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私にとって、淀橋浄水場は塀と有刺鉄線で囲まれ、中の様子は、ほんの少し覗き見るだけの存在でした。
右上が新宿駅西口
右下のガスタンクのあたりは現在の新宿パークタワー
以下は「淀橋浄水場史」からの抜粋です。
江戸上水から改良水道へ
江戸から東京と改まった維新後の明治4年頃より、東京は急に活気を呈した。新政府は欧米文化を導入して、我が国の近代化に大いに努めたが、首府となった東京の復興はめざましく、銀座煉瓦街の建設、鉄道の布設、人力車やガス灯、電気灯の出現など、日進月歩の変貌ぶりだった。しかし、一方では江戸以来の街の生活も残っていたわけで、飲み水も江戸上水によっていた。
この江戸上水のおこりは、天正18年(1590年)徳川家康が江戸に入って、井ノ頭池からの流水をひいたことにはじまるという。これが後の「神田上水」である。
江戸上水は、いうまでもなく自然の流水をひいて木管などで配水していたものだったが、そのありさまは「一日の雨にて忽ち濁り、両三日も降り続けば、丸で泥水の如くになり・・・」
ということで、欧米の近代水道と比べては多くの欠陥があり、改良水道の布設が急がれることになった。
明治31年(1898年)の暮れ、淀橋浄水工場から鉄管によって、はじめて「文明開化の水」が市内に通水し、「開けゆく御代の恵みに人皆の、浴すとぞ聞く鉄管の水」ともうたわれるにいたった。今は消えた淀橋浄水場も、当時は東京の新名所として登場したばかりであった。
明治31年12月に改良水道が日本橋、神田の両地区に通水したが、当時は沈でん水の供給であって、ろ過水を供給したのは翌年2月、淀橋浄水工場の第2号ろ池のろ過床が完成してからであった。
改良水道工事は明治32年中には一応市内へ給水開始し、この年3月12日には貴衆両院議員、新聞記者など400名を集め、招待会を催した。明治32年12月17日淀橋浄水工場で落成式が挙行された。
ちなみに淀橋浄水工場が淀橋浄水場と呼ばれるようになったのは明治34年(1901年)12月からであった。
関東大震災
淀橋浄水場が給水を開始してから約25年経た大正12年(1923年)9月1日正午頃、突如として関東地方に起こった大地震は、相模灘、東京湾沿岸とその付近一帯の地域に甚大な被害を与え、東京市においても破壊焼失家屋数約30万戸、死者約7万人にも達した。水道施設もまた広範囲にわたって未曾有の大損害をこうむり、断水による一大混乱が出現したが、鋭意給水状況の回復につとめ、大体において平常に復したのは同年12月であった。
終戦
昭和20年(1945年)5月25日夜半から翌26日の未明にかけては、東京都に対し、来襲機数約250機、投下焼夷弾及び爆弾数約148、700発という最大規模の空襲が行われた。
この空襲のために、3月9〜10日、4月13〜14日の二度の空襲で焼け残っていた都の市街地は殆ど焼失してしまったのである。
淀橋浄水場の事務所その他の施設が焼失したのもこの空襲のときである。
昭和20年8月15日、ようやく戦争は終結した。幸いにも導水路、浄水場、排水管の被害は致命的なものではなく、そのつどすみやかな復旧対策によって配水上の支障はほとんどみられなかったが、給水せんの被害はすこぶる甚大で、戦前の約69%が焼失などの被害を受けた。このため随所に漏水をひきおこし、この量は一時は配水量の82%にものぼると推定された。
新宿副都心計画
都心部には、各種の都市機能が集中しているため、都市施設の不足や交通の混乱をまねき、種々の弊害を生んでいる。この抜本的解決策は都心部の昼間人口を抑制する以外に方法はない。
そこで、新宿、渋谷、池袋などの副都心を整備して、都市部に集中している都市機能を分散し、都心部の弊害を緩和しようというのが、副都心計画である。
ここには、34万㎡の淀橋浄水場があったが、周囲の状況および土地の高度利用の面からみてもふさわしくないので、こ
れを 東村 山浄水場に移転併設し、その跡地と周辺を含む96万㎡の区域に、総合的、能率的な業務街、官庁街などの市街地を計画し、併せて立体的な土地利用をはかるため、新宿副都心計画がたてられた。
淀橋浄水場正門
最終の日
昭和40年(1965年)3月30日、この日淀橋浄水場には、扇田局長をはじめ、関係各部課長、浄水場職員等170名が参集し、ともに長い歴史を閉じる瞬間に立会った。
最後に残った高地線ポンプ所内中野線ポンプ操作盤コックに、真新しい紅白のリボンのついたハンドルを、局長が感慨を込めて閉止した。
ここに、淀橋浄水場は70年の歴史を閉じた。
以下 2014/4/10 追加
新宿中央公園に富士見台・六角堂の説明が新設されました。
六角堂の下に生えている花は、コチョウカ(胡蝶花)
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