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奇跡の夕暮れ

イメージ 1

 浅いうたた寝から目覚めると、低いテーブルの上に投げ出したままの両足が少しこわばっていた。僕はソファーからゆっくりと起き上がり、座ったまま少しの間まどろんだ。
 壁の時計はちょうど六時を指している。一瞬、明け方だろうかと心配したが、すぐに夕方だと気が付いた。カセットテープで古い音楽を聞いていたはずだったが、一通り再生を終えたらしく、今はデッキから低い唸るような電子音だけが静かに聞こえていた。
 もう冷め切ってわずかに残っていたコーヒーを飲み干し、ゆっくりと立ち上がってカップを流しに置いた。台所の窓から外を見ると、道路を挟んだ向こうの田んぼがオレンジ色に輝いていた。
 僕は吸い寄せられるように、勝手口から表に出て行った。
 裸足のまま前の庭のほうに歩いていくと、足の裏に感じる土や砂利は、昨日まで降り続いた雨の気配を微かに残していた。外は風が吹いていた。
 とても穏やかに、風が吹いていた。
 僕は五月の夕方の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
 窓ガラス越しに見えた田んぼは、実際には思ったほどの色をもっていなかった。田んぼの水よりも、昨日までの雨できれいに洗われたような、この空気自体が、五月の夕日を受けて輝いているようだ。
 薄いオレンジ色に澄んだ空気の中、僕は何をするでもなく、庭を歩き回り、近くや遠くを見ていた。空気はあくまでも澄んで、舗装された道路沿いにずっと続く電信柱の向こうの方まで、はっきりと見渡すことができた。
 庭先に植えられた芽吹いたばかりの百日紅の枝を、オレンジ色の風が通り過ぎ、ほんの少しその色を吹きつけながら新芽の枝を揺らした。枝は音もなく、―そう、まったく音もなく揺れていた。
 僕は百日紅の踊るような枝を見ながら、少しの間、音を探してみた。
 まったくの無音だった。
 遠くを走る軽トラックの音、歩くたびに擦れ合う小さな砂利の音、いずれも、僕の耳にはまったく届いていなかった。自分が立てる呼吸の音さえ聞こえてはこなかった。
 僕は何度も辺りを見渡し、今までにこんな景色を感じたことがあるだろうかと思い返していた。
 おそらく、今まで一度もないだろうという気がした。
 僕はまるで、この一瞬を切り取られた、なにかとても上質な水彩画の中にでもいるような気分だった。非現実的に、限りなく奥行きのある透明水彩画。
 しかし、それは誰にも描くことのできない絵だ。この色や空気や風は、どんな絵の具だって到底表すことはできない。絵心のない僕にはおろか、どんな画家がどんな紙や筆を使ったって絶対に無理だろう。写真に撮ったって、はたしてこの色が残せるかどうか、僕には疑問だった。
 それは決定的な夕暮れだった。僕の古いわだかまりや、昨日―いや、さっきまで感じていた胸の奥のしこりを、一切洗い流してくれるような夕暮れだった。

 どこかの犬が庭の隅に残していった糞を、置いてあった園芸用の小さいスコップですくって反対側の田んぼに捨てた。顔を上げて西の空に目をやると、もうすぐ沈む太陽が遠くの山の上にぼんやりと浮かんでいた。沈み際も、晩秋のそれのようにどぎつく空や雲を染めることもなく、薄いオレンジを保ったままやわらかく大気全体を包み込んでいた。
 僕は夕日が沈むまでの二三分の間、じっと山の方を向いていた。
 やがて太陽が完全に沈むと、辺りに音が戻ってきた。飛びながらさえずるスズメだかツバメだかのさえずり、遠くの高速道路を走る、たぶん大型トラックの響き。田植えに追われる農家の色々な機械の音。日常の音が徐々に僕の耳に戻ってくる。風も少しずつ強まっているようだ。太陽が沈んだ今、空気もオレンジ色からすぐに灰色に変わっていくだろう。
 僕は足の裏を洗うため、軒下に取り付けられた水道の蛇口を勢いよく開けた。
 それは本当に奇跡の夕暮れだったのかもしれない。例えば皆既日食のような、例えばなんとか彗星の大接近のような、何十年、何百年に一度の出来事だったのかもしれない。実際、もうずっと抱えていた頭痛と胸の痛みが、太陽が沈みきった今も不思議とまったく感じられなかった。
 きっと奇跡の夕暮れだったんだ。
 そんなふうに思いながら僕は、足の裏についた土を冷たい水で洗い流していた。
 突然、家の中で電話が鳴る音が聞こえてきた。それは、戻ってきた音の中で一際大きく感じられ、僕の頭の中に直接響いてきた。
 でも、僕は驚いたりはしなかった。それが誰からの電話で、僕になにを言おうとしているのか、今の僕にははっきりとわかっていたからだ。さっき犬の糞を片付けているときに、もうすでにこの電話が掛かってくることを僕は知っていたのだ。
 きれいに足の裏を洗い流して、ゆっくりと家の中に戻っていった。
 冷蔵庫のわきの壁に掛けられた電話が、一定の間隔をおいて今は静かに鳴り続けている。
 ズボンで手を拭いた後、僕はそっと受話器を取って、電話の相手に言った。

