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事実は小説より奇なり

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 1940年以降、日本人は
核分裂連鎖反応の科学を積極的に研究してきた。

 仁科芳雄博士は、
彼の戦前の原子核物理の研究に対してノーベル賞に推薦され
ていた。

 このとき彼と若い科学者のチームは理化学研究所(理研)で、
アメリカ人を原子爆弾で倒すため精力的に研究し
いた。


 2年間の予備的研究の後、
F号と呼ばれた原子爆弾計画が1942年に京都で開始
された。(訳注:理研・仁科の「ニ号研究」、
     海軍・京都帝大の「F研究」が混同されている。)


1943年の時点で、
日本版マンハッタン計画
原爆級ウランを分離できるサイクロトロンを作り出しただけでなく、原子の知られざる力を解き放つ
知識を持った核科学者チームをも生み出した.


 アメリカがワシントン州の砂漠に建設したウラン濃縮工場は、
あまりの巨大さのためグランドクーリーダムで発電された電力
を全部吸い取ってしまうほどだった。

 そのころ日本人は爆弾を作るのに十分な原料ウランを求めて
帝国中を探し回ったが、成果はほとんど無かった。

日本はナチスドイツに助けを求めた


が、」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
ナチスが、
原子爆弾つくること
始終、間違っても無かった!


ヒトラーは、
原爆トラスト主格の財閥や
戦争屋のパトロン王立国家に
養育された「ロスチャイルドとメイドの間の子」
同盟国日独の相談は戦争屋に筒抜けだった
                       _といぅ次第。

」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」私見



1945年初頭の時点で連合国は
ライン川に到達しロシアはプロイセン地方を占領していた。

 窮余の一策として、
ヒトラーは
1200ポンド(544 kg)のウランを載せたUボートを日本に派遣した。

 この潜水艦が到着することはなかった。

 1945年5月に
アメリカの軍艦がこれを拿捕した。

 潜水艦に乗船していた2名の日本人士官は自殺し、
積み荷のウランはテネシー州オークリッジに運ばれ、
アメリカのマンハッタン計画のために使われた。

 このウランが無くては、
うまくいっても日本は1つか2つの小さな原子爆弾しか
作れなかったであろう。



日米両国の原爆計画が完成に
近づいた1944年、
ダグラス・マッカーサー将軍のアイランド・
ホッピング(飛び石)作戦は日本本土に迫っ
ていた。

B-29爆撃機の編隊が
東京や他の大都市焼夷弾降ら
せた.
仁科は研究所を現在の
北朝鮮にある興南フンナムという小さな
移さざるを得なかった。この移動のため日本の原爆研究
は3ヶ月を失った。


 194586日、エノラ・ゲイが1発の原子爆弾を広島上空で
投下した。その爆発は7万の人々を即座に死に至らしめ、その
後数日から数週間でさらに数千人が亡くなった。

 
 仁科に爆発の知らせが伝えられたとき、
彼は直ちにアメリカ人にノーベル賞を奪われた
ことを悟った。
 しかし仁科は、彼自身の原子爆弾もまた成功
するという暗黙の確証を得た。
 仁科と彼のチームは原爆実験の準備を整える
べく精力的に働いた。

 ウィルコックスのような歴史学者や、
アトランタ・ジャーナル・コンスティチューショ
ン紙の記者であるデヴィッド・スネルは、
仁科のチームが核実験に成功したと確信している


1945年8月12日、
長崎原爆投下の3日後、
日本がポツダム宣言受諾を発表する3日前、

日本は興南で原爆を実験し、
部分的な成功を収めたと、
        ウィルコックスは書いている。
」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」



 日本

 ダムや工場など8兆円

 規模「◎北朝鮮に残した戦前の資産
  
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    ***************************************8月4日(日)の産経 引用
   開発のダムや工場など8兆円規模
                ●北朝鮮に残した戦前の日本「資産」

 戦前の日本が朝鮮半島に残した資産は
昭和二十年八月十五日現在、GHQ(連合国軍総司令部)の試算で
八百九十一億ニ千万円(当時のレートは 一ドル=十五円)に上ります。

 このうち、北朝鮮に残した資産は四百六十二億二千万円で、現在価格に
換算すると八兆円を超えます。
 
 日本は朝鮮北部を主に工業地帯として開発し、今の韓国にあたる朝鮮
南部を農業地帯としで開発しました。朝鮮北部では特に、鴨緑江水系の
電源開発に力を注ぎました。

 
 この計画を最初に思いついたのは、
電気技師の森田一雄氏と土木技師の久保田豊氏です

 大正十三(一九二四)年、両氏は朝鮮半島の五万分の一の地図を見な
がら、鴨緑江の水を逆方向の日本海側に落とせば、巨大な電力が得られ
るのではないか、と考えました。朝鮮半島の東側の急勾配に着目した
発想でした。
 
 この計画を大手電気化学工業の日本窒素肥料社長、野□遵氏に持ち込
んだところ野□氏も賛同し、その資金援助によって朝鮮北部の電源開発
がスタートしました。
 
 終戦までに、赴戦江、長津江、虚川江、華川、水豊などの発電所が
完成し、禿魯江、江界、西頭水、霊峰、義州などの発電所は工事中の
まま、終戦を迎えました。

 また、日本海側の興南という地にこの電力を利用
した東洋一の化学工場、日本窒素肥料興南工場が
つくられ、硫安、硫燐安などの化学肥料が大量に
生産されました。
 
興南は工業都市としで栄えました

私は今一度

朝鮮半島に残してきた日本の公的資産と個人資産

明らかにしてに日朝交渉の切り札にすべきで

                あると思う
     http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/50057719.html
 
」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」

 ★ヤフーブログ登録不可でございました。
 ★ほぼ転載ですから_びっくり!
愉しく膝を曲げて伸ばす〜20回くらい漕いでストッパーは不要〜
膝を座板の下へ折り曲げたまま止まるまで待ちましょぅ〜

  誰も居ない公園は朝の散歩の帰り道〜午前6時40分。



        右は拙宅、左は公園のぼり口。
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                       遠くにブランコが見えました。
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    絵の具パレットのよぅな「ふかふかじゅうたん」踏みしめて〜
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             ブランコへ着きました♪
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散歩の途中で摘んだ「野の芙蓉の花」と「野の山茶花の花」と〜

「さぁ♪はなばなしく夏秋冬一緒漕ぎましょ〜♪」

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         公園の生け垣は「つづじ」、まだ咲いて〼
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          「つつじ」の上段には「おはよぅの尾花」
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          拙宅では「お目覚めフェイス」がお出迎え
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  Morning GloryGloryの意は光輝.光栄だったのですね
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                           Good Morning

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