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「並列化」という概念は最近の流行だと思います。
僕のしばしば言うGlobalizationにしてもそうです。
「並列化」した世界ではすべてが普遍的でなければなりません。
例えば、経済。
マクドナルドは、日本でも中国でもインドにもあります。
また世界中どこに行こうが、同じ味のスターバックスのカラメルマキアートを飲めます。
これが並列化です。
世界規模のフランチャイズでは「マニュアル化」とも言いますが。
ですが、このような世界規模の並列化にはそれなりの準備が必要です。
もちろん多国籍企業、俗に言うMNC(Multi National Corperation)を受け入れる側にもです。
その準備とはなんでしょう?
そう、マクドナルドのハンバーガーにしろ、スタバのコーヒーにしろ、
MNCを受け入れる側の国民がその味が好きにならねばなりません。
そうしなければ、MNCはその国で利益を上げれませんから当然ですね。
Globalization=世界規模での並列化はそれが例え経済分野のことであっても
人々の持つ文化、習慣、味覚にすら並列化を求めるのです。
ただ、同時にそれは「個性」(この場合、日本人という個性)というものを
捨てなくてはならないことを意味します。
国民という概念(僕たちが日本人であるということ)を捨てなくてはならない日がいつか来るのです。
いや、むしろ自ら望んで、無意識のうちに捨て去ろうとしているのかもしれません。
いま、僕らは日本語を話し、主に米を食べて生活しています。
しかし「並列化」にそのような非効率的な「個性」は必要ありません。
世界規模で話されている英語を話し、米でなくパンを食べればいいのです。
「個性」がなければ、世界の何事はスムーズに進んでいきます。
違いから生まれる「争い」もすこしは少なくなるしょう。
Globalizationにはそういった可能性があるかもしれません。
ただ、僕は全面的にそれを支持してはいません。
「全世界共産主義」
むかし、そんな並列化の理想がありましたよね。
今はその名称が「Globalization」に、担ぎ手が「アメリカ合衆国」に代わっただけかもしれません。
閉鎖的だったソ連と違い、アメリカは世界規模での情報の並列化に取り組んだとしても、
並列化の道具が「革命」と「軍事力」から「Globalization」と「経済力」に変化を遂げたとしても、
「並列化」自体がいつの世も大国の世界支配の口実なのかもしれません。
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