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 電話を切ったあと、僕は風呂場に行って本を読みながら浴槽にお湯がたまるのを眺めることにした。
 理由ははっきりしている。風呂場に行って本を読みながら浴槽にお湯がたまるのを眺めることくらいしか、することがなかったからだ。
 休日の午後3時だった。
 お湯の温度をいい具合に調節して蛇口をひねり、僕は浴槽のへりに腰掛けて本を開いた。

 じゃばじゃばと音を立てて、浴槽の底にお湯が落ちてゆく。

 綿矢りさの本を読むときに僕が考えることは、もちろん綿矢りさのことだ。
 彼女がかなりの美人だということを僕は知っている。ずっとまえに夜中までやっている街の電器屋に電池を買いに行ったとき、そこのテレビに映っているのを見たのだから間違いない。
 喫茶店風に整えられたスタジオの中で、白髪のキャスターから新しい本のことについていろいろな質問をされた綿矢りさは、軽い微笑みを交え、首を傾けながらそれに答えていた。白髪のキャスターは彼女が美人であることについては一切触れなかった。自分が美人だと言われて綿矢りさがどういう反応を示すか、僕はとても興味をもった。でも白髪のキャスターは最後までそのことを彼女に知らせなかった。もしかすると、彼は綿矢りさが美人だと言うことに気づいていなかったのかもしれない。彼女の新しい本のことばかりに気をとられていたのだろう。僕としては非常にがっかりだった。
 僕は『蹴りたい背中』という本を読みながら、綿矢りさの髪の毛のことやそれに包まれた耳のこと、それから肌のことなんかを考える。そのほかのことも考える。・・・それこそ、いろんなことを考える。そしていつも、変な気分になる。

 じゃばじゃばと音を立てながら、お湯が浴槽にたまってゆく。

 さっきの電話は青山ミキオからだった。
「3時ごろそっちに行っていいか?」とミキオは電話で言った。
「なぜだ」
「女房が3時から美容室に行くんでな、そのあいだ早紀を見てなきゃならないんだ。美容室がおまえのアパートの近くなんだよ」
 ミキオは自分の奥さんを女房と言った。『女房』だ。
 早紀というのはミキオとその『女房』の子供で、もうすぐ1才になる女だ。
「それはどうかな」
「なにか予定があるのか?おまえが」
「ああ」
「・・・そうか」
 僕はそのとき、することもないから3時になったら風呂場に行って本を読みながら浴槽にお湯がたまるのを眺めることにしようと決めていたのだ。もっと言うと、3時になったら風呂場に行って浴槽にお湯がたまるのを眺めながら綿矢りさのことを考えて変な気分になろうと、もうすでに決めてしまっていたのだ。
 電話があと30分早かったら、僕は当然ミキオを僕のアパートに招いていただろう。彼はついていなかったのだ。

 お湯はじゃばじゃばと音を立てながら浴槽にたまり、そこから白い湯気が立ち始めてきた。

 ミキオとは15才からの付き合いだ。ヤツは宅配便の会社でドライバーの仕事についていて、2年前に結婚している。仕事があって妻子があって、金がない。僕はといえば、湯をためるべき浴槽があり綿矢りさが美人だということを知っていて、そして金がない。
 金がないのはむかしから変わらない。スーパーのパン売り場でパンを万引きして食ったこともある。23のときだ。
 金があったら浴槽に湯がたまるのなんかわざわざ眺めることはしないのかもしれない。

