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石渡信一郎は2017年1月8日満90歳11カ月にて肺炎で亡くなりました。

読者の皆様のご厚誼に深く感謝し、謹んでお知らせ申し上げます。

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図2 ベグラム都城跡 樋口隆康『アフガニスタン』(2003年)より

〇 東潮の説

東潮も、『前掲書』(22〜24頁)で、『魏志』東夷伝は、『尚書』兎貢篇五服説と『周礼』の九服制(方万里)の思想にもとづいて記されているとしている。そして、『後漢書』と『魏志』倭人伝にみえる「五千里」「千里」などの里数を衛星地図で測定したうえ、『魏志』倭人伝と『後漢書』にみえるすべての「千里」の概念が異なると書いているが、後述するように、東潮のこの見解は誤りである。

そして、邪馬台国九州説について、東潮は「その結論の邪馬台国や投馬国の位置の比定は、考古資料からみるとことごとくが空論で、非歴史的である」(27頁)と書き、「水行二十日」を奴国から投馬国までの日程として、投馬国を岡山県の備中・備前南部の平野に比定し、投馬国から「水行十日陸行一月」で邪馬台国(王都は奈良県の纏向遺跡)に至るという説を唱えている(174〜187頁)。

後述するように「水行二十日」「水行十日陸行一月」という日程記事は、里程記事と一体化しているものだから、東潮は、里程記事を不正確としてしりぞけながら、日程記事だけを正確とする大きな誤りを犯しているのである。

また、東潮は、文献史料から崇神の墓と推定されている箸墓古墳を、考古資料から卑弥呼の墓と推定するという誤りも犯している(194〜195頁)。そして、東潮は、夫餘(夫余)王は農耕王であったとする三品彰英の説(『三品彰英論文集 5』。1973年)と井上秀雄の説(井上秀雄他訳注『東アジア民族史』。1974年)を根拠として、夫余を騎馬民族とする江上波夫の説を否定している(68〜69頁)。

しかし、三品彰英の説も、三品説の継承者井上秀雄の説も誤りである。三品彰英は、『三品彰英論文集 5』(1973年。37〜401頁)で、夫余王とともに、『記紀』の天孫降臨神話に登場する天孫ニニギを、南方農耕民族の神話にみえる穀霊とみているが、神話学者大林太良は『日本神話の起源』(徳間文庫。1990年。201〜202頁)で、天孫ニニギの降臨神話が騎馬民族モンゴルの天孫降臨神話と酷似していると指摘している(後述補講)。

2倍された洛陽〜大月氏国間の里数

 私は、樋口隆康の『アフガニスタン』(2003年)や前田耕作の『玄奘三蔵』(2010年)などで、大月氏国(クシャン王朝)の王都の藍氏城=ベグラム遺跡の状況を確認した。ベグラム遺跡には、旧都城跡と新都城跡があるが、ヴァ―スデ―ヴァ(波(は)調(ちょう)王。在位203〜241)は、新都城を夏の都城としていた大月氏国(クシャン王朝)の最後の王とみられる。

衛星地図でベグラム遺跡の新都城跡南辺中央部(北緯34°59′33″。東経69°18′43″)から洛陽(漢魏洛陽城址。北緯34°43′37″。東経112°37′21″)までの直線距離を計測してみたところ、約3929kmであった。3929kmを16370里で割ったところ、1里=240.01mとなった。1里=約240mという短里は魏時代に使用されていないので、1里=約480mとすると、3929kmは8185.4里となった。

8185里を2倍すると1万6370里となり、問題の「一万六千三百七十里」と完全に一致する。つまり、洛陽から大月氏国までの距離「一万六千三百七十里」は、1里=約480mとして計測した直線距離の里数8185里(3929km)を、大月氏国の王都ベグラムが洛陽から遠方の西戎の地にあることを誇張するために2倍した里数なのである。

そして、東潮が『前掲書』(23頁)に示した「東夷伝里程表」によると、「吉林(夫餘東団山城)〜佳木斯(挹婁滾菟嶺土城)」間の「東夷伝里数」は「一千余里」で、「衛星による直線距離」は「480(km)」だから、1里=約480mとなる(次頁の表1)。

