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いろいろな日本人論が語られてきた。 有る人は、日本文化をを「恥」の文化で著した。 「甘え」という特徴を指摘した人もいた。 「武士道」「茶道」で紹介した人も、「菊と刀」で表現したアメリカの文化人類学者がいた。 それぞれ日本文化の特徴ではあるが、どれも体系的な日本文化と諸外国の違いを説明するには至っていないと思える。 まず、前提条件として考えておかなければならないのは、日本人が優秀であるとか、欧米に比べて劣っているとか言う思い込みは棄てなければならないという事実である。人類の生物的な進化は、何万年などという年月では起こらない。中国人がよく口にする4千年の歴史程度では人類になんの優劣も起こらないし、まして日本の歴史で記録されている数百年などといいう年月で日本人が他の国の人より優秀な民族になることなどあり得ないのである。 前にもご紹介したが、ユダヤ系アメリカ人の文化人類学者で、「菊と刀」著したルーズ・ベネディクトの先生であるフランツ・ボアズが著したプリミティブ・アートの冒頭には、 かつて、人類の心的資質が現在とは異なっていたり、類人猿にみられる心的資質とよく似た状態から進化しつつあったりした時代も有ったに違いない。そのような時代ははるかな昔のことであり、こうした低い段階の心的機構の痕跡は、現存する人類のどの人種にも見られない。私の個人的な経験がおよぶ限りでは、そして、この経験にもとづいて民族誌のデータを適切に評価しうると感じている限りにおいて、人種や文化に関係なく、信念や慣習がどんなに不合理にみえようが、人類の心的な過程はどこでも同じである。と戒めてある。 では、なにが各国の文化をこれほどちがったものににしたのであろう。 そのヒントになるのが、宮崎駿監督が紹介されている中尾佐助氏著「栽培植物と農耕の起源」という本。 まず、中尾氏は、農耕が文化の底辺をなしていると語られている。 そして、農耕の世界的な分類は、大きく4つに分けれれるそうである。 「東南アジアの根菜農耕文化」「西アフリカのサバンナ農耕文化」「オリエントの地中海農耕文化」「アメリカの新大陸農耕文化」 農耕を基準に考えるとこうも単純に分類できてしまうのかと驚かされるばかりであるが、長い年月の間にその農耕でさえも多くの地域的な差を生み出して来たのであろう。 文化は、万年単位という時間の中で徐々に形成されたものであって、これまでの日本人論が語ってきたような単純なものではない事が分かる。 日本の文化と中国や欧米の文化の違いは、なんなのであろう。 私は、それぞれの社会規範から起こっているのでは無いかと考えるようになった。 それぞれの国家や社会には、規範若しくは、道徳という曖昧な共通認識が存在する。 法律は、最低限度の社会ルールをきめたものであるが、そのレベルではなくもう少し上の次元でのルールであるとも言える。 法律には、掃除しなさいとは書かれていない。 でも、多くの人は、すすんで掃除をする。 こうしたルールは、各文化圏によって大きくちがってくるのであるが、この違いこそが文化の違いと呼ばれているのではなかろうか。 では、そうしたルールは何を基にしているのであろう。 日本人であれば、おおよそ同じルールを共通認識としてもっているようである。 私が中国に駐在したときの経験でも、日本人同士なら理解しあえるが、中国人とは絶対に理解しあえない一線が存在する。 同じ共通認識をもてるという事は、なにか基になるものがかならず存在するはずである。 以前、日本人の定義について考えた事があった。 日本国籍を持っている人だろうか? かつて、日本から移民した人達がいた。彼らは、日本国籍でなくなったら、日本人ではないのか。 日本語をしゃべる人? 中国人や外国人でも、日本語をしゃべる人は沢山いる。 現在は「日本人が共通意識としてもつ暗黙のルールが理解できる人」という定義が一番ふさわしいのではないかと考えている。
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