 じゃばじゃばと音を立てながら、お湯は浴槽の下のほうにたまっていた。

 そういえば、綿矢りさにインタビューをしていた白髪のキャスターは、自信に満ち満ちた顔つきで妙にわかったようなことばかりしゃべっていた。彼がなにかわかったようなことを言うとき、テレビはいつも彼のことを映し出した。僕は、もっと綿矢りさのことを映せばいいのにと思って少し苛立った。
 電器屋を出たあと、近くの夜中までやっている本屋に行って、綿矢りさの本を買った。なにが書いてあるのか、本の内容について興味があったわけじゃない。ただ彼女が書いた本を手にとって開いてみたかったのだ。
 僕がこのアパートに部屋を借りてからもうずいぶんになるけれど、外階段を上りきったところの天井についている蛍光灯の照明器具は、僕が気づいたときから今に至るまでずっとランプが切れかかってチカチカと点滅を繰り返している。確実に2年はあんな状態だ。はじめからそういう種類の照明器具なのか、それともランプが切れるたびに誰かがまたわざわざ切れかかったランプに交換しているのか、本当のところはわからないが、チカチカと点滅を繰り返すことが、アパートの外階段の天井に取り付けられた照明器具本来の役割でないことは誰が考えてもわかりきっている。そこを通るたび、僕は自然とイライラとした気持ちになる。
 風呂場の防水扉は、何日か前からギィギィと音を立てるようになっていた。その音は簡単に僕を苛立たせる。開け閉めするたび、犬がエサを食うみたいにいとも容易く僕を苛立たせる。
 綿矢りさの本を買ったとき、あの本屋の女店員は慣れた手つきで僕の買った本に紙のブックカバーをつけた。その慣れた手つきにも僕は苛立った。ブックカバーは帰りに歩きながらひっぺがして道端に捨ててしまった。
 本はあっけなく開いた。
 少しでも僕に抗うことなく、本当にあっけなく開いてしまった。
 それから、僕は頻繁に綿矢りさの本を開くようになり、そのたびに彼女の顔や髪の毛のことを考えた。たまに表紙に書いてある『蹴りたい背中』という文字に苛立つこともあったが、それはあまり気にしないようにした。

 じゃばじゃばと音を立てながら、お湯は浴槽にだいぶたまってきた。

 自分の奥さんを『女房』と言ったミキオにも、僕は苛立っていた。
『女房』が美容室に行っているあいだ、ヤツは1才になる女を連れていったいどこで時間を潰すのだろう。次にその『女房』が美容室に行くときも、ヤツは僕に電話をかけてくるだろうか。
 以前は電話なんかかけずにヤツは僕のアパートに上がり込んできた。酒を飲み、夜中過ぎまで平気で居座った。
 アパートの家賃にも、僕は苛立っていた。
 誰彼かまわず朝のあいさつをする下の階の――おそらくは40過ぎの――女にも苛立っていて、道路を挟んだ向こうの公園ではしゃぐ数人の子供にも苛立っていた。
 本は10ページほど読み進んでいたが、話の筋なんかまったく覚えていない。僕が綿矢りさの本を読むときは、ページを開いて、そこに書いてある漢字やひらがなを彼女のことを考えながら一字一字潰すように見ていくだけだ。そうしてひとしきり変な気分になって飽きてくると、普段はそこにしおり代わりの紙切れを挟んで閉じてやる。本は閉じられたことに安堵して深く息をつく。

 じゃばじゃばと音を立てながら、お湯は浴槽にたくさんたまってきた。

 でも、その後15ページ読んでも、僕はいつものようには本を閉じなかった。その代わり、開いたページをより深く開き、そのままゆっくりと湯のたまった浴槽に沈めていった。肘まで湯の中に浸けて、そこで強く本を押さえつけた。片手だけではなく、身体をひねって本を持っていないほうの手で本を持っている腕の手首をしっかりとつかみ、そうして両手で深く強く押さえつけた。
 開いたままのページが弱い水流にあおられてゆらゆらと揺れ、徐々に本全体が水を含んで膨張していくようだった。
 やがてお湯は浴槽から溢れ出し、座ったままの僕のズボンの尻を濡らした。それでも僕はその場を動かず、本をさらに強く押さえつけていた。
 換気扇の回っていない風呂場の中は、息苦しいくらいに白い湯気が充満している。額からにじみ出た汗が頬を伝って落ち、浴槽のお湯と同化した。
 そのとき、押さえつけられた本の中から無数の歪んだ文字が力無げにじっとこっちを見ていることに気がついた。開かれたページの漢字やひらがな一文字一文字が、うつろな眼差しでしかし確実に僕のことを見返していた。一瞬背中にぞっと寒いものを感じたが、それでも僕は固く目を閉じてさらに強く本を押さえつけた。
 どのくらいの時間そうしていたかわからない。でも、しばらくして目を開けてみると、もう本の文字たちは僕を見返してはいなかった。お湯の中でただ膨れるだけ膨れて、ぶざまにゆらゆらと揺れながら、ただ本の文字だった。
 お湯は浴槽から溢れ続け、窓の曇りガラスがだんだんと夕日の色に染まってきた。
 ――仕方なかった。なんの言い訳もない。それがそのときの僕にできる、あらゆるものに対する唯一の抵抗だったのだ。

