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しばらく、自分の手でブログをかいていなかった。 日本に帰国してから、日本の歴史の本を読み続けていた。 私が学校で習っていた頃の日本の歴史とは、大きく変わりつつある。 私が当時学校でならった、歴史がいかに曖昧なものであったのを実感している。 歴史が変わるというのも、おかしな話であるが、私が学生の頃の歴史は、あまりにも観念的でフィクション性が相当高かったようである。日本が明治維新の変革をなそうとしていた時期、そして欧米の技術を取り入れる必要に迫られた時に、安易にそれまでの江戸時代という文明を古き封建時代と位置づけて、改革を進めていったという副次的な影響をうけたのではないだろうかという疑念が多少湧き上がってくる。日本の伝統文化を切り捨て、欧米の技術のみならず、思想や慣習まで、欧米から入ってくるものはすべてが、日本のものより勝っているとうような安易な選択が横行していたことは、私が社会にでてからの経験から考えても、容易に想像がつく。 歴史の本を読み終わったという訳ではないが、最近は、民俗学に興味をもち読み始めた。そうすると今度は、文化人類学とも関連がでてきた。 最近、「プリミティブアート」という訳本が出版された。オリジナルの本は、1927年に出版されている。この本の著者フランツ・ボアズは、ユダヤ人である。彼の生徒には、私が知っているだけでもエドワード・サピア、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミードなど文化人類学や言語学の分野で活躍した人々がいる。特にルーズ・ベネディクトは、「菊と刀」を書いたことで、日本人には馴染みが深い。 今日古本屋で、なにか興味の湧く本はないかと探していると、読みたい本ではなかったが、小林秀雄氏の「無情といいう事」という薄い文庫本を見つけた。その本が50円だったので、なんのためらいもなく、買って読んでいると、こんなことが書いてあった。 文学者が文章というものを大切にするという意味は、考えることと書くこととの間に何かの区別もないと信じる。そういう意味なのであります。拙く書くと言うことは、すなわち拙く考えるということである。拙くかけて初めて、拙く考えていたことがはっきりすると言っただけでは足らぬ、書かなければ何もわからぬからかくのである。あらかじめわかっていたら創り出すということは意味をなさぬではないか。文学者だけにかぎりません。芸術家と言われる者は、皆作品を作るという行為によって、おのれを知るのであって自己反省などという一種の空想によって自己を知るのではない。 自分の考えをできるだけ、正確にするために、あれも読みこれも読みそれから考えをまとめようとしておりましたが、どうもその方法が違ったのではないかと、とにかく拙くても多少の間違いがあっても、書き始めてみようと思い直しました。 |
思考
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大勢の人が道路を渡っている。 私が乗っているミニバンは、速度を落とさず、その列につっこんでいく。 危ない!私の足が突っ張る。 ミニバンは、その人たちに当るか当たらないかすれすれになって、急に速度を落とし、 彼らが、避けるのを確認し、すぐにアクセルをふかし、悠然と通り過ぎるのである。 3車線道路の一番右側を、私が乗っているミニバンは、かなりのスピードで走っている。 少し遠くに右側から伸びてきた道路が合流している。 その道路には、私たちのミニバンと同じくらいの位置に乗用車が走っている。 左斜め前には、大型のトラック。 ブレーキを踏みたい衝動にかられるが私が乗っているのは助手席である。 運転手は、いっこうにスピードを落とさない。 だんだんと左右から挟まれるような緊張感が迫ってくる。 それでも運転手は、スピードを落とさない。 緊張が極度に達したとき、運転手は、クラクションを立て続けに3回ならした。 右側の車がぎりぎりで、スピードを落としたのが右の窓から見えた。 毎朝、こんな感じで朝の爽やかな気分が、灰色の薄暗い気分に変わります。 こんな事を、もう2年以上も続けているわけですが、ある日フッとある考えが湧いてきました。 ぶつかるな!と思うから気分が悪くなるのではないだろうか。 そこで、意識して「ぶつかれ!」と思うようにしてみたところ、案外気分が軽くなる事に気づいた。 そして、なかなかぶつかってくれないのである。 悪いことに巻き込まれると、悪い方悪い方に考えて眠れなくなったり、ノイローゼになったりすのは、こうした心理的な動きが関係しているのであろう。 よく考えると不安が起こるのは、万が一の場合を想定して考えていることが多く、万が一の積み重ねで身動きがとれなくなっていたりする。万が一とは、確率で考えるとほとんど起こりえない事であるので、そをれをいくつ積み重ねてもたいした確率にはならないのである。そのたいした確率でもないことを一生懸命考える事がいかに無駄であるかに気づけば、そこから抜け出せるのではないだろうか。 中国食品の農薬混入を心配している人たちがいるが、果たして自分に農薬入りの食品があたる可能性がどれくらいあるのだろう。中国脅威論を唱える人は、中国が日本に攻めてくる確率を真剣に考えてみたことがあるのだろうか。 私たちが、宝くじに当たる確率よりも低いのでは無かろうか。 それよりも、明日交通事故にあう確率の方が高いかもしれない。 |
