日々の浪漫

企画屋による発想用メモ。ゲーム、映画、本、フットサル、サッカー、その他個人の日記等々。とにかく量で勝負…

どーでも良い思いつき

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Eureka!!!

ギリシャ語で「見つけた!」という意味らしい。
お風呂に入っていて、「浮力」を発見したアルキメデスが、
「エウレーカ!」と叫びながら、全裸で走り出したそうな。

素敵だ。素敵すぎる。
エウレーカ!

英語では「ユリーカ」と発音。
そう、某雑誌ですね。

積み木について最近思うことが多かったので、乱雑なメモ。
以下、全くまとまっていない。



積み木には説明書は無い。
それはどう遊んでも自由なはずだ。
しかし、大人になればなるほど、画一的な考え方に縛られやすくなる。
積み木は積み上げるものだ、と。

子供が積み木遊びをしている姿を観察すればすぐに分かるが、
積み上がった積み木を壊す子供や、積み木を投げる子供を発見するだろう。
彼らは、間違ったことをしているのだろうか?



AIの権威であるミンスキーの著でも、
例えとして最初に積み木が出てくる。

一人の子供の中にも無数のエイジェンシー(要求みたいなもの)を定義し、
「組み立てる要求」「壊す要求、」「投げる要求」などが、
一人の子供の中で互いに争い、その時点で有力な物が採用される様を見事に示してくれる。

ちなみに、「組み立てる」も「壊す」も「投げる」も、
もう一段階上の階層から見えれば「積み木で遊ぶ」という要求であり、
さらに一段階登れば「遊ぶ」という要求となる。

これは、例えば母親から、「もう遊ぶのは止めなさい」と言われたり、
「おなかが空いた」などの生理的な要求が勝れば、すぐさまカテゴリーごと優先順位が下げられる。
こうやって、一人の人間でも、無数の要求が常に争いながら生きているわけだ。

少し話がそれたが、積み木という対象に対して、本来人間は異なるいくつかの要求を持っている。
壊すのも、十分遊びなのだ。



ぶっこわれる玩具。
横井軍平氏の本を読んでびっくりしたのが、
組み立てられたブロックの車が、地雷の上を通ると爆発したように飛び散る、という玩具。
発想の元は、ブロックは壊すのも面白いのにそういう発想の玩具が他にない、から。
破壊すること、が人間の要求として当たり前に存在することを的確に捕らえていたわけだ。
(ちなみに横井軍平とは、任天堂がゲームメーカーに変貌した歴史を作った人物。最初のただ一人の開発部員)



想像と破壊。
積み木はつまり、組み立てる楽しみと、壊す楽しみ、両面性を持った玩具、といえる。
しかも、自分の自由に組み立てられるので、流行りの言葉で言えばユーザークリエイテッドコンテンツである。
そう考えると、たいした物だと言える。

想像と破壊の両面性で言えば、自分はRTSが凄く好きなのだが、
あれこそ、自分の町を育て(想像)、他人の町を壊す(破壊)、という両面性を持ったゲームだと分かる。

そしてあのゲーム(エイジオブエンパイアシリーズ)は、自分にとって恐ろしいほどの中毒性を持っていた。
想像と破壊という人間の持つ両極端な、かつ深い階層の要求がバランス良く合わさると、
人間を夢中にさせるような気がする。



純粋な破壊願望。
例えば「誰でも良いから人を殺したかった」などという凶悪犯が出現すると、
そんな考え自体が全くあり得ないかのような議論になるが、
より正確に言えば、誰でもそのような破壊願望を、ものすごい弱くとも持っているが、
他のエージェンシーに圧倒的に制御され現代の社会では普通は表に立つことはない、と捕らえるべきなのでは?と思う。

人間の脳の発達の歴史を考えると、
恐竜時代からの衝動に近い純粋な本能に対して、
徐々に、それらを理性で制御する為の仕組みを、外側に追加している。
いわゆる大脳新皮質などによって、我々は、外側から、恐竜の衝動を制御している。

だから「おなかが空いたから」と言って、店先の物を取らないし、
とっさに「殺してしまいたい」と思っても、ぐっと我慢するわけだ。
ティラノサウルスだったら、一瞬の躊躇も無いだろう。

しかし、このような要求は人類の歴史でも必要だから存在するわけだ。
(もちろん適切な状況で発揮される必要があるが)
本来人間は、戦って獲物を捕って生きてきたわけで。



育てる願望。
対して「積み上げたい」という願望は、「育てたい」という願望に近いのではと思う。
だとしたら、これも相当に根が深い要求である。
子犬を見てかわいいと感じる気持ちとか、何か強烈な物を感じる。
これはたぶん女性の方が強いのだろうけど。



ひとまずの結論。
積み木は「育てる願望」と「破壊願望」という人間のジェラシックな要求を見事に合致させた、
恐ろしいほどの、玩具である。
しかもそこには「創造する」というほぼ人間だけが持つ高度な側面も含んでいる。

せっかく積み上げた「積み木の城」を、奇声を張り上げてぶっ壊す。
こういう要求を捕らえたゲーム、玩具はまだまだ少ない気がする。

GTAとか、車で人をひき殺したりできるゲームが、
全世界で1100万本も売れているが、その理由の1つもここら辺にあるのではないかと。

徒歩暴走族?

