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製氷皿からはじけ飛んだ氷が足元の床に落ちた。 フローリングの床を50センチほど滑った氷をしばらく見つめ、僕は荷作りをしようと決めた。 そうだ、氷が溶けるまでに荷作りをしよう。 納戸から大きなナイロン地のバックを引っ張り出して、そこに必要なものだけをつめ込もう。 きちんと考えてより分ければ、二人分の荷物だって大丈夫だ。 きっと大丈夫だ。 もうすぐ春になるから、ユカリのためにあの赤いコートを持っていこう。 いや、あいつは服をたくさん持って行きたがるだろうな。ワンピースもスカートもたくさん持って行きたがるだろうから、僕の荷物はできるだけ少なくしよう。 バッグの下のほうにシャツとコーヒーカップを押し込んで、レコードはデュアン・オールマンのアンソロジーとフィルモアコンサートの2枚組みだけにしよう。レナードスキナードとスティーヴィー・レイヴォーンは、何曲かをカセットテープに吹き込んで、それを持って行けばいい。 たくさんの写真や住所録なんか必要ない。時計もアルミの缶もひとつもいらない。 本は・・・、そうだな。本もいらない。いつもカバンに入れてあるモームのペーパーバックも本棚に戻しておこう。 その代わり、映画のポスターや古いノートとか、ユカリの大事なものはなるべく持たせてやりたい。 荷物をつめたら、鍵はいつもの灰皿に置きっぱなしにして、二人とも歩きやすい靴を履いて、駅までは歩いていこう。そして最終便に乗ろう。間に合わなかったら座って朝の始発を待ってもいい。 そうすると、やっぱり毛布は必要だ。駅の待合室は夜はひどく冷えるだろうから、バッグの上に丸めた毛布を一枚くくりつけていこう。 車だって必要ないし、明日や来週の予定だって気にしなくていい。約束なんかとは無縁だ。笑いたくないときは、笑わなくてもいいんだ。 遠くに行っていろんな話をしよう。僕がしゃべってユカリが聞いて、ユカリがしゃべったら僕が相づちを打つんだ。 たくさんの木を見て、いろんな空を眺めよう。葉の落ちた木、雲のない空。雨の降る灰色の空、広い枝の木々・・・・・・。 やがて、風呂から上がったユカリが身体にバスタオルを巻いて台所に歩いてきた。 「あー、いいお湯だった」 首を傾けて、長い髪をタオルで乾かしている。 「今日も忙しかったよ」 「そうか」 「ほんっとに、なんであんなに混むのかしら。入り口のほうまで並んでるのよ。私が客だったら絶対並ばないわ」 僕は大きなコップに氷をたくさん入れてよく冷やしたレモネードを彼女に渡してやった。 「ありがとう」 そう言って受け取ると、ユカリは半分ほど一気に飲んで一息ついた。 「あー、おいしい。で、あなたは今日はどうだったの?相変わらず?」 「相変わらず」 「会議があって、クレームがあって?」 「そう。会議があって、クレームがあって」 ユカリは残りのレモネードを飲み干し、流しにコップを置いた。 「あ、そうだ。そういえばさ、また厚生年金上がるってね」 「そう?」 「今日店長に言われたよ。あなたの会社ではきいてないの?また何パーセントか上がるんだって。いやになっちゃうわよね、税金税金って。わっ、なんでこの床濡れてるの?」 「・・・さっき、氷が落ちたんだよ」 「なんですぐ拾わないのよ?すぐ拾えば拭かなくて済むのに」 ユカリは近くにあった布きんで床をきれいに拭いた。 「よし、じゃあ、髪乾かして顔やってくるね。そしたら夕飯にしよう。今日はなに?」 「チキンのトマト煮」 「また?出現率高いわよね。あなたが当番のときってほとんどチキンのトマト煮じゃない?」 「そんなことないよ」 「まあ、おいしいからいいんだけど。あー、疲れた。今日も一日終わったわよ」 そう言って、右手で左の肩を叩きながら彼女は寝室のほうに歩いていった。 僕は床の氷が落ちたあたりをしばらくじっと見つめていた。
そこにはもう、氷も落ちていなく、水で濡れてもいなかった。 ガスコンロに火をつけ、フライパンの料理を温めなおした。 木のへらでトマトソースをかき混ぜながら、僕は冷蔵庫の前の床を見て、ナイロンバッグに詰められるはずの荷物のことを考えていた。 またいつか、氷は床に落ちるだろう。手に持った製氷皿からひとつはじけ飛んで床に落ち、50センチ転がって、そしていつか溶けるだろう。 |
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ワタシも疲れてくるとよくこゆこと考えます。ヨーロッパの街並みを彷徨うコトが多いカナ(笑)予定は未定で、魅力的かつ不安的。ココロもカラダも不安定でウロウロ彷徨います。ふと気付くとやっぱりそこは工房の作業場で机の上には作りかけの作品が散らばってコーヒーが冷たくなってます。
2007/2/11(日) 午前 11:23 [ - ]
うーん、上手い。上手いっす。夫婦って、何だか不思議な関係ですよね。一番近い他人というか・・・理解し合ってるようで全くしてなかったりとか・・・詩的な情景とリアルな言葉、淡々と流れる短い時間。不思議で魅力的な作品です。ポチします。^^
2007/2/11(日) 午前 11:46 [ * ]
ショートストーリー、良かったです。私は、クロールでロングやっている時、無心&何故泳ぐのか?…と思う事が多いです。寝付く時、気になっている事を考えながら眠りますよね。次ぐ日、ベッドをなおす時、気になる続きをボぉ〜と。
2007/2/11(日) 午前 11:55 [ Green ]
相変わらず上手いですね。ちょっとどうコメントしていいかわかりません(w)単純に、負けた!!・・・って感じでしょうか。 むむむ、shionozakibirdさんの作品を読むのは勇気がいります。 下手すると、自分が何も書けなくなりそうなので(^-^;
2007/2/11(日) 午後 6:24
このショートショートめちゃいいです☆彼の優しさを感じます♪ぽち!ですね☆
2007/2/11(日) 午後 9:58 [ ささ鳴き娘 ]
ん〜〜〜♪いいなーぁ^^ 現実と希望的妄想がみごとにマッチしてます♪こういうの大好きです(^^)♪
2007/2/12(月) 午前 0:20
むらさき小夜さん、読んでいただきありがとうございます。ヨーロッパに飛んでいくのもいいですね♪僕はよく北海道の丘の上からダンボールにのって滑り降りてます(笑)。そうそう気がつくと現実です。流しに洗い物が溜まってます。
2007/2/12(月) 午前 1:36 [ 塩野崎バード ]
集さん、読んでいただきありがとうございます。ホント、夫婦というのは不思議な関係だと思います。おお、そんなふうに書きたかったので、僕はとてもうれしいです!おおお!上手いと言ってもらえた。身に余るお言葉、誠にありがとうございます。うおお!傑作まで!!
