日本を知る100冊
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岡本 太郎、1911年2月26日生 - 1996年1月7日没 山本 七平、1921年12月18日生 - 1991年12月10日没 司馬 遼太郎、1923年8月7日生 - 1996年2月12日没 日本を愛し、そして日本に疑問を持ち続けられたように想う。 岡本氏は、弥生式土器に見られる日本的な繊細さは、本来の日本の姿ではなく、縄文式の太い線が本来の日本であると主張される。それは、江戸時代ごろから内向きに形成され、明治、大正、昭和と戦争へ続いていく精神史への反発ではなかろうか。しかし、現在においても少し異常さを感じさせる日本人の品質へのこだわりは、岡本氏の主張が正しいことを裏付ける事実なのかもしれない。 以前、余華さんという中国人作家が日本に来たときの感想をブログにかかれ、その繊細さを賞賛されておりましたが、それは反面において日本人のひ弱さを表しているのかもしれません。根底から日本人的感覚を揺さぶられます。 |
宇佐見定行がひょっこりと栃尾に遊びに来た。 わずかに数人のともを連れただけの微行姿であった。 予告もなく来たので、驚きながらも影虎はよろこんで迎えた。 「不思議な物が手に入りましたので、献上したいと存じて持参しました。」と定行は言って、家来どもにになわして来た箱を取り寄せて、取り出しにかかった。 「鉄砲というものだな」 黒い布でていねいに包んだそれを定行が出したのを見ただけで、影虎はさけんだ。海音寺潮五郎著「天と地と」で語られる天文十六年(1547年)頃の話である。 鉄砲の伝来は、天文十二年(1543年)8月に種子島に漂着したポルトガル人からとなっているから、わずか4年で複製品が東北地方まで出回ったことになる。 種子島についた鉄砲は、種子島島主である種子島恵時・時尭親子が大金で2挺を購入。刀鍛冶の八板金兵衛が複製する。それを堺の橘屋又三郎と、紀州根来寺の僧津田算長が本土へ持ち帰った。 日本の刀は、世界でもっとも切れ味がよい武器だそうです。その技術を持ってすれば、鉄砲の複製も難しい事ではなかったのでしょう。ただ初期の鉄砲は、あまり実用的ではなかったようです。 1,雨の日には使えない。 2,正確に当たるのは二十間(36m) 3,一回撃つための時間で、15本以上の弓矢を射る事ができた。 4,6回くらい撃つと熱くてもてなくなる。 5,その当時一挺5百両 磯田道史氏「武士の家計簿」に幕末1両は30万円相当であると書いてある。時代がかなり違うので参考までであるが、一挺1億5千万することになる。 最初に鉄砲を有効に使った戦いといわれるのが、天正三年(1575年)長篠の戦い。 信長は、3000挺を用意したそうである。 鉄砲伝来から30数年後の事である。 滋賀県の長浜市に国友の里鉄砲資料館がある。 他には余り記述がないが、長浜でも鉄砲が種子島に伝わった次の年から生産が始められたとある。 そして、江戸時代に入るとそこの職人達は、地方の大名に抱えられたようである。 鉄砲は伝来と共に、すぐに複製され大量生産された。 当時、日本が戦国時代であった影響は大きい。 すぐに、世界でもトップの生産数量、保有数を誇ったようである。 さらに「鉄砲を捨てた日本人」によると当時の日本の人口の影響も無視できない。 日本の人口は、2千五百万。フランスは、千六百万、スペイン七百万、イギリス四百五十万、アメリカには、百万人しかいなかったそうである。 しかし、そのように爆発的に生産された鉄砲も江戸時代に入り、18世紀に入るととだんだんと生産量が少なくなってきます。 元禄八年(1695年)鉄砲鍛冶は67人いたそうですが、最盛期に30軒有った鉄砲鍛冶は、宝暦7年(1757年)には22軒になっているそうです。文化10年(1813年)には、20軒。文政3年(1820年)には、15,6軒。明治4年(1871年)には、17軒。 当然、平和になって高価な鉄砲のを購入する必要がなくなったのが最大の原因であるとは思いますが、欧米ではその後も鉄砲の生産が続けられ、現在でも大きなマーケットを形成している事をおもうと、それだけの理由とも思いがたいのです。 日本刀は、美しく、朝廷や幕府では、褒美や献上の一等品として贈られました。 「菊と刀」、太平洋戦争後ルーズベネディクトが見た物は、技術を芸術の域にまで発展させる日本の心だったのかもしれません。 |





