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待ち合わせの時間は七時半だった。 十分ほど遅れて、彼女は店のドアを開けた。 奥のテーブル席に座った僕を見つけて、彼女は軽く手を上げた。 「ごめん、遅れた」 「いいんだよ。すこし痩せたか?」 社交辞令とかじゃなく、本当にそう思ったんだ。 「うん、ちょっとね」 「久しぶりだね」 「そうね、半年ぶりくらいかな?」 「いや、八ヶ月ってとこだよ」 「そんなになるんだね・・・」 彼女はメニューを開いてそれを眺めた。僕とは意識的に目を合わせないようにしている感じを受けた。 そして僕は、瞬間的にこの八ヶ月のことを考えた。 彼女は少し痩せ、髪が肩の下まで伸びていた。 八ヶ月。 いろんなことが変わるには、もちろん十分過ぎる時間だ。 「なに食べようかな、もう決まった?」 「俺は五目釜飯と具沢山茶碗蒸し」 この店で彼女が注文するのはだいたい二種類だ。僕がそれを知っているということを、彼女は忘れているようだった。 三日月御膳か海鮮どんぶり。三日月御膳はちらし寿司みたいなのにうどんがついてくるやつだ。今日はどちらにするのだろうか。 「じゃ、私は三日月御膳にしよう。決まり」 この時間にしては、店はすいていた。通りがかった店員を呼び止めて、二人分の料理を注文した。 「飲み物はどうする?」 「えーと、私はセブンアップ」 「じゃあ、セブンアップとコーヒーと氷抜きのコーラ。それとホワイトアスパラのサラダもね。すっぱいドレッシングをたくさんかけてほしいんだけど」 「はい、わかりました。コーヒーは?」 「コーヒーもコーラも一緒に。すぐ持ってきて」 「はい。かしこまりました」 メニューを店員に渡すと、彼女は軽いため息をついて少し僕のほうに目を向けた。 「ごめんね、急に電話して。仕事忙しいんでしょう?」 「いや全然。最近ロクなもん食ってなかったからちょうどよかったよ」 彼女が僕に電話をよこしたのが五日前だった。二十分くらい話をして、今日の食事の約束をしたのだ。そのときの彼女のほんのちょっと沈んだ声の調子をのぞいては、僕ははっきりいって嬉しかった。 「ここの料理おいしいもんね」 「えっ?ああそうだね。俺は君と来て以来だよ」 「そういえば私もかも。えっ、それが八ヶ月前になるわけ?」 「そうだね」 「なんだか早いね。しかも私、来月で二十五だよ。ハァ、いやになっちゃう」 「年のこと言うなよ。俺なんて三十三だぜ。完全に小オッサンだよな」 「でも若いよ。うん、岸本さんは若い」 僕のことを、名字で『岸本さん』と呼んだ。 「お店の仕事はどうなの?」 「相変わらずかな。なかなか連休がとれなくていやなの」 席に座ってからずっと、彼女は俯きがちだった。 「日曜日は休みなの?」 「そう。日曜日ともう一日休みとるんだけど、それ以外はなかなか休みづらいの、雰囲気的に。旅行とか行きたいんだけどさ。・・・かといって辞められないし。なんだかつまんないよ」 「休んじゃえよ、パーッとさ」 彼女はぎこちなく微笑んで見せてから、カウンター席のほうに目を向けた。少し疲れているようにも見えた。 少しして、店員がコーラとセブンアップを運んできた。 彼女は飲み物を手前に引き寄せ、ストローを差して少しだけ口をつけた。 僕はコーヒーがくるのを待った。 「そういえばさ、この前、沖縄に行ってきたよ。会社の旅行だったんだけどさ、ホテルがえらく良かったぜ」 「へぇ、そうなんだ。私も何年か前に家族で行ったよ。なんていうホテルだったの?」 「なんとか岬のなんとかロイヤルホテルとかいったな」 「なんとかばっかりじゃわかんないよ」 「ハハ、そうだよな。部屋がすごく広くてさ。でっかい窓から海が見えるんだよ。ロビーなんかもドーンと広くて吹き抜けになっていて、気持ちよかったぜ。他の連中は海とか入ってたけど、俺はロビーのソファにずっと座ってたんだ。ホテルってあるだろ。1階のロビーにさ、タダのソファが」 「タダのソファってどんなの?」 「あるじゃん、フロントのそばとかに。無料のソファだよ。低いテーブルとかも一緒に置いてあって、いつまででも座ってていいソファ」 「それをタダのソファっていうんだ?」 「そう。あれが好きでね。あそこに座ってホテルマンが働いているのとか見てるのが好きなんだよねぇ」 「海には入らなかったの?」 「入らなかったよ。海は入るより見るもんだ。海よりホテルのほうが面白いぜ。ソファだってタダだしな」 「変わってるね、相変わらず」。彼女は下を向いて飲み物をストローで軽くかき混ぜた。少しは笑ったろうか。 「今度やってみなよ。ぜったい楽しいぜ。これぞ旅行って感じだよ。・・・あれっ、コーヒー遅いな。・・・ねえちょっと!コーヒーを早く持ってきて」 隣のテーブルを片付けていた店員に声を掛けると、店員は怪訝そうな顔で奥に引っ込んで行った。 「いつもコーヒーとコーラを一緒に飲むよね。おいしいの?」 「ああ、バッチリおいしいよ。飯の前はコーラとコーヒーだよ、ぜったい。飲んでみればいいのに。・・・あ、コーヒー嫌いだっけ?」 「うん、でも最近飲めるようになってきた。しかもブラックだよ。私も大人になってきたのよ」 「ほほう、そうかい。うん、コーヒーはなにも入れないほうがうまい。コーラと飲むともっとうまい」 「コーラはいらないかな」 最初に僕らの注文をとった店員が、彼女の料理と僕の料理と、それからコーヒーを一緒に持ってきた。店員は少し申し訳なさそうな顔をしていた。 「おい君。僕は料理を食べる前にコーラとコーヒーを飲みたかったのだよ。食事をするときはだいたいそうしているのさ。料理ができる前にコーラとコーヒーで一息つく。それが僕の楽しみなのだよ。それだから、注文のときに『すぐ持ってきて』と言ったのだ。僕の要望に対して君も『はい』と言って了解したはずだよね。なるほどコーラは驚くほどすぐに持ってきてくれた。しかしコーヒーが一向に運ばれてこない。たまらなくなって催促してみると、あろうことか僕らの注文をとった君が、―君がだよ、料理とコーヒーを一緒に持ってきた。僕ははっきり言ってがっかりだぞ。そんなんでは僕の楽しみが台無しじゃないか。仮りに今からコーラとコーヒーを楽しんでも、肝心の料理が冷めてしまうではないか。そこんとこ、どうなんだね君?」 これを僕は大げさにわざとらしく、ジェスチャーを交えて店員に訴えた。それを見ていた彼女は、クククッと笑いを殺し、店員に《気にしないで、この人少し頭がおかしいから》というように合図を送った。 はじめは動揺していた店員も、彼女が笑っているのを見て安心したらしく、「すいません」と言って伝票を置いていった。 「まったく、けしからんよね」 「また冗談言って。あの店員さん、顔が引きつってたよ」 彼女の笑顔はさっきよりもだいぶ自然になった。 「食事の前のコーラとコーヒーがうまいんだよ。みんなわかってないぜ。さ、食べようか」 ――続く
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