ShortStory

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ソバ屋のカオス

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 駅前の蕎麦屋でソバでも食おうと思った。
 二十五歳の僕が抱えている問題は三つ。まず、仕事がないってこと、次に、全財産が三万円を切ったってこと。最後は、愛する彼女が出て行ってしまったってこと。
 この三つの問題の優先順位は、今挙げた順と逆になる。つまり、彼女、金、仕事の順。したがって、僕はまず彼女の問題をどうにかしたい。―ああ、寂しい。なんとか彼女に帰ってきてもらいたい。早急に解決したいのだ。しかし、僕はここで人生の難しさを知る。
 彼女が僕の家から出て行ってしまったのは二ヶ月前。「あんたみたいにお金のない男、私は嫌いよ!」という捨て台詞を残して彼女は行ってしまった。
 それからさらに遡ること一ヶ月前、僕は仕事をクビになっていたのだ。もちろん蓄えなどなかった。
 僕は彼女に懇願した。考え直しておくれ、何とか戻ってきておくれ。しかし彼女は一向に取り合ってくれなかった。
 それもそのはずである。彼女が出て行ってしまった原因は明らかだ。僕に金がなかったから。金のないままで、彼女が戻ってきてくれるはずはない。
 金がないことには彼女は戻ってきてくれはしない。そうすると、戻ってもらうためには金を稼がなければならない。金を稼ぐためには仕事をしなければならない。仕事をするには、仕事を探さなければ。
 ・・・僕は叫びたい。人生とは何て因果なものか!
 三つの問題の最優先課題を解決するために、僕はまず、一番どうでもよい『仕事』という問題を処理しなければならないのだ!本末転倒も甚だしい。
 でもまあ、それも致し方ない。
 ということで、僕は一着しかないスーツを着込んで、一ヵ月程前から再就職活動に勤しんでいる。しかしこれが大変だ。缶詰の桃を味わいたければ、当座の問題は缶切りなのだけれども(んっ、どこかで聞いた台詞だ)、どうにも缶切りなどには興味は湧かぬ。桃はどんどん遠ざかる。
 僕はそんなもどかしさを抱えつつ、駅に向うしっかり缶切りを握りしめた大勢の人々の流れから一人逸れて、ふらっと駅前の蕎麦屋に入ったのだ。
 店内を一通り見回すと、客はまばらだったがテーブル席はだいたいが埋まっていた。僕は奥のカウンターに席をとろう思い、狭い店内を歩いて行った。そして、カウンターの手前に座っている男と派手にぶつかってしまった。
 お互い転びはしなかったが、彼はよろけて僕に抱きつく格好になってしまった。
「す、すいません。大丈夫ですか?」
 男が急に席を立とうとしたせいだったが、僕は一応謝った。
「ああ、いや、こっちこそすまんね」
 何かすえたようなにおいが鼻を突いた。見ると、男はひどい身なりだ。髪はぼさぼさに伸びて、脂で額や頬に張り付いている。顔色は浅黒く、それはとても日焼けのためとは思えない。それに汚らしい無精ひげだ。一応スーツらしきものは着ているが、シャツの襟足と袖口は茶色く汚れていた。紺色っぽいジャケットとスラックスは微妙に色が違っていた。明らかにべろべろに酔っ払っている。よく言えば六十年代アメリカの愛と平和を愛するロックスター、悪く言えばただの浮浪者だ。
 男はフラフラした足取りでそのままトイレに行った。
 僕は男と一番離れたカウンターの奥に座り、おしぼりを貰うと丹念に手を拭いた。変なのにぶつかってしまったなと思いつつも、気を取り直して「モリ一枚」と手を上げた。店主らしき人物が軽く頷いてこれに答えた。
 そばを食うなら無論、盛りそばである。温かい天ぷらそばなど、僕に言わせれば二流のラブコメディーだ。そばは風味とのどごし。これに限る。一口目はつゆを付けずに食し、風味を楽しむ。二口目以降は、三分の一ほどつゆに浸して一気に啜る。無暗に噛みしだかない。もちろんつゆに薬味などは入れぬ。そして全部を一分半で食い終える。これがそばの醍醐味だ。
 僕はもみ手をしながら、今かいまかとモリ一枚を待った。
 そしてついに盛りそば小宇宙が僕の眼前にその姿を現した頃、例の愛と平和のロックスターが席に戻った。
 彼は席にあった半分ほど残っている生ビールを一気に煽って「もう一杯だ」と店主に命じた。さっきは気付かなかったが、ジョッキを持ったその手は、彼に似合わずほっそりとしなやかで、爪もきれいに手入れされているようだった。・・・まあいいさ。
 僕は男から目をそらし、灰色に輝くモリそばを自分の魂に従って一気に平らげると、蕎麦湯をもらって一息ついた。それは駅前にしてはなかなか美味いそばだった。
