイドン「太鼓連打」。
ピノックさんはここでも、しっかりとキャラクターのイメージをつかみながら、
音楽の流れはどこまでも自然であること、それを信条とするアプローチです。
キリッと小粋に引き締まったリズム感と絶妙なテンポ感。
しっかりとバスから組みあげたハーモニーの美しさ。
すべてを自然に感じさせるために、入念に練成されたフレージング。
粒立ちのよい一音一音の発音はとてもクリア。それが流れるように連なっていく。
これぞ、ピノックさんの音楽づくり、その真骨頂でしょう。
ちょっとしたユーモアの遊びはあっても、山っ気のある仰々しい抑揚や誇張は、
一切なし。それでいて、どの楽章もどの楽想も、味わい十分。お見事。
それにしても、巧いアンサンブルです。
柔軟性とキレ、明晰さ、躍動感、バランスのとれたハーモニー。
そして繊細なピアニシモから強奏時の鳴りの良さまで、感心しきりです。
力まずに豊かなサウンドを作り出せるのですから、最高に心地よい昂揚感に
酔いしれてしまいました。(ごめんなさい、ちょっと金管は例外・・・。)
マエストロ良し、ソリスト良し、オケ良し、プログラム良し。
音楽への溢れる愛と献身がホールに満ち満ちた午後。
アンコールで再び劇音楽に戻り、役者ぞろいの名舞台はお開きとなりました。
みそ
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