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積み木について最近思うことが多かったので、乱雑なメモ。
以下、全くまとまっていない。
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積み木には説明書は無い。
それはどう遊んでも自由なはずだ。
しかし、大人になればなるほど、画一的な考え方に縛られやすくなる。
積み木は積み上げるものだ、と。
子供が積み木遊びをしている姿を観察すればすぐに分かるが、
積み上がった積み木を壊す子供や、積み木を投げる子供を発見するだろう。
彼らは、間違ったことをしているのだろうか?
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AIの権威であるミンスキーの著でも、
例えとして最初に積み木が出てくる。
一人の子供の中にも無数のエイジェンシー(要求みたいなもの)を定義し、
「組み立てる要求」「壊す要求、」「投げる要求」などが、
一人の子供の中で互いに争い、その時点で有力な物が採用される様を見事に示してくれる。
ちなみに、「組み立てる」も「壊す」も「投げる」も、
もう一段階上の階層から見えれば「積み木で遊ぶ」という要求であり、
さらに一段階登れば「遊ぶ」という要求となる。
これは、例えば母親から、「もう遊ぶのは止めなさい」と言われたり、
「おなかが空いた」などの生理的な要求が勝れば、すぐさまカテゴリーごと優先順位が下げられる。
こうやって、一人の人間でも、無数の要求が常に争いながら生きているわけだ。
少し話がそれたが、積み木という対象に対して、本来人間は異なるいくつかの要求を持っている。
壊すのも、十分遊びなのだ。
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ぶっこわれる玩具。
横井軍平氏の本を読んでびっくりしたのが、
組み立てられたブロックの車が、地雷の上を通ると爆発したように飛び散る、という玩具。
発想の元は、ブロックは壊すのも面白いのにそういう発想の玩具が他にない、から。
破壊すること、が人間の要求として当たり前に存在することを的確に捕らえていたわけだ。
(ちなみに横井軍平とは、任天堂がゲームメーカーに変貌した歴史を作った人物。最初のただ一人の開発部員)
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想像と破壊。
積み木はつまり、組み立てる楽しみと、壊す楽しみ、両面性を持った玩具、といえる。
しかも、自分の自由に組み立てられるので、流行りの言葉で言えばユーザークリエイテッドコンテンツである。
そう考えると、たいした物だと言える。
想像と破壊の両面性で言えば、自分はRTSが凄く好きなのだが、
あれこそ、自分の町を育て(想像)、他人の町を壊す(破壊)、という両面性を持ったゲームだと分かる。
そしてあのゲーム(エイジオブエンパイアシリーズ)は、自分にとって恐ろしいほどの中毒性を持っていた。
想像と破壊という人間の持つ両極端な、かつ深い階層の要求がバランス良く合わさると、
人間を夢中にさせるような気がする。
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純粋な破壊願望。
例えば「誰でも良いから人を殺したかった」などという凶悪犯が出現すると、
そんな考え自体が全くあり得ないかのような議論になるが、
より正確に言えば、誰でもそのような破壊願望を、ものすごい弱くとも持っているが、
他のエージェンシーに圧倒的に制御され現代の社会では普通は表に立つことはない、と捕らえるべきなのでは?と思う。
人間の脳の発達の歴史を考えると、
恐竜時代からの衝動に近い純粋な本能に対して、
徐々に、それらを理性で制御する為の仕組みを、外側に追加している。
いわゆる大脳新皮質などによって、我々は、外側から、恐竜の衝動を制御している。
だから「おなかが空いたから」と言って、店先の物を取らないし、
とっさに「殺してしまいたい」と思っても、ぐっと我慢するわけだ。
ティラノサウルスだったら、一瞬の躊躇も無いだろう。
しかし、このような要求は人類の歴史でも必要だから存在するわけだ。
(もちろん適切な状況で発揮される必要があるが)
本来人間は、戦って獲物を捕って生きてきたわけで。
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育てる願望。
対して「積み上げたい」という願望は、「育てたい」という願望に近いのではと思う。
だとしたら、これも相当に根が深い要求である。
子犬を見てかわいいと感じる気持ちとか、何か強烈な物を感じる。
これはたぶん女性の方が強いのだろうけど。
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ひとまずの結論。
積み木は「育てる願望」と「破壊願望」という人間のジェラシックな要求を見事に合致させた、
恐ろしいほどの、玩具である。
しかもそこには「創造する」というほぼ人間だけが持つ高度な側面も含んでいる。
せっかく積み上げた「積み木の城」を、奇声を張り上げてぶっ壊す。
こういう要求を捕らえたゲーム、玩具はまだまだ少ない気がする。
GTAとか、車で人をひき殺したりできるゲームが、
全世界で1100万本も売れているが、その理由の1つもここら辺にあるのではないかと。
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