ちなみに、井上光貞が『日本の歴史1 神話から歴史へ』(1973年。237頁)で、榎一雄が1日の歩行を50里(約24km)としていると書いており、50里=約24kmとすると、1里=約480mとなる。

前述のように、渡邉義浩は大月氏国の王都の藍氏城を洛陽から「約七千百四キロメ―トル」にあるバクトラとしているので、洛陽(漢魏洛陽城跡)からバクトラ(現在のバルフ市のバラ・ピッサ―遺跡。北緯36°45′49″。東経66°53′55″)までの直線距離を計測したところ、約4103kmであり、バクトラが大月氏国の王都の藍氏城ではないことが判明した。

表1 『魏志』東夷伝里呈表(1)
   区間            里数   直線距離   1里
吉林(夫餘東団山城)〜
佳木斯(挹婁滾菟嶺土城)  一千余里 480km  480m

遼陽(遼東郡治)〜
集安(国内城)         一千里  250km  250m

魚豢が『魏略』を執筆していた頃、魏政権は洛陽〜大月氏国間を「一万六千三百七十里」としていた。そこで、洛陽〜女王国(邪馬台国)を、帯方郡治〜女王国(邪馬台国)間の「一万二千余里」に洛陽〜帯方郡治間の「五千里」を加えた「一万七千余里」とし、大月氏国と女王国(邪馬台国)の2国を、洛陽から遠い「荒域」にあることにしていたと考えられる。

魏政権が洛陽〜大月氏国間の直線距離を正確に知っていた理由は、次のように推定される。

229年に、大月氏国の波(は)調(ちょう)王(ヴァ―スデ―ヴァ王)が遣使朝貢して、明帝から「親魏大月氏王」に任命された時、帰国する大月氏国の使者に、多数の護衛の兵士を連れた魏の使者が同行して、大月氏国の夏の王都ベグラムまで行き、明帝の詔書・印綬を波(は)調(ちょう)王に拝仮した。この時、魏使の部下の天体観測技師が、洛陽から王都の藍氏城=ベグラムの新都城までの里程(直線距離)を8185里と測定した。

このように推定すると、女王国(邪馬台国。吉野ヶ里遺跡)に派遣された郡使梯儁も、多数の兵士・軍馬と、天体観測技師らを乗せた船団(大型船の船団)を率いていたとみられる。『魏志』倭人伝に、伊都国について「郡使、往来するに、常に駐(とど)まる所なり」とあり、馬偏の「駐」の字が使用されているのは、郡使の梯儁・張政が伊都国から女王国(邪馬台国。吉野ヶ里遺跡)までの行程で軍馬に乗っていたことと、伊都国の港に軍馬の大部分をとどめることを、陳寿が非公式に知らせているのであろう。

陳寿は、『魏志』倭人伝で、1里=約500mとしても記録している。前述の東潮の「東夷伝里程表」によると、「遼陽(遼東郡治)」〜「集安(国内城)」間の「東夷伝里数」は「一千里」だが、衛星による「直線距離」は「250(km)」であり、1里=約250mとなる(前頁の表1)。魏政権は、洛陽から大月氏国までの里数を2倍するために、公式には1里=約240mとして記録しているので、遼陽(遼東郡治)〜集安(国内城)間の「一千里」も、500里を2倍した里数とみていい。

陳寿は、魏政権の方策に従い、『魏志』倭人伝で、遼陽(遼東郡治)〜集安(国内城)間の実際の里数500里(250km)を、非公式には1里=約500mとして記録しているのである。なお、『魏志』倭人伝が1里=約500mとして里数を記録していることについては、旧著『邪馬台国の都 吉野ヶ里遺跡』で説明したが、本章第2節・第3節で、新しい知見を加えて詳述する。
そこで、問題の洛陽〜女王国(邪馬台国。吉野ヶ里遺跡。北緯33°19′25″。東経130°23′27″)間の直線距離は約1645kmだが、魏政権は、1里=約500mとして、約1645kmの直線距離を非公式には約3290里として記録し、公式には5倍して約16,450里としていたと考えられる。公式の約16450里は、洛陽〜大月氏国間の1万6370里より80里長い。

