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ブログを引っ越しました!
これからもブログを通じて「雑多な趣味を整理整頓」していきますので、引き続きご覧ください。
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兵庫県姫路市の書寫山にある天台宗「圓教寺」は、康保3年(966)に性空(しょうくう)上人によって開かれました。「西の比叡山」とも称される僧侶の修業道場として栄えた寺院で、境内には多くの重要文化財が現存しています。JR姫路駅から書寫山の麓にあるロープウエー駅までは、バスで30分弱の距離です。
ロープウエーの山上駅から伽藍の入口に位置する摩尼殿までは、さらに参道を1Km程歩きます。マイクロバスも運行していますが、参道には西国三十三観音像が祀られており、足に自信があれば歩いた方が御利益が増しそうです。
参道の途中にある仁王門は、江戸時代初期の建立です。この仁王門が円教寺境内の入口になります。
石垣と白壁のコントラストが美しい十妙院は江戸時代の建立で、内部には狩野永納の筆による襖絵があるそうです。
いよいよ摩尼堂が見えてきました。天禄元年(970)の創建で、岩山の中腹に建つ舞台造りの建物です。
御本尊の六賢如意輪観音菩薩は毎年1月18日の鬼追いの日にご開帳されるそうです。
京都の清水寺と同じ舞台造りの建物には、くぎが一本も使われていません。
大講堂、食堂、常行堂の三つの堂がコの字建ち並ぶ「三つの堂(みつのどう)」は円教寺独特の伽藍配置で、その眺めは圧巻です。向かって右側に建つ大講堂は円教寺の本堂に当たり、学問と修行の場です。室町時代中期の建立と言われています。
伽藍配置の中央正面に建つのは修行僧の寝食のための建物である食堂(じきどう)です。二階建て、長さ40mの大きな建物で、長堂の別名があるそうです。
向かって左側の常行堂はひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る常行三昧を行う建物です。中央に突出した舞台は、正面に位置する大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのものです。
実際に三つの堂に囲まれたコの字エリアの中央に建つと、その空間は時代を飛び越えた一種独特の雰囲気を作り出しています。
この「三つの堂」のエリアは、少し前になりますが2003年に公開された「ラストサムライ」、最近では2017年公開の「関ケ原」や「本能寺ホテル」のロケ地にもなりました。中でも織田信長が家来衆と蹴鞠を楽しむ「本能寺ホテル」のシーンは印象的でした。
奥の院の中核をなす開山堂は、円教寺開山の性空上人を祀る堂です。現在の開山堂は江戸時代初期の開山堂建築の代表作と言われています。
垂木や斗栱の構造がよく分かります。それにしても複雑な構造です。
軒下四隅にあるユニークな像は、左甚五郎の作と伝えれれる力士の彫刻です。北西隅の力士像はその重さに耐えかねて逃げ出したそうです。気付きませんでしたが、面白いですね。
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岡山と言えば桃太郎を思い浮かべると思いますが、その桃太郎伝説のベースとなっているのが、大吉備津彦命の温羅(うら)退治伝説です。記紀によると、桃太郎のモデルとなった大吉備津彦命は大和朝廷が各地に派遣した四道将軍の一人で、吉備の国一帯で蛮行を重ねていた温羅一族を平定します。この大吉備津彦命を祀るのが岡山市からJR桃太線(旧吉備線)に揺られること約15分の吉備の中山の麓にある「吉備津神社」です。
JR桃太線「吉備津駅」から参道を5分程歩くと、吉備津神社の「北随神門」へと続く階段に到着します。
北随神門は室町時代中期の再建で、重要文化財に指定されています。廻廊の途中にある南随神門は、延文2年(1357)の再建で境内で一番古い建造物となります。
北随神門を上から見たところです。
北隋神門の階段を上り詰めると、正面が本殿に続く拝殿となります。
本殿の様式は、入母屋造の千鳥破風を二つ並べた「比翼入母屋造」と呼ばれ、吉備津神社唯一の建築様式であることから、「吉備津造」と呼ばれています。
