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東京ディズニーランドなどを運営するオリエンタルランドは1日(水)、08年度の東京ディズニーランドおよび東京ディズニーシーの2パーク合計の入園者数が、過去最高の2722万1千人を記録したことを発表した。前年同期比で107.1%、179万人増となる。 08年度は、東京ディズニーリゾート全域で『東京ディズニーリゾート25thアニバーサリー』と銘打って様々なプログラムが催された。また、東京ディズニーランドホテルおよびシルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京など新たな施設も開業され、東京ディズニーリゾートの魅力が総合的に高まりをみせた年となった。オリエンタルランドは「台風などの悪天候の影響が少なかったなどの外部要因も重なり、過去最高の入園者数となった」と説明している。 なお、1983年の東京ディズニーランド開園以来の2パーク合計の累計来場者数は、4億6366万人。 ちなみに、08年度の外国人が最も注目した日本の観光スポットランキングで築地市場に続いて2位に東京ディズニーランドがランクインしている。東京ディズニーシーは5位。ユニバーサルスタジオは10位でした。 東京ディズニーリゾートを経営する「株式会社オリエンタルランド」が設立されたのは、1960年。東京ディズニーランドがオープンした1983年から20年以上前。京成電鉄という会社が千葉県浦安沖を埋め立てて、商業地・住宅地の開発と大規模レジャー施設を計画していました。 京成電鉄の川崎千春はアメリカで大人気のテーマパーク「ディズニーランド」を日本に誘致しようと、アメリカのディズニー社に交渉に行きました。 ディズニー社の答えは「NO!」。ディズニー社からは門前払い同様の扱いを受けました。 それも無理はありません。国内のある会社がカリフォルニアのディズニーランドに行き、 パチパチ写真を撮って帰国し、ディズニーランドをまねた遊園地を無断で作ってしまったからです。 アイディア盗用とその低レベルぶりにディズニー社は「なんとしても著作権を守らなくては」 と言う心境になっていたのです。この段階では「同じ真似はしない」 と説得しても決して信用してもらえませんでした。この段階では諦めるしかありませんでした。 しかし、ディズニー社の姿勢が変化を見せ始めたのは、 それから10年後の1970年代の事でした。ディズニー社はそれまで世界中から誘致のオファーがあったものの、フロリダのディズニーワールド建設に力を集中させていました。 そのプロジェクトが成功して、ほっと一息ついたこところにオリエンタルランドの話が持ち込まれました。 しかし、日本国内にはライバルがいました。建設候補地は浦安市舞浜の他、清水市がありました。しかし、東京都心に近い立地の良さからディズニー社はかなり早い段階から舞浜に決めていました。 しかし誘致合戦でオリエンタルランドからより良い条件を引き出すため最後まで清水と舞浜の二カ所を候補地として残していました。 最終的にディズニー社は日本の象徴である富士山が常に見える場所では人工物が引き立たなくなってしまうというと言う表向きの理由を付けて清水を除外します。 実は他に建設する候補地が存在していたのです。 それは千葉県の柏市・我孫子市・沼南町に挟まれた手賀沼を埋め立て、そこに建設しようとするものでした。 もちろん設計図まで制作されましたが、東京により近い浦安に建設地が決定し、この計画も闇の中に消えていきました。 もちろんこの計画は公表されることもなかったので知っている人はごく一部の人だけです。 その後、京成電鉄は本業の不振などからディズニーランド誘致をオリエンタルランドに全て任せる事となる。ディズニーランド誘致交渉に支援的であった京成電鉄と違い、もう一方の親会社である三井不動産は住宅等の土地開発を第一に考え、ディズニーランド誘致には反対の立場をとっていたため、ディズニーランド誘致を何度か妨害することもあったようです。 東京ディズニーランドの工事が始まったのは1980年12月です。当時1000億円を予定していた予算は、なんと1800億円を超えました。 しかし社長の高橋正知は言いました。 「いくら金がかかってもいいから、本物を作ってくれ。創る以上はアメリカに勝てるものでなければいけない」 予算を削って貧弱なものを創ってもゲストが夢の世界へ入れるのか?そこを社長の高橋はよく心得ていました。 1982年4月にはアトラクションの備え付け工事も始まり、9月にはシンデレラ城も完成しました。 1983年3月竣工式が行われました。そして、4月15日には、2万6000人のゲストを迎え、グランドオープンセレモニーを開催することができました。 しかし、ディズニー社から聞こえてくる声は決して明るくも、温かくもありませんでした。「どうせ失敗するよ」「いつ閉めるんだい?」と言った冷やかしもあったそうです。 だが、やがて迎えた夏休み。入場者数は平均で5万7000人に達した。アトラクションには長い列ができ、親子連れや若いカップルの笑い声が響いた。タイミングが良かったのであろう。1980年代に入り、景気は上向きになって国民の関心は休暇をいかに楽しむかと言うことに傾き始めました。レジャーに掛ける予算も増えてきました。ディズニー社との交渉が長引いたことも、タイミング的にはプラスになった気がしますね。 また、オープンを春休みの終わったオフシーズンに設定したことも重要な戦略です。テーマパーク事業はオンシーズンを基準に考えたら失敗です。不慣れな事が多く何かトラブルがあった時に対応しきれないからです。徐々に慣れさせ、準備が整ったところでピークを迎えるように持っていくのが大切だと言えます。 初年度の入園者数はプレビューを含め、1036万人と、目標を達しました。 なんとしても驚きなのが、一人当たりのお土産購入代金が予想の4割アップとなていました。日本人がお土産を買うという習慣は、お土産を買う習慣が無いディズニー社もアメリカのには理解できないようですが、その結果、売上高は800億円に達しました。 東京ディズニーランドがどれほど人々に人気があるのか表わしているデータはリピート率である。一度東京ディズニーランドに来たゲスト(お客さん)の中の90%以上は再び訪れる。両親と来た子供は「また連れていてね」とせがむし、中学に入れば友達とやってくる。やがて恋人とデートに訪れ、結婚して、子供が生まれれば、今度はその子供を連れてくる。東京ディズニーリゾートは何度来ても飽きさせないための努力もしている。 ゲストは一度初めてディズニーランドに来て、二度目に再訪すると目を丸くする。以前来たときとまったく違うアトラクションが増えているからだ。売られているグッズも毎年新しくなり、買い物の楽しみも増える。また、オープン当初よりも植物も大きくなり、東京ディズニーランドを囲むような林が形成されている。 オープン当時のアトラクションは32、レストラン29、ショップ39であった。だが今では、アトラクション46、レストラン53、ショップが60である。単に増やしたのではなく、絶えざるリニューアルをしている。 それによって誕生したのは、 1985年エレクトリカルパレード 1987年ビッグサンダーマウンテン 1989年スターツアーズ 1992年スプラッシュマウンテンなどである。 東京ディズニーランドが恐れていたのは「2年目のジンクス」である。どの遊園地も初年度はめずらしさや、話題性で大勢の客を集めるが、2年目になると客は減る。一度見ればもうオッケー。二度と来る必要はない。と思われてしまう。
それを防ぐために東京ディズニーランドは積極的に新施設を増やしてきたのである。 |

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