 カウンターの上部に取り付けられたテレビからは、午後の天気予報が流れていて、やけに短いスカートをはいたお姉さんが、『明日は残念ながら雨の見込みです』と言っていた。僕は蕎麦湯を啜りながら無意識のうちに「雨かよ」と呟いていた。するとそれが聞こえたのか、向こう端のロックスターがおもむろに口を開いた。
「ふん、天気予報なんて、くだらねえ」
 僕はイヤな予感がして、チラッと男を見やった。
 案の定、虚ろな眼差しを僕に向けている。
「そうは思わんか、ニイちゃん」
 こういった人種とはあまり深く関わらないほうが賢明だ。僕は「はあ、まあ」とあやふやな返事を返し、伝票を取って席を立とうとした。
「まあ、ちょっと座って聞けや、せめてものお礼だ」
「なんですか、お礼って、お礼されるようなことはしてませんから」
「まあ、そう言わず。ニイちゃん、『カオス理論』て知ってるか?・・・知らんか。それでいくとな、明日の天気なんて予測できねえ。無理だ、って言ってんだよ。天気に限らず、未来のことなんて絶対わからねえ、と言ってんだよ。
 たしかにあの天気予報はすげえコンピューターかなんかで色んな計算してんだろうな。だけどな、どんなにすげえコンピューターだって、最初にデータを入れてやらんことには計算が出来ねえだろ。『今日は晴れで、気温が20℃でした』ってな。それを受けてスーパーコンピューターがカチャカチャ計算して『明日は雨です』って予想するわけだ。だけどな、今日はホントに晴れだったか?正確に気温20℃だったか?・・・実際はほんのちょっとだけ雲があった晴れで、気温は20.000000001℃だったかも知れん。だろ?じゃあ、今度はその数値をすげえコンピューターに入力してみよう。するとどうだ、すげえコンピューターはすげえ複雑な計算をして、『明日は晴れ』という結果を出す。・・・実際そうなんだよ。いいか、そんなもんなんだよ。最初のちょっとした数値の違いで、まったく別な予報が出ちまうんだ。そして、最初の正確な値なんてものは、誰にも測れやしねえんだよ。ホントはゼロがあと一つ多いかも知れん。そしたらまた違う予報が出るさ。予想すること事態が馬鹿げているんだよ。世の中のことなんて複雑すぎて誰にもわからねえ。これがカオス理論だ。
 ローレンツって科学者が言ってたな、『今日ここで蝶が羽ばたけば、一ヵ月後にブラジルで台風が起きる』ってな。いわゆる『バタフライエフェクト』ってやつよ。日本式に言えば、『風が吹けば桶屋が儲かる』だ。
 いいかニイちゃん、よく覚えとけ。どんなに注意して生きたって、全然注意しねえ人間の人生と大差ねえのさ。モノゴト、起きるときは起きるし起きねえときは起きねえ。確かなことなんてなにもねえんだぜ」
 そこまで言うと、男は残ったビールをまた一気に煽り、ポケットから千円札を何枚か取り出して、カウンターに叩きつけた。その手は男に似合わず、相変わらずきれいだった。
「ツリは取っとけ!」
 僕は半ば呆気にとられて、フラフラした足取りのまま出口に向かうその男を目で追っていた。
「ああ、でもな、一つだけ確かなことがある」
 出口の引き戸に手をかけて男が振り向いた。
「今日ここで、俺とニイちゃんが出会ったことによって、俺は確実にあと一週間は生き延びられる。それは確かなことだ。・・・果たして、ニイちゃんはどうかな」
 男は店を後にした。
 僕はしばらくの間出口の引き戸を眺めていた。なんだか変なやつに出会ってしまった。彼の言っていたことは、的を得ているようで的外れなような、何ともつかみどころのない話だ。せっかくうまいそばを食ったのに、なにかとても後味が悪い。
 景気づけにビールでも飲もうかと思ったが、全財産が三万円を切って仕事も彼女もない男はそう悠長にもしていられない。
 僕はコップの水を飲み干して、伝票を手に取って席を立った。レジは出入り口付近にあるようだ。
 それにしてもなにかいい仕事はないものか。楽で、金が良くて、かわいい子が・・・おっと、僕にはいとしの彼女が。ああ、どうか戻ってきて・・・ん?いつも内ポケットに、・・・逆か。ああ、今頃彼女は・・・あれっ、・・・ない!・・・ない!財布がない!ないぞ!・・・家を出るときは間違いなく持ってきた。いつも内ポケットに入れてるんだ。・・・ズボンのポケットにも入っていない。さっきまでは確かにあったのに。・・・どこにもない!
 ・・・・・・まさか!あの男!!
 僕はとっさに出入り口の引き戸を開けた。
 店の外は、相変わらず駅に向かう人と駅から降り立った人々で溢れ、それぞれがしっかりと缶切りを握りしめていた。
 まさに混沌とした世界。
 汚い格好できれいな手をした男の姿など、もう既になかった。あろうはずはなかった。
 振り返ると、ソバ屋の店主が鬼のような形相で僕を睨みつけていた。
 そんな店主を凝視したまま、僕の頭の中では、男の最後の言葉が空しくこだましていた。
『果たして、ニイちゃんはどうかな』
『果たして、ニイちゃんは、
『果たして・・・。ハタシテ・・・。