月末の地方銀行

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 月末の金曜日、僕は銀行の窓口にいて、今日中に済ませなければならない振り込みをしてしまおうと考えていた。
 4枚複写の手ごわい振込依頼書にボールペンで必要事項を書き込み、窓口の女性行員に手渡した。
 月末の銀行はひどく混み合っていて、このあとかなりの時間待たされるであろうことは容易に想像できた。

「はい、お振り込みですね、お手続きをしますのでお掛けになってお待ちください」

 振り返ってロビーを見渡すと、随所に配置されているソファーや椅子にはどれもすでに誰かが座っており、僕の入る隙間などどこにもなかった。

「お掛けになっては待てそうにもないから、僕はあの柱に寄りかかって待つことにするよ」

 窓口の女性行員にそう告げると、彼女は引きつったような笑みを浮かべたが、すぐに下を向いて作業にとりかかった。
 僕は次の客に押し出されるようにしてその場を離れ、そのまま何人かの人たちをよけてその四角くて太い大理石のような柱のところまで歩いて行き、窓口の方を向いて寄りかかった。当然のことだけど、その太い柱は僕が寄りかかったくらいではびくともしなかった。
 僕の振込依頼書を受け取った担当の女性行員は、もちろん僕の手続き以外にもたくさんのこなさなければならない仕事を抱えていることだろう。あの様子だと5分や10分では僕の番にはならないことは確実だ。でもだからといって別にどうということはない。時間ならたっぷりあるし、柱に寄りかかっていろんな人を見ているのも悪くない。
 あらためて周りを見渡してみると、行内には本当にたくさんの人がいた。
 大学生みたいな若者や家庭の主婦、スーツを着たサラリーマン、帽子を被って杖をついた老人や腰の曲がったばあさん。その種類も実に様々だ。彼らは皆、それぞれなにがしかの金融目的を持ってこの銀行に集まっているわけだ。忙しそうにイライラと自分の順番を待っている人もいれば、隣の人と熱心に世間話に興じている女の人もいる。しかし大半は、やはりイライラしながら待っているようだった。
 カウンターの向こう側もだいたい同じようなものだ。
 大勢の行員が忙しそうに立ち働き、自分の書類に支店長だか課長だかの判が押されるのを待っている。ATM機械の横では仏頂面のガードマンが昼休みの交代時間がくるのをじっと待っている。
 客が順番を待ち、行員が上司の許可を待ち、ガードマンが昼休みを待っている。低いマガジンラックの横に置かれた鉢植えのレンタル観葉植物は、ごくわずかな酸素を吐き出しつつ健気に来週の交換を待っている。
 けっきょく、この地方銀行の支店全体がみんな何かを待っているといってもいいだろう。銀行の各種手続きなどはこの際なにかの「建て前」に過ぎず、実はここにいる全員がただ待つことを目的に集まってきたようにも思えてくる。
 そして銀行だけでなく、よく考えてみると人はいつも何かを待っているみたいだ。待つことが目的のように暮らしている。きっとそうに違いない。
 週末を待ち、人と待ち合わせをし、目覚まし時計をセットして朝の7時30分を待っている。四六時中何かを待っているのだ。
 僕は何も、人の「生」自体が「死」を待つ行為そのものだ、などというわかったようなヘボ哲学を展開するつもりはないが、そんな難しいことを考えなくたって、人がいつも何かを待って生きているのは明らかだ。
 この時間どこかでは、負けるとわかっている戦いに挑む拳闘士のような気分で歯医者の待合室に座っている人もいるだろうし、半月ほど遅れている彼女の生理を湖上に張った薄氷の上を歩くような心持ちで待っている19歳の男もいるだろう。
 正面の入り口の自動ドアが開いて、新たに30歳くらいのサラリーマンが入ってきた。
 彼はATM機械の順番待ちをしている人たちの長い列を見て小さく舌打ちをした。腕時計に目をやり、ハンカチで額の汗をぬぐいながらあきらめたようにその最後尾に並んだ。
 四六時中何かを待っているにもかかわらず、待つという行為は程度の違いこそあれ、往々にして苛立ちや苦痛を伴うもののようだ。
 日本一有名な名前のない猫が言っていた。
「人間の定義というと外に何もない。只いらざることを捏造して自ら苦しんでいるものだと云えば、それで充分だ」
 自分で待ち、自分で苛立っている。
 いっそのこと、待つことなんかきれいさっぱり忘れて全部やめてしまえばいいと思ったりもするが、これがなかなかそうもいかないのだろう。
 人間には社会があり、暮らしがある。マイホームとショッピングの夢があって子供の成長がある。
 自分で待ち、そして自分で苛立たなければならないのだ。
 かわいそうなものだ。僕は行内にいる人たちがこの上なく不憫に思えてきた。ポケットから拳銃を取り出して、天井に向けて一発派手にぶっ放してやりたいような気がしてきた。そうすれば、もうみんな待つことなどしなくなるだろう。きっと現状を打破できる。

