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屏風の一番右下の端に庚申塚が描かれています。
現在はお店が無くなっていますが、「みのり商店会」の仲乃いなり寿司、海老原パンのすぐ向い側でした。寛文四年(1662年)の銘があったそうですが、今は磨滅しているようです。
庚申塚は、海老原さんが掃除などの管理をしていたそうですが、今でもきれいになっていました。
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日記
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新宿ワシントンホテル近辺は江戸時代には上野国館林藩秋元家の下屋敷があり、「寒香園」という梅園があり、その西側に「銀世界」と呼ばれる梅屋敷があって、将軍御目留の梅、御腰掛の松などもあったといわれています。
「銀世界梅屋敷」は、明治44年(1911年)に東京ガス(株)の所有となり、その時、多くの梅樹が芝公園に移されました。現在は新宿パークタワーの一画に「銀世界稲荷神社」のみが当時の名残を留めています。
銀世界稲荷神社は、この新宿パークタワーの右手、十二社通り側にあります。
絵本江戸土産(広重)より
この石碑も芝公園に移されています。
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「柏木・角筈一目屏風」を画家に作らせたのは、四代目の南雲善佐衛門さんです。南雲家は少なくとも江戸時代後期から成子坂に住み、油屋を営んでいました。画家は高橋琴三さんで、欅橋(けやきばし)近辺に住んでいました。
この絵が描かれたのは大正末年から昭和初頭にかけてとされています。
この地域の風景は、すでに屏風絵に描かれた景観とは大きく変貌していました。
この屏風絵は、同時代的な事実を全く描いておりません。銀世界にガスタンクが設置されたのは、明治43年(1910年)、淀橋浄水場が作られたのは明治32年(1899年)ですが、この屏風絵にはそれが描かれていません。この屏風絵は、意識的に、同時代的なランドマークを無視し、むしろ、地域のより古い風景・景観を描こうと努めています。
つまり、この屏風絵が描かれたのは確かに大正末年ですが、この絵に描かれたのは、少なくとも明治20年代以前の柏木・角筈一帯の地域景観であった可能性がたかいのです。
屏風の左側は、青梅街道の淀橋・成子坂間の町並が描かれ、中央は十二社通り、右側には熊野神社・十二社池・銀世界と甲州街道までが描かれています。
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「淀橋浄水場史」に収められている思い出の中から、十二社にまつわる部分を抽出しました。
成子坂裏通りには茶畑もあり、十二社付近にあった桜山、池のほとりには滝が流れ落ちており、神田川にはハヤ、鯉、うなぎが棲んで居り、よく釣り人が魚を釣って居りました。その付近には田圃や水車小屋等もあり実にのどかな所でした。
針谷作三(大正13.4.9〜昭和39.3.3淀橋浄水場勤務)
新宿駅甲州街道口は、いわば裏口で、線路の東側一帯は貨物取扱所で、当時はトラックはなく2輪又は4輪の荷馬車が右往左往し、でこぼこの砂利道には馬グソが落ちていた。
ガスタンクも、すでに1基あった。
明治神宮が代々木原の一隅に出来、ガスタンク横の裏参道を通って、秋の大祭には、毎年子供らで参けいに行った。その途中、甲州街道を渡った所には「一豊の妻」で有名な山内公爵邸があった(現在、高速道路のピヤーが立っている付近)。
浄水場の西側には、南から北に向かって十二社・六桜社・水車・大迫陸軍大将邸・映画の撮影所・赤の山と続いていた。
十二社は一帯が森林で、今日の井の頭公園の観があった。水源に当る小池にはメダカ・オタマジャクシが見え、続く大池にはヒゴイ・マゴイがいた。周囲には芸者屋・待合があり、池上に離れ屋も出ていた。丘には春日局が建立したという熊野神社が今も残っている。
六桜社(後の小西六工場)があった。六桜社の北側には、十二社の南端に通じる道があった。この途中で、崖下に大水車があってウスをついていたが、さらしあん工場と聞いていた。
隣接した竹ヤブの奥に撮影所、道の角には大迫邸があった。
赤の山はササヤブで、夜など薄気味の悪い所であったが、目下、ここを地名発祥地の淀橋の橋際から新宿西口へ抜ける道路の工事中である。
成子坂通(青梅街道)は、通りの位置は変わらぬが、家並みは戦災で一変している。谷口清治(昭和27.10.1〜昭和28.4.1淀橋浄水場勤務・場長)
(浄水場の)第4の池を右にまわると、道ひとつへだてて東側に東京生命保険KKの野球・テニス・バレーボールの運動場がある。仕事をしないわけでもないだろうが年中やっている。
野球場では春秋の数日間は女子野球の試合がある。チームは紅梅キャラメル・わかもと・京浜ジャイアンツなどで準硬球でなかなか元気なものだ。見物人は少ない。どうも有料のようだ。沈でん池のよこの土手にあがるとよくみえる。こちらは無料見物、まあ外野席といったところだろう。
