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義和団の乱にみる中国の暴動 Part 2
中国事情
[ 友愛・平和 ]
2018/12/9(日) 午後 3:55
義和団事件の勃発
1900年6月、蜂起した義和団は、たちまち北京を占領、日本とドイツの外交官を殺害し、教会を襲撃した。清朝政府で実権をふるっていた西太后は義和団を鎮圧しようとしたが、それが出来ないと見ると方向を転換し、義和団を支持し列国に宣戦布告した。
8ヶ国連合軍の北京出兵
これに対し、イギリス・アメリカ・ドイツ・フランス・オーストリア・イタリア・ロシア・日本の8ヶ国連合軍が共同で出兵、天津に上陸して北京に入り義和団を鎮定した。西太后は紫禁城を捨てて脱出、西方の西安に逃れた。8ヶ国の中で最も兵力の大きかったのが日本であり、イギリスは南アフリカ戦争のため、アメリカはフィリピンの独立運動を鎮圧するフィリピン=アメリカ戦争のために兵力を割けなかったからである。
北京議定書の調印
北京を占領された清朝は李鴻章が列強と講和交渉に当たり、排外派の大臣を処刑して1901年7月に北京議定書(辛丑和約、または辛丑条約ともいう)を締結した。これによって、北京と天津への外国軍隊の駐留権などを認め、帝国主義列強の中国分割はさらに進んだ。
[ 平和防災愛国 ]
2018/3/25(日) 午後 2:31
北伐の再開
上海クーデターで一時中断された北伐は、独裁的な権力を握った蔣介石によって1928年4月に再開された。北伐軍が北京に迫ると、日本は居留民保護を名目にたびたび干渉し山東出兵を行った。特に1928年5月には、山東省済南で、北伐軍と日本軍が衝突し済南事件が起こった。蔣介石は日本との全面的な対決を避けて迂回し、北京に向かった。
しかし再開後の北伐軍は、本来の反軍閥、反帝国主義の「国民革命」軍という基本的な使命を失い、南京政府による全国統一の仕上げという権力闘争の様相を呈した。国民革命軍もその内実は、もと直隷派軍閥の馮玉祥、山西軍閥の閻錫山、広西軍閥の李宋仁らの軍からなる混成軍にすぎなかった。また、最初の北伐の時のような民衆の協力や、多くの知識人の参加などの国民的な盛り上がりはなくなっていた。
蒼穹の昴 浅田次郎著 中国とイエスズ会
中国事情
[ 安全は大切ですね ]
2018/2/12(月) 午前 10:53
1580年に大村純忠が長崎の統治権をイエズス会に託したことは、長崎をイエズス会専用の港にすることで南蛮船がもたらす貿易利益を独占しようとした大村純忠と、とにかく戦乱の影響を受けずに安心して使える港を探していたイエズス会の両者の利害の一致によるものであったが、スペイン・ポルトガルによる日本征服の第一歩ではないかと疑いの目を向けた豊臣秀吉は、1587年にこれを取り上げて直轄領とした。日本における宣教活動は大きな成果を得たが、最終的に江戸幕府による禁教令によって、宣教師と協力者たちは処刑・追放となり、正保元年(1644年)マンショ小西の殉教を最後に日本人司祭も存在しなくなり、江戸時代にイエズス会は日本での活動を終えた。
イエズス会内部には、アメリカ大陸と同様に、武力による日本・明国の征服を主張する者もあった。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノなども書簡でこの考えを述べており、九州のキリシタン大名を糾合し、長崎を軍事拠点とする計画であった。サン=フェリペ号事件のあとでは武力制圧計画が再度持ち上がった。
2017/2/26(日) 午前 7:27
そもそも日本軍が南京に侵攻したのは、一九三六年、張学良が蒋介石を西安で拉致監禁した西安事件をきっかけに、コミンテルンの指導で第二次国共合作が成立したことで、国民党政府軍は中国共産党への攻撃をやめ、国民党政府軍に共産党勢力が入り込み、日本軍を挑発して、日本を戦争へ引きずり込んでいったことが背景にある。
一九三七年七月七日、中国盧溝橋付近で北京議定書に基づき合法的に駐留していた日本軍の軍事演習中に、日本軍とその近くにいた国民党政府軍の双方に対して実弾が発射されたことをきっかけに、戦闘状態になった(盧溝橋事件)。
この双方への発砲は、後に中国共産党国家主席となった劉少奇(りゅうしょうき)が指示したものであることを、彼自身が告白している。事件不拡大を望んだ日本軍は、その四日後には停戦協定を結んでいる。
apaから引用
[ あ ]
2015/4/26(日) 午前 1:45
[このコメントが投稿された記事は削除されました]
[ ゆうママ ]
2015/3/22(日) 午前 4:24
[このコメントが投稿された記事は削除されました]
[ s4n*j65*i0a* ]
2015/1/13(火) 午後 10:05
お疲れ様です。
いきなりのコメント失礼します(・∀・)
既にshi**perさんのブログはお気に入りに入れちゃいました( ´∀`)
今まで凄く落ち込んだりして
凹んだりして凄くつらい日々を過ごしてたんです。
でもでも、shi**perさんのブログに巡り合えて変わったんです。
やっぱり色んな所で共感したり、そうなんだって新しい発見があったりとか。
こうした縁も大事だと思っています。
色々相談をしたいし、仲良くなりたいなぁって思ったので
一応勝手ながら載せちゃいました。(=^_^=)
ayundamon@i.softbank.jp
これ、shi**perさんがもし確認できたらコメントごと削除してもらって全然かまわないので
宜しくです
中国の敗戦史
中国事情
[ 一党独裁中国の反日デモを軽蔑 ]
2013/8/15(木) 午後 0:36
蒼穹の昴 浅田次郎著 中国とイエスズ会
中国事情
[ アジアや世界の歴史や環境を学ぶ ]
2013/7/13(土) 午後 0:58
明には1582年にイエズス会員マテオ・リッチらによってキリスト教カトリックがもたらされる。
明政府高官の中には、キリスト教に興味を示した者も多数存在したが、それはマテオ・リッチの布教態度に負うところが大きく、彼の死後は宣教師たちのもたらした様々な西洋科学技術にこそ価値を見出すようになった。
明人では、代表的なキリスト教信者として徐光啓の名を挙げることができるが、徐光啓は時の内閣の宰相として西欧文化の紹介に努め、西欧暦法に基づき、以後の中国における暦を改変した人物である。
また、マテオ・リッチが作成した坤輿万国全図(中国を中心とした世界地図)は、それまで世界の全てであった中国が地球の一部でしかないと言う事を知らしめたという点で、士大夫の世界観に大きな影響を与えた。
このように、イエズス会は清代にまで政治・文化の上で大きな影響をもたらした。