――「唐杉様!」 

 みんなを一瞬で解き放ってやることができるだろう。
 この考えはわりと楽しい感じがする。
 救済的銀行強盗だ。

――「唐杉様!」

 天井に一発ぶち込んでこう叫ぶ。

「全員一歩も動いてはいけない!金はいらないが、その代わり全員がいま行っている作業を即刻中止してまっすぐ家に帰るんだ!いますぐにだ!」

 彼らは一瞬恐怖におののくが、それが救済的銀行強盗だとわかると、みんな喜んで手にしていた払戻し用紙やキャッシュカードをその場に投げ捨て、先を争うように家に帰ってゆく。銀行が済んだら近くの大型スーパーに行ってまた一発ぶっ放す。

――「唐杉様!カ・ラ・ス・ギ・サマ!」

 妄想はどんどん僕の頭の中で膨れ上がってゆくが、窓口の女性行員が大声で僕の名前を叫んでいることに気づき、柱から身を離して先程の窓口まで歩いて行った。

「僕が唐杉です」

「はい、唐杉様お待たせ致しました。お振込みのお手続きが完了いたしました。こちらがお控えになります。ご利用ありがとうございました」

 そしてすぐに次の作業に取り掛かろうとしていた。

「ちょっとごめん」

「はい?」

「これで僕の振込みは滞りなく完了したわけだね?」

「ええ、お手続き致しました」

「では間違いなく、僕の相手の口座に僕の指定した額の金が移ったことになるよね」

「ええ、そのとおりです」

「よかった。ありがとう。別に疑っていたわけじゃないんだけどね。月一回の大事な振込みだから、ちゃんと今日中に振り込まれるか確認しておきたかったんだよ。毎月そうさせてもらっているんだ」

「はあ、そうですか」

「ありがとう。じゃ」

 僕は混雑した銀行を出て、そのまま駅まで歩いて行った。
 駅にもまた、電車やらバスやらを待っている人が大勢いた。
 そんな人たちを横目で見つつ、僕は構内の雑踏の片隅でひっそりと佇む公衆電話にコインを入れて電話をかけた。番号は手帳を開いてみるまでもなく、おぼえている。

「はい」

「あ、おれだけど」

「ええ。・・・なに?」

「いま今月分を振り込んできたよ。窓口の係に確認したから間違いなく今日中に入金になると思うんだ。一応知らせておこうと思って」

「・・・なんだか周りが騒がしいわね」

「ああ、駅の公衆電話なんだよ」

「公衆電話?ケータイじゃないの?」

「うん。携帯電話はこのあいだ解約したんだ。あまり使う機会もないからね」

「・・・そう」

「今日の銀行は混んでいたよ。月末の金曜日だからね。列がいくつもできていて――」

「ねえ、わざわざ連絡をくれなくってもいいのよ」

「えっ?」

「毎月こうやって電話をくれるけど、こっちはこっちでわかるから」

「でもね、一応のことを考えると――」

「それだけじゃない。・・・ねえ、私ずっと言おうと思ってたんだけど、・・・電話だけじゃなくって、振り込みそのものもいらないわ。・・・必要ないのよ。・・・だって、私たち別にそんなこと決めたわけじゃないじゃない。子供がいたわけでもないし。・・・そうよね?」

「・・・ああ」

「・・・私、もういいかげん気持ちを切り替えてやっていきたいの。仕事も順調で忙しくなってきているし。・・・なんとなく、これからいろんなことがいい方向に進んでいくような気がしているの。はっきり言って、経済的にだっていくらか余裕もあるわ。実際あの口座はあれ以来ぜんぜん手をつけてないの。あなたからの振り込みも全額そのまま残っているのよ」