 
 おわり

閉じる コメント(54)

はじめまして、訪問有難う御座います、たけと申します。タイトルにつられてついつい・・・。こういう雰囲気の記事単純に好きです。最初、読み込むとタイトルとは内容が違うのかな?、と思いましたがキチンとラストが準備されていて、かなり手のこもった内容ですね。そしてちゃんと余韻を残すのは巧いなぁ、と更に思いました。良かったです。たけ

2006/5/17(水) 午前 1:25 藤堂豪

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こんばんわ、たけさん!じ、実は、はじめましてではないんです。以前、『空虚』という題名のちょっとした読み物にもコメントいただいておりまして。私のほうはご挨拶もしませんで、すいません。ありがとうございます。

2006/5/17(水) 午前 1:51 [ 塩野崎バード ]

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うっ・・・ごめんなさい。また来てます。それでもってまた他の記事もじっくり読ませて感想をコメさせて頂きます。どうかヨロシクデス。たけ

2006/5/17(水) 午後 11:40 藤堂豪

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たけさん、そんな!謝らんといてください!!ありがとうございます。じっくり読んでいただくと、色々とアラが見えてきてしまうと思うんで怖いですが、ありがとうございます。どうぞこちらこそよろしくお願いします。

2006/5/18(木) 午前 1:22 [ 塩野崎バード ]

履歴からきました!なんとなく読んでいたらドンドンハマっていっちゃって、ほんと面白いです!!これからの青年のゆくえは・・・?!スリの男、なかなか知能犯ですね。でも言ってることが哲学っぽくて、フンフン・・・と感心しちゃいました☆

2006/5/19(金) 午前 8:29 みか

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Mikaさん、こんばんわ!ありがとうございます。楽しんでいただけて、とても嬉しいです!また読んでください!

