元・天津駐在員が送るエッセイ

中国と日本、それをつなぐ言語について、一緒に考えましょう。

全体表示

[ リスト ]

前回と言っても、2ヶ月までになるが、民俗学者の宮本氏をご紹介した。
今回は、宮本氏の著作「日本文化の形成」という本をご紹介しながら、我々の誤解について書いてみたいと思う。

まず、この本についてであるが、日本全国を戦前、戦中、戦後と歩き回られ、いろいろなデータを集められた宮本氏がその集大成として講演された内容となっている。残念ながら宮本氏自身での完成にはいたらず、他界されたようであるが、講演の内容や残された資料を基に関係者により出版された本である。 

この本を読み始めると、最初は大変大きな違和感をおぼえる。民族学者である宮本氏が、古代日本の歴史ついてかかれているからであり、さらにその内容がこれまで私たち日本人が学んできた日本の歴史と大きく異なるからである。
「魏志」「倭人伝」の中にある倭人が南方から来たものではないかという推定は、それよりもさらに古い記録にすでに見えている。戦国末から前漢の頃に書かれたと言われる「山海経」に「蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す」と見えている。蓋は?美とも書く。この頃には朝鮮半島の北部にあった。燕は、中国北部に位置して立国しており、いまの東北三省もその中に含まれるかと思う。?美が燕の南、倭の北にあるということになると、倭は朝鮮半島の南部にあった事になる。ところで西紀1世紀の頃王充(27-90)の書いた「論衡」の「儒増編」に「周の時は天下太平、越裳白雉を献じ、倭人は鬯草を貢す」とあり、さらに同書の「恢国編」に「武王紂を打ち、庸・蜀の夷、佐けて牧野に戦う。成王のとき、越常(裳)雉を献じ、倭人暢(鬯)を貢す」ともある。周が建国したのは紀元前1050年頃であり、その頃のことを1100年もすぎたのちに書いたのだから、記録として正しいのか否かは別として、倭人というのは中国人には南方にすんでいる種族として早くから印象されていた。鬯草というのは、ウコンのことで、いまの日本からは産出しない。琉球・台湾以南でないと見かけない。黄色の染料として用い、また薬用にもする。今日ではカレー粉にいれて用いている。倭からそれを出したというのである。そして「魏志」では、倭人は海に潜ることが上手で入墨をしているという。

ところで、日本へ稲作が渡来するのと、越が呉を滅ぼして江南の地に国家を形成したときはほぼ時期が同じようであり、越の勢力範囲は華南の海岸一帯から、浙江省、福建省、広東省、広西省からベトナムにわたっており、竜を崇拝し、入墨をおこない、米と魚を常食とする海洋民族の国であるというから、漢民族とは系統を異にするものであろう。この民族に属する一派が倭人ではなかったかと考える。そして舟または筏を利用して、朝鮮半島の南部から北九州へかけても植民地を作ったのではないかと考える。そして倭と邪馬台国とは一応区別して見ていくべきものと思う。そのことは「旧唐書」「日本書紀」につぎのように期されているのがひとつの手がかりになる。

日本国は倭国の別種である。その国が日(太陽)[の昇るところ]の近くに位置しているので、日本を[国の]名としたのである。或いは、倭国[の人々]はむずからその[国の]名が雅しくないのを嫌って、日本と改称したともいう。或いは、日本は旧は小国であったが、倭国の地をを併[合]した。

すなわちこえによると、倭国と邪馬台国とは別のものであったと言うことになる。そして倭というのは、倭人によって日本列島の西部につくられた植民地ではなかったかと考える。その倭人たちは、東南アジアの海岸から北上してきた海洋民族ではなかったかと「論衡」や「後漢書」「魏志」を通して考えるのである。
現在の歴史教育が学校で、どのように行われているのかは知らないが、少なくとも私が教わった歴史では、「倭=日本」であった。その歴史を宮本氏は、根底から覆すような提案をされている。本来であれば、なにを馬鹿な事をと否定されそうなものであるが、宮本氏の話には、大変説得力がある。ここで引用させていただいた箇所以外にも、この薄い250ページほどの本の中にまだまだ多くの衝撃的な説が載せられている。宮本氏が生涯をかけて成し遂げられた偉大な業績であろう。