豪華さと優美さを兼ね備えた「吉備津造」の本殿は、拝殿を含めて国宝に指定されています。
境内を貫く廻廊は、その長さ400mに及びます。アップダウンのある廻廊は、見るのも歩くのも圧巻です。
境内にちょこんと佇む白猫ちゃん。悠然としたその態度は、神さ間のお使いでしょうか。
さて、吉備津神社の参拝を終え、次に目指すのは同じ吉備の中山の麓にある「吉備津彦神社」です。この二つの神社の主祭神はともに「大吉備津彦命」で、両神社の距離は2㎞程度しか離れていません。どうやら雨の心配はなさそうなので、黄金色の稲穂を眺めながら吉備津彦神社を目指して吉備の中山の麓を歩くことにします。
僅か2㎞、されど2km。朝からの歩数が15000歩を越え、段々と速度が遅くなってきました。と、何気なく山側の傾斜に置かれた大石に目を向けると、「弔」と「梟首台」の忌まわしい文字が刻まれているではありませんか!こ、これって斬首した首をさらした石?調べてみましたが詳しいことは分かりません。
30分程歩いてようやく「吉備津彦神社」に到着しました。この吉備津彦神社は、吉備津神社が「備中国一宮」であるのに対して、「備前国一宮」になります。もともと、岡山県一帯と広島県の一部は備前、備中、備後の三備に分かられており、三備の国の一宮が吉備津神社でした。その後、吉備津神社が備中国一宮と備前国一宮(吉備津彦神社)とに分かれたようで、「備後国一宮」は広島県福山市にある吉備津神社だそうです。
大鳥居の左右に鎮座する立派な狛犬は、なんと備前焼です。神池の中央を通って参道は隋神門へと続きます。
火災で焼失した拝殿は、昭和11年に再建されています。
現在の本殿(奥の建物)は寛文8年(1668)に着工し、元禄10年(1697)に完成しました。三間社流造りと呼ばれる社殿建築様式だそうで、県の重要指定文化財に指定されています。本殿手前の建物は、拝殿、祭文殿と本殿を結ぶ渡殿となります。
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今回は出張後の休日を利用して岡山県高梁市の「備中松山城」を中心に、岡山、姫路のお城と神社・仏閣を歩いてきました。幸い台風の影響もほとんど無く、駆け足ですが充実の散策となりました。
まずは、岡山城です。本格的城郭を持つ現在の姿の岡山城は、天正元年(1573)に宇喜多秀家によって築城されました。その堅固な天守は、若くして57万石の大大名となった宇喜多秀家が天下にその威光を示すのに相応しい姿です。築城は養父である豊臣秀吉の指示により進められ、工事期間は朝鮮州出兵を挟んで8年間に及んだそうです。残念ながら天守は昭和20年の空襲で焼失しましたが、昭和41年に鉄筋コンクリート造りながら外見は昔のままに再建されています。
表書院へ続く「廊下門」、表書院から本殿へと続く「不明(あかず)門」の二門も、古い絵図面を参考に再建されています。
最初に岡山に入った宇喜多直家は、早々に岡山城の改修着手しました。表書院跡地には、宇喜多直家時代の石垣が保存されています。
秀家の築いたた天守は、石垣からの高さが20.45mあり、二階建ての建物を三つ重ねた三層6階の構造となっています。戦国時代の名残である外壁に塗られた黒漆が、カラスの濡れ羽色に似ていることから、「烏城(うじょう)」の別名があります。
天守からは、日本三名園の一つ「岡山後楽園」を一望することができます。豊かな水を湛えて流れる「旭川」が堀の役目を果たしています。
天守を下から見上げると天守台石垣の上部が変色しているように見えますが、これは天守が空襲で炎上した際の高熱によるものだそうです。
後楽園へと続く橋から望む天守の姿は、まさに烏城の名にふさわしいものです。
後楽園は、元禄13年(1700)に完成した大名庭園で、江戸時代の姿を大きく変えことなく現在に至っています。芝を大量に使った庭園は明るく広々としており、歩くだけで開放的な気持ちになります。昭和27年に文化財保護法による「特別名勝」に指定されています。
翌日は備中高梁の「備中松山城」を訪ねました。備中松山城は、「臥牛山(がぎゅうざん)」を構成する4つの峰のうち標高430mの小松山の山頂に築かれた近世の山城で、天守現存12城の中で随一の標高を誇ります。登城するには、途中まで車で行くことができますが、自力で700mの山路を登る必要があります。