「徒歩暴走族とはそもそも、積雪のためバイクや車に乗ることができない冬場でも、暴走族が勢力を誇示するためにやり出した手法」
「ただ、そのうち、バイクや車に乗らず、もっぱら歩くだけのグループも出始めた」

以上、asahi.comより
http://mytown.asahi.com/hokkaido/news.php?k_id=01000390607270002


徒歩で暴走って聞くと、容赦なく過剰な勢いで走り続ける団体かと思ったが、
そうでは無いらしい。
「歩くだけ」って聞くと何か健康的だが、
周囲にガンなどを飛ばしながら練り歩く、って感じなのだろう

「不良である」ということの存在アピールの手法は、
一体誰が創造し、どのように伝播していくのだろう・・・

毒を持った生物が、大抵けばけばしい色や模様になるのは、
周囲に対して「毒持ってるから近づかないでくれ」というアピールらしいが…

暴走族でも何でも、皆一様に同じようなファッションに身を包むのは、
その時、その地域で通用する「毒持ってます」アピールを従順に採用している結果なのだろう

どうでも良い話だが…
徒歩ってのがなぁ…

バイクという機動力と騒音による示威力が無い以上、
ただ「群れている」ってことだけで相手を萎縮させるしか無いわけだが、
例えば柔道部員の団体とかとすれ違ったら、徒歩暴走族はちゃんと己を誇示できるのだろうか?

とても心配です
どうでもいいけど

はじまりの詩

「ホモエレクトスとか
ネアンデルタールに至るまでの人たちは
言葉でコミュニケーションをしています。

しかしこの言葉が
現実の世界の構造と、うまい具合に
対応関係が取れていないとすると
人間はこの過酷な環境の中を
生き抜いて行くのは
とても難しかっただろうと考えられます。

今わたしたちが使っている言葉は
現実の外側にある世界と大体対応しています。
言語の構造というのは
そういうふうにできているんですね。
だから、
この構造の持っている論理性というのは
私たちだけのものではないだろうと。

ネアンデルタールの言語というのも
形は違うだろうけれども
それに近い合理的な形を持っていたし、
その前も持っていたに
違いないだろうと考えられます。

ところがわたしたちの言語は、
現実とは対応しないものを
言葉の中で作り出すことが
可能になっているわけです。

そこに
創造というものが発生しています。
それから
象徴的なものの考え方が
可能になっています。
ポイントは
ここじゃないだろうかと思ったわけです。

つまり、何か脳の構造に
飛躍的なジャンプが起こって
そして今のわたしたちの人類、
ホモサピエンス・サピエンス、
新人と呼ばれている
人間のものの考え方の基本が
できあがるわけです。

このものの心の構造を
つくりあげた大飛躍は
どういう形態で行われたか、
ということを考えてみると……
合理的な言語形態からしたら、
ある意味、非合理的で、
矛盾に満ちて、
そして現代人が行っている
言語活動の中では
詩の活動に最も近いものなのです。
詩的な言語活動というのが
可能になるような脳の構造が
飛躍的に生まれたことによって
はじめて人間は象徴的な思考方法が
できるようになり、
宗教を持ち、
芸術を持つようになりました。」

(「ほぼ日」はじめての中沢新一より)
http://www.1101.com/nakazawa/2006-01-23.html


ホモサピエンス・サピエンスの脳に、
急遽浮かんだ、詩的な言語活動

モノリスは「詩」、だったのかも知れない

その詩が何を詠ったものだったのか?
死、愛、自然、神、美、その他・・
なんらか原初的な感動だったのだろう

もはや知ることは不可能なのだが、
はじまりの詩、が何について詠ったものか、
すごく知りたい

ピタゴラスの矛盾

数によって世界を説明できると考えたピタゴラス派

曖昧なもの、矛盾したもの、どろどろとした物、
一切を否定し、拒絶し、数の論理だけで作りあげられた思考法の、
現代における一つの結実がコンピューターなのだとしたら、

その論理と数字の塊のようなコンピューターを触媒として、
非論理とカオスの塊のような、アダルトサイトや、
犯罪じみたサイトや、いかがわしい掲示板などが隆盛している現実とは、
興味深い物だな、と思う。

論理と非論理、説明と説明不可能、分類とカオス、命名と命名以前
きちんとしたものとどろどろしたもの

この戦いというか、共存というか、
これらは太古から変わっていないらしい

歴史を良く読んでいくと、同じ対立が姿形を変えて、そこかしこで姿を現すようで、
つまり、根本は何一つ変わっていないのだな、と思ったりもする


ちなみに、ピタゴラスは空豆を食べなかったらしい。
空豆は古代において、あの世とこの世をつなぐ役割を持つ食べ物、
あるいは卑猥な意味において、男性性と女性性の中間をつなぐもの、とされていたらしい。
(詳しくは、中沢新一著の「カイエ・ソバージュ1」に書かれている)

要は「あいまいな物」だったのだ。

しかし、それを頑なに拒否するという行動自体で、
それだけその考えを信じていた、とも言える。

占いを信じない、と言いながら、朝のTV番組で占いが流れるとチェンネルを買える人に似ている。
どこかで信じているから変えるのだ。
全く信じていなければ、どんなひどい占いが出たって気にするはずもない。

空豆を頑なに拒否したピタゴラスの矛盾

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