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淀橋幼稚園は2014年3月末に閉園しました。
小学校の統合移転により元淀橋第三小学校は芸能花伝舎となっています。
落語芸術協会ほか芸能団体の事務所が入居しているほか、稽古、会議用のスペースも用意されており一般にも貸し出されています。
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日記
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常円寺は天正10年(1585年)日立聖人が開基した日蓮宗の寺です。
時勢とともに常円寺をとりまく環境も変化し、震災後と大戦後の2回の青梅街道の道路拡張があり常円寺の参道はけずりとられ、昔あった参道は全て道路に呑みこまれてしまいました。本堂は戦災のため焼失し、今は鉄筋コンクリートの建築となっています。
なかには徳川十一代将軍家斉に顔を似せてつくったといわれている徳川家康紋入りの日蓮像が納められていました。これは江戸城の鬼門を守護するために家斉が感応寺建立を企画した際、同寺へ納められる予定だった品です。感応寺は日蓮宗の熱心な信者であった家斉側室お美代の方の発願により現在の学習院大学付近に建立を予定されたものですが、天保改革の奢侈禁止令によりほぼ完成真近かにあった感応寺建立は中止となり、日蓮像のみ今に伝えられることとなったものです。
天保年間(1573〜91年)常円寺を建てるのに功のあった源左衛門は店の前に鳴子を鳴らす綱を下げておき、客は店の者を呼ぶときにその綱を引いて鳴子を鳴らしました。
成子という地名はこの鳴子からきているという説があります。
なお、鳴子とは、田畑を荒らす鳥を脅かすのに使う道具で、「 新宿区 町名誌」では「なるこ」の語源もその意味から考えた方が適当としています。
江戸時代には「江戸三木」として数えあげられた高さ10mもの枝垂れ桜があったことで有名です。現在ある桜は昭和45年(1970年)に植えられたものです。
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成子天神社の建替えが終わったようです。
参道は工事中でまだ鳥居はありません。
昔のうっそうとした木々は取り払われスッキリしてしまいました。
(2014/4)
(2014/4)
(2014/4)
富士塚は綺麗になって、よみがえりました。
(2014/4)
(2014/4)
写真右上の枝は、御神木の銀杏の木です。
(2014/4)
以下は建て替え中の成子天神(2012/4)
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成子坂は、鳴子峠と呼ばれてそれはそれは寂しいところであった。
そのころ、中野あたりの奥に住む一人の貧しい百姓があった。
一人息子を、江戸に奉公に出していた。息子が盆のやぶ入りで帰ってくるのに、慰めてやるものが何もないことに気付いた。
百姓は、ふと悪心を起し、旅人から物をかすめてやろうと、夕暮れにまぎれてこの坂にきた。そこへ一人の旅人が通りかかったので、その旅人を殺し、財布を奪って大急ぎで帰宅した。
早速、しらべてみると、意外にもその財布は、待ちわびていた息子に持たせてやったものであった。
父親は、息子を殺したことに大いに驚き悲しみ、ついに自殺をしてしまった。
里人はこのことをきいて親子の死をあわれみ、その供養のために地蔵様をつくってまつった。
成子天神社入口からみて、西斜め向かい側に成子地蔵がある。子育地蔵ともいわれている。
戦災を受けたので、昭和26年11月に新たにつくられたが、もとは等身大の石像で、台石には「享保十二丁末年発願主円心 天保九戊戌年再建願主文仙」とあった。
「新宿と伝説」(新宿区教育委員会)
成子子育地蔵尊は、享保12年(1727年)に成子坂に北面して建立、その後天保年間に再建、以来二百数十年霊験あらたかに其の名も高く近郷近在崇敬の対象となっていましたが、昭和20年不幸にも戦災の為壊滅の悲運にあわれました。
しかし、昭和26年(1951年)11月14日有志の協賛を得て現在の慈悲深く温和な尊容のお像と木造のお堂が再建されました。
昭和46年頃よりこの一帯は超高層ビル街に生まれ変わり、平成14年当地区も西新宿六丁目再開発地域として一新し、それを機にお堂も不燃化造りに建替えられて安置され、入魂法要が執り行われました。
(成子子育地蔵尊概要)
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新宿歴史博物館で開催中の「新宿区立小学校ー受け継がれた学び舎の宝ー」を見に行ってきました。
お目当ての淀六小に関係する資料はほとんど無く残念でしたが、戸三小の教室のイラストや給食の献立などを見ると懐かしく思いました。
新宿歴史博物館のホームページとパンフレット
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