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ものみの塔協会の冊子にも、学ぶべき点は多い。
信者として取り込まれ、組織への絶対的な服従に一歩距離を置いていられるなら、
問題は何もないとも言える。
無料で配布されている、ものみの塔誌や、目ざめよ誌は読んでみても悪くはない。
私の学びに置いて、害を受けたことはないと思う。
むしろ「聖書ってナニ?」
私の長年の好奇心に対して、手引きし、導いてくれた証人達には深い感謝がある。
クリスマスや誕生日を祝わないと言う事など、
ズボラな私は説かれなくても祝う習慣を持たなかったし。
ケーキを食べた事もなければ、ローソクを立てたこともない。
選挙権は放棄すべきだと言われても、普通に選挙にも行ったし。
輸血の必要に迫られ、信仰心を試される事もなかったし。
話題として話した事はあっても、他人に教えを勧めたこともない。
地区の伝統行事にも参加し続けたし、お墓参りも、お葬式もごく普通に参加した。
一つだけ取り入れた事があるとすれば、神社・仏閣に手を合わせなくなったことだろう。
その理由は、自分なりに、ものみの塔協会の出版物に頼らない検証を試みた結果である。
つまり、私には証人達の言うところの霊的進歩がなかったのである。
残されたものは、聖書世界の知識であり、一人になって読み込んでみても其処に述べられている聖句が何を指し示しているのかを理解出来るようになっただけである。
“知識があなたの心に入り、知識があなたの魂に快いものとなる時、思考力があなたを守り、識別力があなたを保護するであろう。それは、悪い道から、歪んだ事柄を話すものから” 箴言2:10・11
地上で唯一神と結ばれている組織を通してでなければ救いは得られない。
などとも思わない。
聖書、不思議な書物である。
何千年も前に述べられた旧約聖書の預言。その預言の実現として地上に現れたイエス・キリストとは「救い主・イエス」と云う意味である。
新約聖書には、「それはこれこれが成就されるためであった」と云う箇所が随所に見られる。
辿ってみれば、全てが旧約聖書で述べられている言葉の成就に繋がっている。
磔刑に処せられたイエスが最期に叫んだ言葉。
「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」「私の神、私の神、なぜ私をおみ捨てになりましたか」
知らずしてここを読むと、裏切られたような気がする。
「なんだ、イエスも神を呼ばわるただの普通の人間ではないか」
しかしイエスのこの言葉も、旧約聖書に記された言葉の一つの成就であった。
「私の神、私の神、なぜあなたは私をお捨てになったのですか。なぜ私を救う事から、わたしが大声で呼ぶ言葉から、遠くはなれておられるのですか」
詩篇 22:1
何百年、何千年の時を超えて、記された言葉が成就する。
不思議の謎に惹きつけられる。
とは言え、聖書にも沢山の矛盾が存在する。
与えたものが神と呼ばれる存在からであっても、書き記したのは不完全な人間の業である。
間違いはないと絶対視し、妄信に走ることでもない。
「それは、偶像に供えられたものと、血と、絞め殺したものと、不品行とを避けると言う事である。これらのものから遠ざかっておれば、それでよろしい」使徒行伝 15:29
ここに記されている避けるべき血を、輸血にまで拡大解釈するのは勝手である。
しかし、巨大な組織がそれを教理として信者に押し付け、違反するものは背教者とし、妄信する信者の仲間たちが病院にまで押しかけ、輸血を拒否するよう圧力をかけ、結果として死が齎されたなどと云うことに、良心の痛みを感じないとしたら、神の僕である前に、人として自然体であろうか。
これらが書き記された初期クリスチャン達の時代に、輸血などと云う医療はなかったことだけが真実である。
学びの途上にある方々が、私の経験から何を感じられるか、それもまた自由である。
学ばずして知らない世界を語ることは愚かだし、
知ってそれが全てと思うこともまた愚かなことだろう。
世の中のあらゆる情報の取り入れにおいて、
私達は裸の王様に過ぎない。
私の経験は組織外側からの経験に過ぎない。
ネットの中の情報には、組織内部の問題点や協会独自の聖書解釈の誤りが数多く指摘されている。
「世からの情報はサタンからのもの」
自分はマインドコントロールなどされていないと思う人は、独裁者が良く用いる情報の遮断、この手法のマインドコントロールを解くことこそが、目ざめの第一歩になるに違いない。
信者達はみな善良な人々であり、悪いのは組織。
本当だろうか?
悪い組織に気付かず、それを強固に支えているのは信者達である。
善意なら全てが許される訳でもないだろう。
悪意なき善意の方がむしろ始末が悪い。
それでも・・・・人間界を気づかってくださる神様が居られる。
そう信じられることは心が慰められる。 「アーメン」
「終」
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