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私たちが感想や意見を述べる場合、その時々の自分の立場からの一面的な意見である場合がほとんどではないだろうか。 私がブログの主題としている 日本人とは 中国人とは 日本人と中国人のちがい などの抽象的な課題がまさにそうである。 ある事象について、自分の立場で考えた場合、その見方はある一面から見たものでしかない。 非常に偏った見方だといっても過言ではない。 我々が関わる全ての事象には、多面性があり、一方では有益であるが他方では有害であるなどと言うことは、例を挙げるまでもなくどこにでも存在している。 しかし、だからといってその一面的な見方が間違いであるという風に考えてしまっては、全ての意見が否定されてしまうことになる。有る一面から見た事象というのも確かに事実なである。 抽象的な話でわかりにくいので、例を挙げてみたいと思う。 この写真のような物体があったとする。 私が言っていることは、一方向から光を当てたような状態ではないだろうか。 有る角度から見ると、円形に見える場合も有るだろうし、別の角度から見ると卵型に見える場合もあるであろう。 全体像を把握できていないのも、事実なのであるが、 だからといって、それぞれの見方が間違っている訳ではない。 昔の人は、地球の全体像を把握できずに、平面と考えていた時代も合ったようである。 しかし、実際に宇宙から地球を見なくても、人類は地球が球形で有ることを発見しました。 同じように、日本人とは、中国人とは、という問いもいろいろな角度から検討してみ続けることにより、その全体像が把握できるのではないだろうか。 不思議なもので、自分自身がしていることさえ無意識のレベルでは、肯定していたとても、それを意識の部分で、理論的に説明はできない事がおおいのである。 |
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張愛玲の文章に「談女人」という文章があります。 なるほど、真理であると納得してしまいました。
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数ヶ月前のことになりますが、文廟(孔子廟)に行ったことがあります。そこで無料で配られていた小冊子「道徳教育課本」(道徳教育テキスト)をみると、一番最初のページに書かれているのは、
以下省略 儒教の基本は、親に対する孝であるように思います。 すべての宗教には、その論理を支える感情があるようです。 人の感情を根本的な土台として利用し、その上に論理を展開していくのです。 宗教のことはあまり詳しくないのですが、私の限られた知識で考えると、キリスト教も仏教のこの原理は同じではないかと思えます。 キリスト教は、神への畏敬。畏敬というと、聞こえはいいですが、言い方を変えると神への恐怖です。 仏教は、まず世の中が苦であると規定し、それに対する恐怖心、理想の世界へのあこがれが根底にあろうかと思います。 キリスト教が聖書を聖典とし、神がなぜ私たち人類の上に君臨しているのか、なぜ神に対して恐怖を感じなければいけないのかを説明しております。しかし、かたや学校では進化論を教えております。誰が、聖書を心から信じることができるのでしょう。信じることができる人の方が、私には理解できない。 仏教もこの世の中が苦であるという仮定のもとにすべてが成り立っているのに、先進諸国でこの世の中が苦だと思っている人がいるでしょうか。 儒教は親のありがたさが根底にあります。しかし、現代の日本で、親が苦労していると感じる子供が果たしてどれくらいいるのでしょう。苦労をして育った子供の方が、親を大切にし、生活に余裕がありすぎる家庭の子供の方が親を大切にしないという事実がそのことを証明しているように思います。 最近の若い者は、道徳心がないという話を聞きますが、私は当然であろうと思います。 すべての道徳の基本理論が現代社会とずれてしまっていて、まったくその論理が成り立たなくなってしまっているのではないかと思えるのです。 |