「ずっと待ってたんだ。・・・この電話を」

 一瞬息を呑むような気配が感じられ、その後、耳に押し付けた受話器から、相手の声が小さく聞こえてきた。

『・・・うん、・・・ごめんね』

 受話器を握ったまま反射的に堅く目を閉じると、さっきオレンジ色に見えた田んぼから、二三匹のかえるが元気に鳴く声が耳に届いてきた。

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houshyoさん!こんばんわ!お怪我の具合はどうですか?おお!スタインベックさんですか!ありがとうございます。彼の名を聞くとヘンリーフォンダが頭をよぎります。くたびれたオーバーオールがよく似合いますねぇ。

2006/5/17(水) 午後 9:00 [ 塩野崎バード ]

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こんばんわ!tenpoさん!ありがとうございます!18歳。ううむ、実は僕も18歳で永遠のハックルベリー・フィンでいると誓ったので、それからずっと18歳です。いわゆる、タメだね(笑)!夕日はいいよねぇ。なんかあの弱い感じが。ホントずっと見ちまいます。また読んでください!!

2006/5/17(水) 午後 9:07 [ 塩野崎バード ]

おもしろい!コレを元にした長編を読みたいくらいです!

2006/5/18(木) 午前 8:45 lov*_*ove_m*ch*da*ou

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こんばんわ、love kouさん!ありがとうございます。感激です!長編ですよねぇ、長編。ううむ、いつの日か、いつの日かぁ!!

2006/5/19(金) 午前 0:42 [ 塩野崎バード ]

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この夕日は、外界にあるのではなく、心象風景としてあるのでは?と思いました。夕日をみたいなぁと思いました。

2006/5/20(土) 午後 7:25 [ samayoerusisya ]

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samayoerusisyaさん、こんばんわ!ありがとうございます!そうかもしれません。そんな風景をできるだけ表面的に書こうとしました。ぼくも夕日が見たいですねぇ。だいたいその時間はお昼寝をしておりますぅ。また読んでください!

2006/5/21(日) 午前 1:21 [ 塩野崎バード ]

履歴から来ました。私の中では、夕日は、物悲しい、センチメンタルなイメージがありますが、シオさんの作品の夕日には、力強さを感じますわ。落日により何かが吹っ切れたような・・。

2006/5/21(日) 午後 11:54 ヨねこ

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honnochyottoneさん、こんばんわ!ううむ、自分では気付きませんでしたが、そう思います。夕日を浴びて、よーし頑張るぞ!と思うともう夕方で、一日が終わっています・・・。

2006/5/22(月) 午前 0:30 [ 塩野崎バード ]

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こんばんは。何でかわかりませんが自分は涙が出て止まらなくなりました。目の前に見えていることと、心の中で進んでいることが違っていて悲しくなることが多いんです。心の中で待ってる言葉があるんですけど、その言葉は自分には一向に来なくてさびしいんです。そこに触れられた気がして堰が切れてしまったのかもしれません。

2006/6/4(日) 午後 6:24 [ - ]

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こんばんわ、SEVENさん!自分が書いたものが、どなたかの心に触れて、何かを思っていただく。こんな素晴らしいことはありません。私にとってはまさに奇跡です。ありがとうございます。書いていて本当に良かったです。

2006/6/5(月) 午前 1:45 [ 塩野崎バード ]

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空気感のあるお話しですね〜最近伝える言葉って難しいな〜と感じていたところでしたので、うらやましいな〜と、思ってしまいました。^^

2006/6/7(水) 午後 1:43 pok*p*ko*7

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ぽこぴこさん、ありがとうございます!言葉っていうのはホント難しいっす!何回も書いて何回も消して、やっと書いております(笑)。もっとうまく書ければいいのですが。

2006/6/8(木) 午前 0:35 [ 塩野崎バード ]

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arigatou--arigatou有難う

2006/7/19(水) 午後 3:00 [ eij**2004*p ]

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iie.kochirakoso.arigatougozaimasu--有難う御座います。ありがとうございますぅ!!

2006/7/19(水) 午後 7:54 [ 塩野崎バード ]

こんばんは。足跡から来ました。」写真に惹かれて、これを一番に読みました。また、おじゃましますね。お暇なときに塩野崎さんも、お越し下さい。

2006/8/16(水) 午前 2:31 ほのか

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ほのかさん、こんばんわ!コメントをいただきありがとうございます。私のほうはご挨拶もしませんですいません。またぜひ伺います。よろしくお願いいたします。

2006/8/16(水) 午後 8:28 [ 塩野崎バード ]

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履歴からきました。田舎暮らしにあこがれます。草の匂い、太陽の匂い、大地の匂いに……。

2006/8/17(木) 午前 1:30 bak*a*ttae

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TAEKOさん、こんばんわ!読んでいただきありがとうございます!僕は田舎産まれの田舎育ちっす。都会の生活に憧れた時期もありましたが、24時間眠らないと聞いて、僕には無理だなぁと思いました。またぜひ読んでください!

2006/8/18(金) 午前 1:47 [ 塩野崎バード ]

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大変感じ入りました。ちょっとずつ現実に戻ってゆく、繊細な感覚が素晴らしい。音と色を、大変うまく使っているように思います。

2006/8/22(火) 午前 1:17 och**obor*maru

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NANAMIさん!どうも色々読んでいただきありがとうございます!!これは恥ずかしながら自分でもほんのちょっとだけ、良いかな、と思っております。ほんのちょっとだけですけど。ハハハ。また頑張って書きますのでぜひ読んでくださいぃ!

2006/8/23(水) 午前 1:09 [ 塩野崎バード ]


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