楠正之(昭和34.4.1〜昭和35.4.1淀橋浄水場勤務・場長)
淀橋浄水場についてはこちら。
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私にとって、淀橋浄水場は塀と有刺鉄線で囲まれ、中の様子は、ほんの少し覗き見るだけの存在でした。
右上が新宿駅西口
右下のガスタンクのあたりは現在の新宿パークタワー
以下は「淀橋浄水場史」からの抜粋です。
江戸上水から改良水道へ
江戸から東京と改まった維新後の明治4年頃より、東京は急に活気を呈した。新政府は欧米文化を導入して、我が国の近代化に大いに努めたが、首府となった東京の復興はめざましく、銀座煉瓦街の建設、鉄道の布設、人力車やガス灯、電気灯の出現など、日進月歩の変貌ぶりだった。しかし、一方では江戸以来の街の生活も残っていたわけで、飲み水も江戸上水によっていた。
この江戸上水のおこりは、天正18年(1590年)徳川家康が江戸に入って、井ノ頭池からの流水をひいたことにはじまるという。これが後の「神田上水」である。
江戸上水は、いうまでもなく自然の流水をひいて木管などで配水していたものだったが、そのありさまは「一日の雨にて忽ち濁り、両三日も降り続けば、丸で泥水の如くになり・・・」
ということで、欧米の近代水道と比べては多くの欠陥があり、改良水道の布設が急がれることになった。
明治31年(1898年)の暮れ、淀橋浄水工場から鉄管によって、はじめて「文明開化の水」が市内に通水し、「開けゆく御代の恵みに人皆の、浴すとぞ聞く鉄管の水」ともうたわれるにいたった。今は消えた淀橋浄水場も、当時は東京の新名所として登場したばかりであった。
明治31年12月に改良水道が日本橋、神田の両地区に通水したが、当時は沈でん水の供給であって、ろ過水を供給したのは翌年2月、淀橋浄水工場の第2号ろ池のろ過床が完成してからであった。
改良水道工事は明治32年中には一応市内へ給水開始し、この年3月12日には貴衆両院議員、新聞記者など400名を集め、招待会を催した。明治32年12月17日淀橋浄水工場で落成式が挙行された。
ちなみに淀橋浄水工場が淀橋浄水場と呼ばれるようになったのは明治34年(1901年)12月からであった。
関東大震災
淀橋浄水場が給水を開始してから約25年経た大正12年(1923年)9月1日正午頃、突如として関東地方に起こった大地震は、相模灘、東京湾沿岸とその付近一帯の地域に甚大な被害を与え、東京市においても破壊焼失家屋数約30万戸、死者約7万人にも達した。水道施設もまた広範囲にわたって未曾有の大損害をこうむり、断水による一大混乱が出現したが、鋭意給水状況の回復につとめ、大体において平常に復したのは同年12月であった。
終戦
昭和20年(1945年)5月25日夜半から翌26日の未明にかけては、東京都に対し、来襲機数約250機、投下焼夷弾及び爆弾数約148、700発という最大規模の空襲が行われた。
この空襲のために、3月9〜10日、4月13〜14日の二度の空襲で焼け残っていた都の市街地は殆ど焼失してしまったのである。
淀橋浄水場の事務所その他の施設が焼失したのもこの空襲のときである。
昭和20年8月15日、ようやく戦争は終結した。幸いにも導水路、浄水場、排水管の被害は致命的なものではなく、そのつどすみやかな復旧対策によって配水上の支障はほとんどみられなかったが、給水せんの被害はすこぶる甚大で、戦前の約69%が焼失などの被害を受けた。このため随所に漏水をひきおこし、この量は一時は配水量の82%にものぼると推定された。
新宿副都心計画
都心部には、各種の都市機能が集中しているため、都市施設の不足や交通の混乱をまねき、種々の弊害を生んでいる。この抜本的解決策は都心部の昼間人口を抑制する以外に方法はない。
そこで、新宿、渋谷、池袋などの副都心を整備して、都市部に集中している都市機能を分散し、都心部の弊害を緩和しようというのが、副都心計画である。
ここには、34万㎡の淀橋浄水場があったが、周囲の状況および土地の高度利用の面からみてもふさわしくないので、こ
れを 東村 山浄水場に移転併設し、その跡地と周辺を含む96万㎡の区域に、総合的、能率的な業務街、官庁街などの市街地を計画し、併せて立体的な土地利用をはかるため、新宿副都心計画がたてられた。
淀橋浄水場正門
最終の日
昭和40年(1965年)3月30日、この日淀橋浄水場には、扇田局長をはじめ、関係各部課長、浄水場職員等170名が参集し、ともに長い歴史を閉じる瞬間に立会った。
最後に残った高地線ポンプ所内中野線ポンプ操作盤コックに、真新しい紅白のリボンのついたハンドルを、局長が感慨を込めて閉止した。
ここに、淀橋浄水場は70年の歴史を閉じた。
以下 2014/4/10 追加
新宿中央公園に富士見台・六角堂の説明が新設されました。
六角堂の下に生えている花は、コチョウカ(胡蝶花)
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