 僕は黙っていた。

「・・・ねえお願い。もうやめにしましょう。やっと私、いろんなことがうまく進みそうな気がしているの。もう失敗したくないの。いままで振り込んでくれたお金はぜんぶ返すから」

「いや――」

「あなたは変わらない。携帯電話も解約しなくちゃならないくらいなら、なんだってお金なんか送るのよ。・・・そういうの、やめてよ。私、ときどきたまらない気分になる・・・」

 泣いているのかもしれない。

「いや、おれは別にそういうつもりじゃ――」

「ちがう。どういうつもりもなにも、もうなんでもいい。けっきょくあなたは自分のことしか考えてないのよ。ずっとそうだった・・・。とにかく、お金はぜんぶ返すから。前の口座にぜんぶ振り込んでおく。もう電話もしてこないで。・・・悪いんだけど」

 僕はなにを言っていいのかわからなかった。

「・・・ねえ、わかる?私、このことをずっと言おうと思ってたの。何ヶ月もずっと。ずっと考えて、ずっと言おうと思ってたの・・・」

 公衆電話の受話器を元に戻して振り返ると、僕の後ろに待っている人が二人いた。学生と、スーツを着た初老の紳士だ。
 僕はすごくゆっくりと歩いて駅を出て、来た道を引き返して行った。
 しばらくして気がつくと、さっき振込みの手続きをした地方銀行の前まで来ていた。通りに立ち止まって行内を覗いてみると、ATMと窓口には相変わらず長い列ができていて大勢の人が順番を待っていた。椅子やソファーも全部埋まっているようだ。
 僕はまた通りを歩き、時間を潰すために大きな本屋に入った。
 ズボンのポケットには振込用紙の控えがくしゃくしゃになって収まっていた。取り出して広げると、用紙の右下のほうに今日の日付の銀行の受付印が少し斜めに押されていた。
 本屋にはたくさんの本があり、それが棚の上の方までびっしりと並んでいる。
 僕はこれから先、何を待ち、そして何に待たされることになるのだろうか。

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 妻が熱を出したきっかり2時間後に、夫である僕も熱を出した。
 朝目が覚めると妻が僕に言った。

「どうやら熱があるみたいなの」

 薬箱の奥で冬眠していたような体温計で妻の熱を計ってみると、38度4分。
 僕は家中をかき回して氷まくらを探し、押入れから毛布を引っ張り出して速やかに妻のベッドにセッティングした。

「ごめんね、せっかくの休みなのに」

 久しぶりに二人揃っての休み、僕と妻はウディ・アレンの最新作映画を見に行く約束をしていたのだ。もっとも、この約束は妻の一方的な希望によるものだったので、僕はあまり気乗りしていなかった。世の中に嫌いなものはあまりないけれど、冷たいコンソメスープとウディ・アレン映画が僕は大嫌いなのだ。
 そんなわけで、朝起きて妻が熱を出したとわかったとき、ウディ・アレンのクソ映画を見ないで済みそうで、僕は正直言って喜んだ。氷まくらを探しているあいだ、少しスキップもしたんじゃないかと思う。それに、熱を出した妻を看病しながらたまにコタツで一人しりとりなどしながらのんびりするというのは、夫にとってはまさに理想的な休日の過ごし方ではあるまいか。