2007/2/12(月) 午前 1:38 [ 塩野崎バード ]
Greenchanさん、読んでいただきありがとうございます。泳いでいるときは僕もいろんなことを考えます。考えすぎて折返しを忘れ、プールの側面に激突したこともあります(笑)。おお!お気に入りにご登録ありがとうございます!
2007/2/12(月) 午前 1:39 [ 塩野崎バード ]
houshyoさん、読んでいただきありがとうございます。いやいやいや、なにをおっしゃいますか!!僕のを読むのに勇気が必要だとしたら、僕がhoushyoさんの作品を読むときには死を覚悟しなければなりません。そのくらい格が違います。謙遜でも何でもありません。
2007/2/12(月) 午前 1:40 [ 塩野崎バード ]
ささ鳴き娘さん、読んでいただきありがとうございます。傑作ボタンありがとうございます!この男のモデルはなにを隠そう、僕です。ウ、ウソです。僕はチキンのトマト煮なんて作れません♪どんな味がするかもわかりません(笑)。
2007/2/12(月) 午前 1:41 [ 塩野崎バード ]
taraizmさん、読んでいただきありがとうございます!希望と現実の隔たりはとても大きいです。希望はブラット・ピットみたいにかっこよくなりたいのですが、現実は、ぶらっと・一人です。・・・これはつまらないですね(笑)。
2007/2/12(月) 午前 1:42 [ 塩野崎バード ]
空想で、彼女と2人で旅に出る準備をしてたんですね。彼がもう優しすぎ。風呂上りの彼女の言葉もフツーっぽくて、それが逆にバスタオル姿を浮き上がらせているような気がします。(そこに気持ちが行くのはオイラだけ?) 氷が溶ける数分間だけの小旅行(の準備)ですね。
2007/2/12(月) 午後 9:42
たるるさん、読んでいただきありがとうございます。バスタオルのとこは、書いていて自分でも少しドキドキしました(笑)。僕の場合は一人で瞬間的に小旅行に行くのはお茶の子さいさいなのですが、複数人になるとそう簡単にはいかないですよねぇ。ありがとうございました!
2007/2/13(火) 午前 1:04 [ 塩野崎バード ]
誰か私を連れ去ってください・・・今度氷が落ちた時にやってみよう・・・出来たら出かけよう・・・
2007/2/13(火) 午後 0:23
花veさん、読んでいただきましてありがとうございます。出かけましょう、いますぐに。氷が落ちるのなんて待たずに、今すぐ出かけましょう。実を言うと、僕んちの冷蔵庫は「勝手に氷」式のものなので、製氷皿がないんです。ですから、めったに氷がはじけ飛びません。だから、今すぐ出かけましょう(笑)!
2007/2/14(水) 午前 1:26 [ 塩野崎バード ]
久しぶりに訪れて読ませていただきました。二人はやはり他人で相手の気持ちはやはりわからない・・なんて感じですかね。私も相手の気持ちがわからない時があります。でも一緒にいて理解しようという気持ちが大事なのかな・・なんて書き込みながら自分に言い聞かせています(笑)。また、よらせていただきます。
2007/2/15(木) 午後 9:39 [ かすかず ]
metalkadoさん、読んでいただきありがとうございます。そうですよね、なんとかわかろうとする気持ちが大事なのだと思います。自分のことだけじゃなく、相手のことを考える。それが大事なのですよね。ありがとうございます。metalkadoさんのおかげで、僕も再確認できました。ぜひまたお寄りください!
2007/2/16(金) 午前 1:48 [ 塩野崎バード ]
家のなかの描写と二人の会話の素晴らしさ!なんだか自分が「僕」になったような気分でした。昔聴いたデュアン・オールマンのアンソロジーとフィルモアコンサートも思い出しました(笑)
2007/2/18(日) 午後 7:32
オダギリさん、読んでいただきありがとうございます。素晴らしいだなんて言っていただけると、僕はもの凄く嬉しくて冷蔵庫の氷をひとつ残らずばらまいてしまいそうです(笑)!おお!オダギリサンも!僕は音楽のことはよくわからないのですが、あのアンソロジーの『The Road Of Love』のデュアンのソロはヤバイですよね!足が震えるくらい良いでと思います!
2007/2/20(火) 午前 1:25 [ 塩野崎バード ]