つまり、『魏略』も、『魏志』倭人伝も、洛陽〜邪馬台国間の里程については、公式には「理念」としての里程を書きながら、非公式には実際の正確な里程を記録しているのである。そして、『魏志』倭人伝の「水行十日陸行一月」「水行二十日」という日程記事についても、同じことがいえる。岡田英弘・渡邉義浩・東潮は、『魏略』と『魏志』倭人伝のこの独特の筆法による記録を解読できないのである。

魏時代に洛陽〜大月氏国間の直線距離と、洛陽〜女王国(邪馬台国。吉野ヶ里遺跡)間の直線距離とが、きわめて正確に測定されたのは、天体観測の技術のレベルが、現在考えられているよりも、はるかに高かったためである。

西晋の建国の功臣の一人裴(はい)秀(しゅう)(224〜271)は、政治家でありながら、優れた天文学者・地理学学者・地図学者・詩人であり、一定の縮尺をもった地図(方格図)である「兎貢地域図」を製作した。『尚書』兎貢篇が西晋と陳寿の世界観を規定していることを考慮すれば、陳寿が「兎貢地域図」を見た可能性がある。そして、太康年間(280〜289)に死んだとみられている魚豢についても、これと同じことがいえる。

裴秀は高度に発達した天体観測の技術に基づいて、きわめて正確な「兎貢地域図」を製作したが、残念ながら現存していない。上田正昭は『私の日本古代史(上)』(2012年)で、『魏志』倭人伝の行程記事はそのまま信頼することはできないとしたうえ、1402年の「混一彊理暦代国都之図」の原図の写真版を掲載している。高度に発達した天体観測の技術は、西晋の滅亡とともに失われ、東晋以降の中国の政権には伝えられなかった。明代の1402年に「混一彊理暦代国都之図」のような不正確な図が作られたのも、そのためである。

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図は渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』(2012年)より

〇 渡邉義浩の説
239年に卑弥呼の表敬使節団を洛陽に到着させたとする岡田説について、渡邉義浩は、『前掲書』で、魏(曹魏)の実権を握っていた曹爽らが司馬懿の面子を立てるためであり、「曹魏が卑弥呼を『親魏倭王』に封建し、規定の回賜に加えて特別な恩寵を示したのは、倭国にも大月氏国に匹敵する重要性を認めたからに他ならない」とし、曹魏が卑弥呼に「親魏倭王」の称号を賜与した理由については、呉の海上支配に対抗するためと指摘している(86頁)。

そして、魚豢と陳寿が洛陽〜邪馬台国(女王国)間の行程里数を「一万二千余里」とした理由としては、次に述べるように、『尚書(しょうしょ)』(儒教の経典である五経の一つ)兎(う)貢(こう)篇と『周礼(しゅらい)』(周代の官制を記した経典)の九服制(きゅうふくせい)に基づくことを説明している(120〜140頁)。

『魏志』東夷伝序と『周礼』の九服制(方一万里)

『三国志』東夷伝の序の冒頭には、
『尚書』(兎貢篇)は、「(天子の統治が及ぶ領域を)東は渤海(ぼっかい)にまで漸(すす)み、西は流砂(りゅうさ)に被(およ)ぶ」と称している。その九服の制度に含まれる地域については、根拠に基づき(その国の様子を)述べることができる。しかし、「荒域」(〔九服の最も外側に位置する〕荒服(こうふく)よりも外の地域)は、(そこからの使者が)通訳を重ねて至ることはあっても、(中国人の)足跡や馬車の軌(わだち)はそこまで及ばず、その国々の習俗や異なった特徴を知る者はなかった。虞(ぐ)舜(しゅん)より周(しゅう)代に至るまで、西戎(せいじゅう)が白玉の環(たま)の献(けん)を捧げ、東夷(とうい)が粛慎(しゅくしん)(氏の矢)の貢(こう)を捧げることはあっても、ともに久しく離れた世において至るもので、その距離の遠さはこのようなものである。

とある(渡邉義浩訳。『前掲書』120〜121頁)。
そして、渡邉義浩(『前掲書』)は、本書20頁の図1を示したうえ、尚書(しょうしょ)』(儒教の経典である五経の一つ)兎(う)貢(こう)篇と『周礼(しゅらい)』(周代の官制を記した経典)の九服制(きゅうふくせい)について、あらまし、次のように説明している。