「ごめんね本当に。せっかくの休みなのに」

「いいさ。気にすることはないよ。そんなことより、早く熱を下げることを考えるんだ。
仕事だって簡単には休めないんだろ」

 ベッドの横に跪いて妻の額を撫でながら、こんなときに夫が口にするべき最良の言葉を探し出し、僕は軽く微笑みを浮かべて囁いた。

「ちょっと買物に行ってくるよ。食欲はないだろうけど、こんなときこそ栄養をつけなくちゃね。なにか消化のよいものを作るよ」

「ありがとう。気をつけてね」

 僕は妻に「なにか欲しいものはあるかい?」などとは訊かなかった。そんなのはとんでもなくナンセンスだ。なにも訊かなくても相手が欲しているものを買ってくる。それができる看病人というものだ。
 僕は軽快に車を飛ばし、近所の大型スーパーマーケットに行った。
 買物カゴを提げながら開店したばかりのスーパーマーケット内を闊歩するのはとても気分がいいものだ。陳列台に並べられた食品や日用品の数々が、全部僕に買われるのを望んでいるかのようだった。
 しかし、僕はその中から、卵1パックと牛乳、みかん1袋、コーンフレーク、それから2リットル入りのスポーツドリンク――その他もろもろ、を選んで買った。
 駐車場の一角では、今シーズン初の焼いも屋台が小さい店を広げていた。
 僕の妻は焼きいもがとても好きだ。
 彼女はいま、焼いもが食べたいに違いない。
「なにが欲しい?」なんて訊かなくても、出来る看病人は病人がなにを欲しているかわかってしまうのだ。
 僕は大きめの焼いも5本を含む、紙袋ふたつ分の看病食材を後部座席に積み込み、口笛を吹きながら意気揚々とアパートに帰った。そして台所のテーブルに大きな紙袋ふたつ分の看病食材を置いて熱を計ってみると、体温計は39.2度を示していた。
 そのまま寝室まで歩いて行き、ベッドの横に跪いて妻の額にそっと手を当てた。

「ん、あ、おかえり。寒かったでしょう。私ね、いま夢を見てい――」

「どうやら僕も熱を出したみたいだ」

「・・・・・・何度あるの?」

「39度2分」

 妻は布団の中で横になったままの姿勢で目を閉じ、スティーブン・タイラーが『AvantGarden』につけた『月には空が必要だ』という歌詞くらいに深いため息をついた。
 そりゃそうさ、熱を出した妻をこれから看病しようってときに熱を出すなんて、ミイラ盗りどころかミイラ職人がミイラになってしまうようなもんじゃないか。彼女が深いため息をつくのも無理はない。

「誓って言うけど、君のために毛布と氷まくらを用意してスーパーに買物に行って帰ってくるまで、僕は熱なんか出していなかったんだ」

「わかったから、あなたも早く布団に入って寝なさいよ」

 激しい悪寒に震えながらパジャマに着替えてベッドにもぐり込むと、妻がつらそうに起き出して毛布をかぶせてくれ、自分の氷まくらを僕の頭の下に差し入れてくれた。

「君はいいのかい?」

「だってしょうがないじゃない。私よりあなたの方が熱高いんだから」

 しかし、誰をも責めるわけにはいかない。
 日本中の夫婦二人暮らしのうち、いったいどれだけの家庭が二つ以上の氷まくらを用意してあるというのだ。
 かくして僕ら若い夫婦は、せっかくの休日をひとつの氷まくらを1時間おきに交替で使用しながらそれぞれのベッド上で過ごさなければならない羽目に陥ったのである。
 昼を少し回ったころ、妻が天井を見つめながら言った。

「なにか食べなくちゃね」

「ああ」僕も同じように天井を見つめながら言った。

「適当になにか作るわ」

「手伝うよ」

 二人してやっとの思いでベッドから這い出し、毛布を肩からすっぽりとかぶって台所まで歩いていった。
 台所のテーブルには、僕が買ってきた紙袋ふたつ分の看病食材がそのまま置いてあった。
 妻がその中からひとつひとつ食材を取り出した。

「なんで卵なんて買ってきたのよ」

「卵ぞうすいを作ろうと思ったんだ」

「卵ぞうすいはいいんだけど、卵はまだあったじゃない」

「そう?」

「そうよ。冷蔵庫に1パックそっくり入っているわよ」

 冷蔵庫を開けてみると、なるほど、卵トレーにきれいな卵が並んでいる。

「牛乳も買ったの?」

「ああ」

「・・・」

 妻はなにも言わなかった。
 卵トレーから下に視線をずらすと、そこには抜群の存在感を示しつつ牛乳が2パック冷えていた。

「それで、なんなの、この芋は?」

「焼きいもさ」

「なんで焼きいもなの?」

「・・・好きかなと思って」

「風邪をひいて熱を出して、食欲もないのに私は焼きいもを食べるの?・・・5本も」

 妻は今度は、ジェローム・デイヴィット・サリンジャーの短編小説を5つあわせたくらいの深いため息をついた。

「なんだか絶望的に食欲がなくなってきたわ」

「僕もさ」

 そして若い夫婦は、またベッド上の人となった。


 
 もうぬるくなった氷まくらに頭をのせ、いっこうに下がる気配のない熱を全身に感じながら、僕は心に思っていた。
 冷蔵庫内の在庫品と愛する妻の飲食物に関する嗜好については、あらかじめ予定を立てて定期的に確認する必要がある。それとできれば、いやぜひとも、若い夫婦は区役所に婚姻届を提出したその足で、薬局ないしはしかるべき販売店に行き、上質の氷まくらをふたつ購入するべきなのだ。
 いわゆる氷まくらをふたつ。
 そう難しいことではないはずだ。