2006/5/19(金) 午後 7:11 [ 塩野崎バード ]

こんな素敵なオジサンに憧れてしまいます。逢いたくはないですが(笑)

2006/5/22(月) 午前 2:26 あっしー

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goodvibesさん、こんばんわ!ありがとうございます。ううむ、逢わないほうが良いですねぇ。やむを得ず逢ってしまったときは、現金を靴下の中に!

2006/5/23(火) 午前 0:54 [ 塩野崎バード ]

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今晩は!!ボクは趣味で手品をやるんですが、詐欺師とかスリとかって人を騙して生きていますよね・・・・・最近思ったんですが、手品にもまた通じるものがありますよ。結局はタネを仕込んで、いかにもという演技で見せるんですよ。ただ違いがあるのは、手品は喜んでお金を頂く。詐欺師やスリは騙してくすねる。しかしこの違いは、終わってから気付くもの。 面白いですよね・・・・・似ていても全く違うんですよ。

2006/5/27(土) 午前 1:01 [ Nany-Sore Nande? ]

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toy sushiさん、こんばんわ!ううむ、手品師と詐欺師についての深い考察。そのとおりですねぇ。素晴らしい。ときに、あれどうやるんですか?指を鳴らすとサインを書いたトランプが上に上がってくるやつ。あれは本当に上がってくるんですよね!

2006/5/27(土) 午後 8:00 [ 塩野崎バード ]

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初めまして、ご訪問ありがとうございました。因果律>無駄の無い出来事は存在しませんね、とても辛いことでも意味があるのかもしれません。Butterfly Effect >同名の映画が好きです。

2006/5/29(月) 午後 8:56 [ sid**ail* ]

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sadhtailsさん、こんばんわ!読んでいただきありがとうございます!映画バタフライエフェクト。あれは前半をもう少しタイトにすればより一層面白かったのでは、と思うのですが。ううむ。

2006/5/30(火) 午前 1:20 [ 塩野崎バード ]

初めまして、今晩和。足跡が残っていたので追跡しちゃいました♪ 初めてこういった身近な方が作った小説を読ませて頂いたのですが、同じ書き手としてとても惹かれました★

2006/6/9(金) 午前 1:21 [ 黒猫 ]

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こんばんわ、black cat with uさん!ありがとうございます!小説を目指して日々頭をかきむしっています!ぜひまた読んでいただきたいと希いますぅ!!

2006/6/10(土) 午前 0:18 [ 塩野崎バード ]

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履歴からお邪魔しました。きっとスリの男にもスリになる前の微妙な時期があったんでしょうね。最後わたしにも、店の外のよそよそしい雑踏の賑わいが聞こえてきたような気がしました。またきます。

2006/6/14(水) 午後 11:33 [ dragonfly19019 ]

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doragonflyさん、こんばんわ!ありがとうございます。人は皆、皿回しの如くに微妙で不安定な過去を持つものなのでしょうねぇ。そしてそこにつけ込むのがあの胡散臭い占い師連中ですねぇ。ぜひまたいらしてください!

2006/6/15(木) 午前 1:07 [ 塩野崎バード ]

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これは素晴らしいです。「ソバ屋のカオス」というタイトルも気が利いてますね。「泣きっ面に蜂」パターンのオチですね。ブラックユーモアが効いてます。

2006/8/21(月) 午前 1:43 och**obor*maru

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NANAMIさん、ありがとうございます!タイトルがふと浮かんで、それから色々考えて書いてみました。もっとうまく書ければと思うのですが・・・。ありがとうございます。

2006/8/23(水) 午前 1:08 [ 塩野崎バード ]

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あっと思わせるエンディングに驚きです。二回読みました^^

2006/12/20(水) 午後 9:23 オダギリ&チータ

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オダギリさん、こんばんわ!読んでいただきましてありがとうございます!おお、二回も読んでいただけたなんて感激です!!他のも、あっと思っていただけるかどうかわかりませんが、すぐ読み終わってしまう読み物です。ヒマつぶしの最終手段にでもどうでしょうか。ありがとうございます。

2006/12/21(木) 午前 1:38 [ 塩野崎バード ]


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