『周礼』は、王畿と侯服(こうふく)・甸服(でんぷく)・男服(だんふく)・采服(さいふく)・衛服(えいふく)を中国、蛮服(ばんふく)・夷服(いふく)・鎮服(ちんふく)・藩服(はんふく)を夷狄(いてき)の居住地域とする九服説を取るが、東夷伝の序は、九服の外側に、『尚書』の荒服を起源とする「荒域」を設定し、『周礼』の世界観を援用しながら、『尚書』兎貢篇の世界観を夷狄を含むものにした(124頁)。

西晋における世界観を規定している『尚書』兎貢篇は、世界を「方一万里」の天下=「九州(中国)」+「蕃国(四海)」と規定するもので、東夷伝の序は、その外側に「荒域」を設定した(125頁)。

帯方郡は、楽浪郡のやや南であるが、同じく端なので、「五千里」とされる。計測したわけではないので、大きな距離は理念によって定まる(125頁)。陳寿が魚豢から継承した帯方郡から邪馬台国までを一万二千里とする記述は、現在から見れば理念だが、西晋の公式見解であった可能性が高い(140頁)。

渡邉義浩は、帯方郡から邪馬台国までの「一万二千余里」を単なる「理念」とみており、『後漢書』列伝78、西域伝、大月氏国(渡邉義浩は「クシャ―ナ朝」と書く)の条にみえる「洛陽を去ること一万六千三百七十里」については、藍氏城をベグラムではなく、バクトラとしたうえ、魏時代の1里を約434mとして「約七千百四キロメ―トル」と書いている(135頁)。

しかし、渡邉義浩は、『魏志』倭人伝の行程記事を「理念」に過ぎないと強調している。にもかかわらず、『前掲書』(152〜153頁)では、問題の「水行二十日」「水行十日陸行一月」については、陳寿が「理念的に表現しているため」で、近畿圏までの道程記事とみても不自然ではないという非論理的な説明をしたうえ、「邪馬台国は大和にある可能性は高いといえよう」と書いて、邪馬台国大和説に加担している。

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2015年10月1日に「新訂 邪馬台国の都吉野ケ里遺跡」を出しました。
旧版に加筆している為、約60ページ増えています。

その加筆分で石渡信一郎が特に公開したい内容をこれから3回に分けて載せます。


第1部 邪馬台国の都 吉野ヶ里遺跡
第1章 「水行十日陸行一月」の秘密(1)

1 「万二千余里」の謎を解く

『魏志』倭人伝と『魏略』の行程記事

『魏志』倭人伝は、『三国志』巻30 魏書(ぎしょ)、烏丸(うがん)・鮮卑(せんぴ)東夷(とうい)伝(でん)、倭人条の略称である。『魏志』倭人伝の行程記事は、誇張・虚構を交えた独特の筆法で書かれているが、邪馬臺(やまと)国(邪馬台国)の所在地をきわめて正確に記録している。「邪馬臺」(「邪馬台」)はふつうヤマタイと読まれているが、宋本『太平御覧』所引の『魏志』倭人伝や、『梁書』『北史』に、卑弥呼の宗女(同族の女性)の名として「臺与」がみえる。「臺与」(「台与」)がふつうトヨと読まれていることから、「邪馬臺」はヤマトと読むのが妥当である。

『魏志』倭人伝は、西晋(265〜316)の陳寿(ちんじゅ)(233〜297)が280年代に完成させたもので、陳寿は、正始元年(240)に倭国に来た帯方郡使梯儁(ていしゅん)の報告書と、正始8年(247)に倭国に来た帯方郡使張政(ちょうせい)の報告書を読み、さらに魚豢(ぎょかん)(陳寿とほぼ同時代の人)がこの2人の郡使の報告書を読んで書いた『魏略』(『魏志』倭人伝より少し早く成立)に基づいて、『魏志』倭人伝を書いたと考えられる。

『魏略』は本文が失われて、逸文しか残っていない。しかし、『魏志』倭人伝と、『翰苑』巻30所引の『魏略』逸文には、帯方郡治(帯方郡の郡役所)から邪馬台(やまと)国までの行程記事が載っている。