9時に開場する天守の1番乗りを目指して、朝の山路をひたすら歩きます。雨も上がり清々しい一時です。
20分程歩いてそろそろ息が上がりそうになった頃、ようやく石垣が見えてきました。
大手門跡の岩盤の上に築かた見事な高石垣は、まさに難攻不落の構えです。土塀は復元だそうです。
いよいよ城攻めも大詰め。この先二の丸、本丸、そして天守へと続きます。眼下に広がるのは高梁の街です。
二の丸から見た本丸です。手前左側が「六の平櫓」、右側が「五の平櫓」(ともに復元)で、その間の門が「南御門」になります。奥に見える天守は二層2階の構造で、重要文化財に指定されています。
正面から見た天守は、大きな唐破風と出窓が特徴的です。向かって左側(西側)に付櫓があるため、外からは三層にも見えます。付櫓の中は石垣が剥き出しになっており、天守への入口となっています。
天守は現存する12城の中で一番小さく、その高さは約11mです。2階には9柱の神を祀った「御社壇(ごしゃだん)」と呼ばれる部屋があります。
籠城が主目的の山城とあって、石垣と岩盤、土塀で守られた城郭は堅固で鉄壁の守りとなっています。
天然の巨石の上に建つ二重櫓も天守と同じ二層2階の構造となっています。南北に出入り口があり、南口が天守裏に通じています。
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曹洞宗総本山である「永平寺」は、寛元2年(1244)に道元禅師によって開かれた座禅修行の道場で、深山に広がる壮大な七堂伽藍では、今も多くの修行僧が厳しい修行生活を続けています。大晦日の「ゆく年くる年」で毎年のように雪に埋もれた永平寺の様子が映し出されますが、この季節は鬱蒼と繁った緑が静かに境内を包んでいます。
山の斜面を切り開いた約33万㎡に及ぶ広大な寺域には、七堂伽藍をはじめとして約70もの諸堂が建てられており、それらは長い廻廊で結ばれています。
永平寺では、通用門から建物の中に入り、七堂伽藍を中心に回廊を歩いて参拝します。
入口から続く廻廊は山門に続きますが、山門の手前で廻廊を左に折れて暫く斜面を上ります。見えてきた「仏殿」は七堂伽藍の中心に位置し、御本尊である「釈迦牟尼仏」が祀られています。
現在の仏殿は明治35年(1902)の改築で、内部正面には「祈祷」の額が掲げられています。
仏殿から見た「中雀門」です。傾斜があるので屋根が重なってしまいましたが、奥に見える大きな屋根が山門になります。
仏殿の脇に建つ「僧堂」は修行の根本となるお堂で、中央に知恵の象徴である文殊菩薩が安置されています。この文殊菩薩を取り囲むように約90人分の「単」と呼ばれる座禅を組むための席が設けられており、修行僧はここで食事をとり就寝することもあるそうです。
ここから「法堂」に続く長い上り廻廊が続きます。堂内はもちろん、回廊の隅々まで綺麗に磨かれています。
「法堂」は七堂伽藍で一番奥に位置し、中央に聖観世音菩薩がお祀りされています。その名の通り、法を説くための道場であり、正面にはそれを表す「法王法」の額が掲げられています。また、朝のお務めである「朝課」などの様々な法要がここで執り行われるそうです。
法堂の前に座って見事な景色をを眺めていると、雨が上がり霧が晴れ、墨絵のような世界が現れました。とても静かです。
法堂の横に伸びる廻廊は、「常陽殿」に続きます。道元禅師をお祀りするご真廟である「常陽殿」は、曹洞宗の聖地ともいうべき場所だそうです。
再び、長い廻廊を下って一番下の山門まで降りてきました。この山門は七堂伽藍の中で最も古く寛延2年(1749)の建立で、両側には仏教の守護神である四天王が安置されています。山門の楼上には五百羅漢が祀られており、修行僧が毎日お経をあげているそうです。
今度は、山門から見上げた中雀門です。奥に見えるのが仏殿の屋根になります。
山門前に建つ鐘楼です。ゆく年くる年で登場する永平寺の除夜の鐘を撞く風景は、寂光苑という場所ににある一般参拝者に開放された「寂照の鐘」のようです。
永平寺はまさに現役の修業道場で、参拝中も多くの修行僧にお会いしました。皆さん若くて驚きましたが、修行僧の生活は座禅、朝課、行鉢、作務などからなり、日常生活そのものが修行となっています。
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