私は歴史学者ではないので、宮本氏の説が正しいかどうかの判断を下すことはできない。ただ、入れ墨の話やこれまで日本では、士農工商という分類から無視され、語られなかった海人(漁師)が現在でも日本にも多く存在している事実から察しても、宮本氏の提案は大変納得がいくものである。

話は変わるが、私は、ここで日本の歴史が本当はどうであったかという事よりも、民俗学者の宮本氏が古代日本について、なぜこんな異説を堂々と発表し、それが受け入れられているのかといういう事実を考えてみたいと思う。この本が、私に与えた違和感は、宮本氏の説の内容もさることながら、民俗学者がなぜ古代日本を歴史学者も提案できなかったような大胆な説を提案できたのかという点にある。

我々の意識には、「現代と江戸時代、中世、古代ではそれぞれ違った人間が生きていた」というような感覚が存在するのではないだろうか。だから現在をもって過去を推測する事はできないという根拠のない思いこみがあるのではないか。宮本氏がなぜ古代日本について、こんな大胆な説が提案できたかと言う理由は、宮本氏が民族学者として戦前、戦中、前後日本を歩き回って集められた資料、知識でしかないはずである。その知識や経験をもって「日本書紀」や「魏志」を読んだときに、昭和初期と古代との間にはっきりとしたつながりが意識でき、1つの世界を作り出したのだと私は思う。つまり、現代日本と古代日本は、いまでも相当なつながりを持っているという事の証明である。我々は、歴史を学ぶときに、江戸時代であるとか、戦国時代であるとか、明治、大正、昭和などとそれぞれの時代区分にわけてその特色を把握しようとする。しかし、そえはあくまでも便宜上の区分であって、江戸時代末期と、明治初期が明確に違った世界であったはずもない。

ながながと書き続けている「日本はどこへいくべきなのだろうか」という問いに答えるために、この単純な原理を意識することは大変重要な事であると思う。日本という国は、明治維新から欧米の技術を取り入れて近代化し、現在の経済大国日本があると考えるのは、視野が狭すぎるのではなかろうか。明治から現在までたかだか140年ほどしか経っていない。日本の古代史といっても邪馬台国が存在していたとされるのが3世紀であり、まだ2000年も経っていなのである。

フランツ・ボアズ著「プリミティブ・アート」の冒頭に、書かれたこの言葉が、私の時代感を大きく変えてくれた。
人類の心的資質が現在とは異なっていたり、類人猿に見られる心的資質とよく似た状態から進化しつつあったりした時代もあったに違いない。そのような時代ははるかな昔のことであり、こうした低い段階の心的機構の痕跡は、現存する人類のどの人種にも見られない。私の個人的な経験がおよぶ限りでは、そして、この経験に基づいて民族誌のデータを適切に評価しうると感じている限りにおいて、人種や文化に関係なく、信念や習慣がどんなに不合理に見えようが、人類の心的な過程はどこでも同じである。
人類という生物にとって、数千年という時間は、大きな環境の変化をもたらしたが、我々人類自身が進化がするほどの長さでは全くなく、古代の人達も現在の我々とまったく変わりのない生き物であるという事実を、まず念頭におく必要があるのであろう。


イメージ 1

.
shi**per
shi**per
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

ブログバナー

よく行くブログ

哲学・思想系

中国人

中国駐在(北方)

中国駐在(南方)

中国以外

日本 関東

日本 中部・北陸

日本 関西

日本 九州

過去の記事一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

いまならもらえる!ウィスパーうすさら
薄いしモレを防ぐ尿ケアパッド
話題の新製品を10,000名様にプレゼント
ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
お肉、魚介、お米、おせちまで
おすすめ特産品がランキングで選べる
ふるさと納税サイト『さとふる』
コンタクトレンズで遠近両用?
「2WEEKメニコンプレミオ遠近両用」
無料モニター募集中!
いまならもらえる!ウィスパーWガード
薄いしモレを防ぐパンティライナー
話題の新製品を10,000名様にプレゼント

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事