  懺音屐拵楚妖繊雰影品検
(1)倭人は帯方(たいほう)の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑(こくゆう)を為(な)す。旧(もと)百余国、漢の時、朝見(ちょうけん)する者有り。今、使訳(しやく)通ずる所三十国。

郡従(よ)り倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(へ)て、乍(あるい)は南し乍は東し、其の北岸狗邪(くや)韓国(かんこく)に到る、七千余里。

始めて一海を度(わた)ること千余里、対馬国に至る。其の大官を卑狗(ひく)と曰(い)い、副を卑奴(ひな)母離(もり)と曰う。居(お)る所は絶島(ぜっとう)にして、方(ほう)四百余里可(ばか)り。土地は山険(やまけわ)しく、深林多く、道路は禽鹿(きんろく)の径(こみち)の如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて、南北に市糴(してき)す。

又、南に一海を渡ること千余里、名づけて瀚海(かんかい)と曰い、一支(いき)国に至る。官を亦(また)卑狗と曰い、副を卑奴母離と曰う。方三百里可(ばか)り。竹木叢林(ちくぼくそうりん)多し。三千許(ばか)りの家有り。差(やや)田地有り。田を耕すも猶(なお)食すに足らず。亦(また)南北に市糴(してき)す。
又、一海を渡ること千余里、末盧(まつら)国に至る。四千余戸有り。山海に浜(そ)いて居(お)る。草木茂盛(もせい)し、行くに前人を見ず。好(よ)く魚鰒(ぎょふく)を捕らえ、水は深浅となく、皆、沈没して之を取る。

東南に陸行すること五百里にして、伊都国に到る。官を爾支(にき)と曰い、副を泄謨觚(せもこ)・柄渠觚(へくこ)と曰う。千余戸有り。世々(よよ)王有り、皆、女王国に統属す。郡使、往来するに、常に駐(とど)まる所なり。

東南して奴(な)国に至る百里。官を兕馬觚(しまこ)と曰い、副を卑奴母離と曰う。二万余戸有り。

東行して不弥(ふみ)国に至る百里。官を多模(たも)と曰い、副を卑奴母離と曰う。千余家有り。

南して投馬(とま)国に至る水行二十日。官を弥弥(みみ)と曰い、副を弥弥(みみ)那利(なり)と曰う。五万余戸可(ばか)り。

南して邪馬臺(やまと)国に至る、女王の都する所、水行十日陸行一月。官に伊支馬(いきま)有り、次(つぎ)を弥馬升(みましょう)と曰い、次を弥馬獲支(みまかき)と曰い、次を奴佳鞮(なかて)と曰う。七万余戸可(ばか)り。

女王国自(よ)り以北、その戸数・道里は略(りゃく)載(さい)することを得可(うべ)きも、その余の旁国(ぼうこく)は遠絶(えんぜつ)にして詳(つまびら)かにすることを得可(うべ)からず。次に斯馬(しま)国有り、次に巳百支(しはき)国有り、次に伊邪(いや)国有り、次に都支(とき)国有り、次に弥(み)奴(な)国有り、次に好古都(こうこと)国有り、次に不呼(ふこ)国有り、次に姐(そ)奴(な)国有り、次に対蘇(つそ)国有り、次に蘇(そ)奴(な)国有り、次に呼邑(こお)国有り、次に華奴蘇(かなそ)奴(な)国有り、次に鬼(き)国有り、次に為吾(いご)国有り、次に鬼奴(きな)国有り、次に邪馬(やま)国有り、次に躬臣(くし)国有り、次に巴利(はり)国有り、次に支惟(きい)国有り、次に烏(お)奴(な)国有り、次に奴(な)国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。

其の南に狗(く)奴(な)国有り。男子を王と為す。其の官に狗古智(くこち)卑狗(ひく)有り。女王に属さず。郡自(よ)り女王国に至るには万二千余里。

(2)その道理を計るに、当(まさ)に会稽(かいけい)の東冶(とうや)の東に在るべし。

(3)女王国の東、海を渡ること千余里、復(また)、国有り、皆倭種なり。又、侏儒(しゅじゅ)国有りて、其の南に在り。人の長(たけ)三、四尺、女王を去ること四千余里。又、裸(ら)国・黒歯(こくし)国有りて、復(また)、其の東南に在り。船行一年にして到る可し。

