十二社 今昔物語

新宿区にあった十二社(じゅうにそう)にまつわる思い出を語るサイトです

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淀橋第六小学校

淀橋第六小学校(現:西新宿小学校)
新入生当時は、二階建ての木造校舎でしたが、四年生ぐらいの時に鉄筋三階建に建替えられました。建替工事中は、残りの教室を使って二部授業が行われたのを記憶しています。その時の鉄筋校舎は現在も使われているみたいです。
 
現在の西新宿小は、淀三と淀六が統合されて淀六の場所にあり、生徒数は約200人です。私達のころは、1学級50人で4クラスでしたので、1学年で200人、学校全体では1000人を超えたマンモス小学校だったわけです。
 
給食の思い出。
クジラの竜田揚げ、揚げパンが人気がありました。
脱脂粉乳のミルクは最悪。
米飯ではなくコッペパンでした。
 
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昭和36年(1961年)ごろ
 
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 昭和29年(1954年)ごろの木造校舎。煙突は、だるまストーブのもの。
 
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ガスタンク

ガスタンク(東京ガス)
十二社のとなり角筈三丁目にガスタンクがあったのは、平成2年(1990年)までだそうで、現在は新宿パークタワーが建っています。円筒形のタンクでガスの貯蔵量によって高くなったり、低くなったりしていました。子供にとってガスタンクは不思議というか不気味な巨大建造物でした。
ガスタンクが造られる以前は、「梅屋敷銀世界」という江戸時代からの梅の名所として知られたところだったそうです。白梅がたくさんあった様を「銀世界」と表現したようです。ガスタンクを造るときに、梅の木は芝公園に移されました。
 
十二社通りから西参道を通って明治神宮に行きます。このとき左側にサビた鉄板のタンクが見えました。明治神宮は特別な場所で、七五三のお祝い、お祭りのほか、ちょっとしたハイキング気分で出かけました。
甲州街道の交差点を過ぎたところが京王電車の踏切です。このころの京王線は地上を走っていました。
踏切を越えてすぐ右側には武家屋敷の様なお屋敷がありました。山内邸です。
この山内邸は、土佐藩主山内容堂の関係であると聞いたことがありますが定かではありません。
明治神宮のお祭りの時には、西参道の両側に露店が並び、「フウテンの寅さん」の様な人がバナナの叩き売りをしていたり、地球ゴマ(宇宙ゴマ)の実演に見入ったりと、熊野神社と明治神宮のお祭りは大好きでした。
 
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十二社の街

住宅地域
十二社は、方南通りと十二社通りの成子坂方面(旧:淀橋・現:西新宿5丁目)に商店が多く、十二社は住宅地域でした。一軒家が多く、アパートは少なかったように思います。そして東京大空襲によって焼け野原になったのかもしれませんが、土台だけが残っている空き地がたくさんありました。
駒ヶ嶺医院から新宿養護学校(現在は)までの坂道の両側は空き地が多く、ひな壇になっていて、坂道はコンクリートの壁に面していましたが、今は、建物が道と同じ高さに建っています。
 
駒ヶ嶺医院
小学生時代のかかりつけの医師が駒ヶ嶺さんで、淀六小の校医でもありました。
熱を出すと塚田さんの前の坂道を登ってよく往診に来てくださいました。
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塚田邸
当時、国会議員(元郵政大臣)から新潟県知事の塚田十一郎氏のお屋敷でした。
ご本人には会っていませんが、黒塗りの乗用車はたまに見かけました。
 
伊藤邸
丸正自動車の社長、伊藤正氏のお屋敷でした。同社は浜松に工場がある会社で、
「ライラック」というオートバイを製造・販売していました。
広い敷地内に家が三軒建っていて、当時としてはめずらしく自家用車がありました。とにかくお金持ちの家という感じでした。印象的だったのは、塀でした。塀の下の方はコンクリートなのですが、その上に土を盛って表面に芝生を貼り付け、一番上は低い竹垣でした。
また、テレビの出始めの頃でしたが、テレビもあって力道山のプロレスを見せていただきました。よその家でテレビを見せてもらうのは、ご迷惑ではと考えたのか、我が家にテレビが来たのはそれから時間はかかりませんでした。
 
行商のおばさん
十二社の街には、千葉や茨城からの行商のおばさん達が大きな荷物を背負って来てました。野菜、殻の付いた落花生、魚の干物など新宿のお得意さんのところに売りに行くおばさんがいました。ザリガニを初めて見て触ったのは、行商のおばさんが川で採ってきてくれたものでした。
 
祝祭日
祝祭日には、玄関に日の丸の国旗を掲げる家が多かったものです。その頃は旗日(はたび)と言うのが一般的でした。
 
ダッコちゃん
「ダッコちゃん」が流行ったのは昭和35年(1960年)でした。
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方南通り沿い

十二社映画館
正式には「十二社文化劇場」だったかもしれません。
方南通り側の非常扉の隙間から覗きました。良く見えないから扉を大きく開けてしまうとスクリーンに光が差し込んでしまうので、中の客から閉められたものです。冷房がない時代だから夏には扉を少し開けていたのですが、夏の暑い日に映画を見ていたなんて今では信じられないことです。
当時のスターは、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、東千代介、中村錦之助でしょうか。
 
テレビの普及とともに映画館は少なくなっていき、昭和36年にはもう無くなっていたかもしれません。
昭和33年(1958年)の東京の下町を舞台とした、「ALWAYS 三丁目の夕日」を見ていると、この頃を懐かしく感じます。
 
少年時代のテレビドラマ(テレビ映画)といえば、「月光仮面」「怪傑ハリマオ」でした。
 
 
そば屋・斉藤庵
日本そばのお店ですが、なぜかラーメンの出前をよくとりました。
そのころは「支那そば」でした。
現在この場所は、コンビニになっています。
 
 
菓子屋
お店の名前は三関さんでした。(現在は事務所などが入っているビルになっています)明治や森永などのメーカーがちゃんとした?お菓子を売っていたのは、この店ぐらいだったと思います。当時は駄菓子屋がいくつもあって子供としては駄菓子屋の方が楽しみでした。駄菓子屋で買っていいものが風船ガムやキャラメルでした。でもガラス管に入った色のついた寒天菓子が好きでした。生ものの菓子やアイスキャンデーは今と違って衛生上問題があると親は考えていたと思いますが、子供でもそのあたりは心得ていたつもりです。
 
昭和34年(1959年)まで「紅梅キャラメル」がありました。
キャラメルには、巨人軍の選手のカードが入っていて、1チーム分の選手と水原監督のカードを集めると、野球用品一式やカメラがもらえるというものでした。たぶん私より年上の人のなかには、野球カードにはまっていた人もいたのではないでしょうか。
私は、紅梅キャラメルを食べた記憶がありませんが、赤いパッケージのミルクキャラメルは覚えています。
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このお菓子屋の右手に三角形の土地がありました。(現在も三角形です)
平屋でお店ではなかったようですが、子供心に不思議な家だなぁと思ったものです。
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