◆ 懺歌』(『翰苑』巻30所引『魏略』逸文)(訓読文)

(1)帯方従(よ)り倭に至るには、海岸に循(したが)いて水行し、韓国を歴(へ)て、拘邪(くや)韓国(かんこく)に到る、七千余里。

始めて一海を度(わた)ること千余里、対馬国に至る。その大官を卑狗(ひく)と曰い、副を卑奴(ひな)(母離(もり)と曰う。方四百余里可り。)良田無く、南北に市糴(してき)す。

南に(一)海を度(わた)り、一支(いき)国に至る。官を置くこと対(馬)と同じ。地は方(ほう)三百里。

又、(一)海を度(わた)ること千余里、末盧(まつら)国に至る。人善(よ)く魚を捕え、能(よ)く水に浮没して之を取る。東南五百里にして、伊都(いと)国に到る。戸は万余。官を置くに爾支(にき)と曰い、副は洩渓觚(えけこ)・柄渠觚(へくこ)と曰う。其の国王、皆女王に属する也。

女王(国)の南に、又、狗(く)奴(な)国有り。男子を以て王と為し、其の官は拘右(くこ)(古の誤り)智卑拘(ちひく)と曰う。女王に属さざる也。
 帯方自(よ)り女(王)国に至るまで、万二千余里。

(2)其の地、大較(おおむね)会稽(かいけい)の東に在らん。朱崖(しゅがい)、儋耳(たんじ)と相近し。

「親魏倭王」と「親魏大月氏王」

私は、『邪馬台国の都 吉野ヶ里遺跡』(2011年)で、『魏志』倭人伝の行程記事の「水行十日陸行一月」「水行二十日」などの謎を解いたが、「大月(だいげつ)氏国(しこく)」のことにはふれなかった。「万二千余里」と「大月氏国」との関係をよく考えなかったためである。その後、東潮が、『邪馬台国の考古学 魏志倭人伝が語る世界』(2012年)で、「万二千余里」が、魏の都の洛陽から「大月氏国」までの里程記事・戸数記事と密接な関係があると指摘し、『魏志』東夷伝・韓伝・倭人伝にみえる里程記事・戸数記事は信頼できないと説明していること(後述)と、渡邉義浩も、『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』(2012年)で、ほぼ同じような説を述べていること(後述)を知った。そこで、この章では、渡邉義浩・東潮などの説を紹介した後に、洛陽から「大月氏国」までの里呈記事が想像を絶するほど正確であることを説明することにした。

「親魏倭王」と「親魏大月氏王」との関係を最初に指摘したのは、渡邉義浩が『前掲書』で書いていうように、手塚隆義である。

 〇 手塚隆義の説
 手塚隆義は、「親魏倭王考」(『史苑』23巻2号。1963年)で、卑弥呼の「親魏倭王」の称号は、大月氏国の波(は)調(ちょう)王(ヴァ―スデ―ヴァ)の「親魏大月氏王」に倣ったものであると指摘している。

 〇 山口修の説
 山口修は、「魏志倭人伝の里程記事」(『日本史研究』85号。1966年)で、「万二千余里」は、魏の都の洛陽から「大月氏国」までの里程を意識したものであると指摘している(32〜35頁。)

 〇 岡田英弘の説
岡田英弘は、『倭国の時代』(1976年)で山口修と同じような説を発表したが、『日本史の誕生』(2008年。93〜103頁)では、『後漢書』西域(さいいき)伝にみえる「大月氏国」について、彼の説を、あらまし、次のように説明している。

クシャン王国は「大月(だいげつ)氏国(しこく)」と呼ばれ、その都の「藍氏(らんし)城(じょう)」は、洛陽を去ること一万六千三百七十里、戸数は十万、口数は四十万、兵力は十余万人だと言っている。クシャン族はもともとパ―ミルの西のワハン渓谷に住んでいたらしいが、この時代にはアフガニスタンのカ―ブルの近くのカ―ピシ―に都を移し、アフガニスタン、カシミ―ルからパキスタンまで支配していた。藍氏(らんし)城(じょう)は、その距離から見てカ―ピシ―のことで、今のベグラムの遺跡である。

  魏の明帝の太和3年(229)に、大月氏国(クシャン王国)の波(は)調(ちょう)王(ヴァ―スデ―ヴァ)が遣使朝貢して、明帝から「親魏大月氏王」に任命されており、大月氏国(クシャン王国)を朝貢させたのは、魏の基盤をつくった曹操(そうそう)の一族の曹真(そうしん)である。

   曹爽をはじめとする魏の宮廷は、公孫淵(こうそんえん)を征伐した司馬懿にも、229年に大月氏国(クシャン王国)を朝貢させた曹真と同等の名誉を与えるために、なるべく遠くの酋長として、倭の邪馬台国の女王が選ばれ、大月氏国(クシャン王国)と同格の「親魏倭王」の称号が卑弥呼に贈られた。

   『魏志』倭人伝は、帯方郡から狗邪韓国までを七千余里、狗邪韓国から邪馬台国までを五千余里、合計が一万二千余里としている。帯方郡は楽浪郡と近いが、『続漢書』の「郡国志」には洛陽を去ること五千里とある。そこで、洛陽から邪馬台国までは一万七千里ほどになり、クシャン帝国の都とほぼ同じ距離になる。

『魏志』倭人伝に戸数が記録されている国々の戸数を合計すれば十五万余戸となり、大月氏国(クシャン帝国)の十万戸に匹敵する。邪馬台国の戸数は七万余戸だが、当時の洛陽の戸数は十万戸以下で、邪馬台国の七万戸と同程度であったにちがいない。

岡田英弘が、洛陽から邪馬台国までの「一万七千里ほど」は、洛陽から大月氏国(クシャン王国)までの「一万六千三百七十里」を意識して作り出された里数であると考えたことは正しい。

しかし、岡田英弘は『魏志』倭人伝の「一万二千余里」を架空の里数と考え、「邪馬台国という国家などは、存在しなかったのである」(112頁)と書いているにもかかわらず、邪馬台国は関門海峡を東に抜けた瀬戸内海西部の沿岸に、狗奴国は紀伊国にあったと書いている(222〜223頁)。つまり、岡田英弘は邪馬台国大和説派なのである

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日本考古学協会など考古学、歴史学の15の研究者団体は20日午前、宮内庁が陵墓として管理している奈良県桜井市の箸墓古墳を立ち入り調査した。
 
とのことですが、今回の立ち入り調査では大きな発見は期待出来ないでしょう。
 
研究者16人が約1時間半をかけて墳丘の最下段を一周し、地表に見える葺(ふ)き石や土器などの遺物の状態、墳丘の形などを観察した。
 
だけで、発掘もしなければ、古墳上段を歩くことすら出来ないからです。
宮内庁からすれば発掘されると「宮内庁にとって都合の悪いもの」が出てしまうので、今後も発掘は許可されないでしょう。
 
 
「箸墓古墳は卑弥呼の墓」
という説が最近はかなり強くなっているように感じます。
 
1、国立歴史民俗博物館の炭素14年代法
2、奈良文化財研究所の年輪年代学
 
の二つを根拠に箸墓古墳は250年頃に造られたというのですが、この二つとも2世紀〜4世紀にかけては全く信用できるものではありません。
 
1の炭素14年代法についてはその弱点を新井宏、安本美典が「季刊邪馬台国」101号の中で詳しく書いています。
 
2の年輪年代学は奈良文化財研究所の光谷拓実が恣意的な手法を使い、データ公表もせず、誰にも検証させない非科学的な研究と言えます。はっきり言ってこの人は旧石器捏造事件を起こした人達と同じタイプの人間で、とても真摯な研究者とは思えません。早くまともな年輪年代学研究者が現れて欲しいものです。
 
年輪年代学の弱点については「邪馬台国の都 吉野ヶ里遺跡」P71〜P77に書かれています。
 
箸墓古墳は崇神天皇(大王)の陵墓で393年築造です。(邪馬台国の都 吉野ヶ里遺跡 )
 
「宮内庁にとって都合の悪いもの」が発掘されなくても、いずれ新しい古墳年代測定法や真摯な研究者が出てきて、少しづつですが箸墓古墳の築造年代は250年頃から4世紀後半に戻っていくことでしょう。

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