――おわり

丸いおじさんと美人鶴

 先週の初めに、マサトと別れた。

 仕方なかったんだ。このままではお互いのためにならないと思った。マサトは、そんなことはないと言った。でもこのままでいても、いつかはそうなってしまうことを、私はわかっていた。
 こんなカタチでは終わりたくなかったけれど、それは仕方のないことだったんだ。
 ・・・でも、あれから一度も連絡してこないなんてちょっとひどいじゃないか。マサトはもう、きれいさっぱり終わりにできたのだろうか。それとも、私からの連絡を待っているのだろうか。
 もしそうだとしたら・・・。いや、よそう。それではきっとお互いのためにならない。
 あれから一週間経つというのに、考えるのはあいつのことばかり。私はまだマサトのことが好きなのだろうか。マサトはどうなんだろうか。
 この半年間、私は純粋に楽しかった。マサトといろんなところに行った。マサトのために料理も作った。素敵なセックスもたくさんした。
 一人でいるとついつい考えてしまう。少しでも誰かに聞いてもらえたら・・・。といっても、美香はハワイだし、幸司は出張。マサミは実家に帰っていてユウスケは相変わらず。
 ああ、誰かいないだろうか。ウィンドウショッピングも、もう飽きたし。
 ・・・そうだ、あのコーヒーショップに行ってみよう。あそこなら誰かいるかもしれない。

 ――お店は比較的すいていた。
 私は窓側の席に座って、カフェ・ラテを注文した。かっこいいウェイターがにっこりとうなずいてくれた。
 そういえば、マサトともよくこのコーシーショップに来たっけ。
 あいつは決まってアイスコーヒーだった。ガムシロップをたくさん入れて。甘いものがとても好きだった。私のチーズケーキを――。
 いけない、また考えている。もうよそう。
 私は大きなため息でマサトを追い払い、顔を上げて店内を見回してみた。
 日曜の午後だから、お客さんのほとんどが若いカップルだった。楽しそうに笑ったり、テーブルの下で軽く手をつないだりして、いかにも幸せそうだ。私もついこのあいだまでは彼らと同じように幸せだったのに・・・。
 ふと、いちばん奥の席の男の人に気がついた。
 楽しそうなカップルたちに紛れて、彼は一人で座りコーヒーを飲んでいる。やけに四角い顔をして、まばたきもせずにまっすぐ前を向いている。
 ・・・あ、彼は丸いおじさんだ!
 私にはわかった。丸いおじさんのことは前に聞いたことがある。いつも刈りたての角刈りで、顔は野球のホームベースみたいな形をしているのだ。シャツの胸ポケットは左右とも四角らしい。
 私は腰を浮かせておじさんの胸の辺りを見た。・・・間違いない、彼は丸いおじさんだ。
 噂では、丸いおじさんにはめったに会えないらしいから、私はすごくラッキーだ。美香がよく言っていた。 『 丸いおじさんにはめったに会えないんだよ。どこに住んでいるとか仕事はなにをやっている人だとか、そういうことは誰も知らないらしいの。だけどね、丸いおじさんはすごいの。人の悩みをなんでも解決してしまうのよ。あらゆる悩みを、よ。すごいわよね、丸いおじさん。私も会いたいな。裕子も、もし出会うことができたらぜったい悩みを打ち明けたほうがいいわよ。別れ際にちょっとしたプレゼントもくれるんだって 』 。

 ほかのお客さんたちはまだ丸いおじさんに気づいていないみたいだ。私はハンドバックからハンカチを取り出して、まっすぐおじさんの席まで歩いていった。
「ちょっといいかしら、あなたは丸いおじさんですよね?」
 丸いおじさんはゆっくりと顔だけを私のほうに向けて、少しのあいだ動かなかった。
「あなたがいま思っていることはだいたい察しがつきますよ。『丸いおじさんは意外と丸くないな』、でしょう。しかしながら言わせてもらえれば、私はなにも自分から丸いおじさんではないのです。誰かが勝手にいい言い始め、それがいつしか浸透していっただけのことでしょう。豆腐は本当は納豆だし、納豆は本当は豆腐なのですよ」
「え?」
「いかにも、私は丸いおじさんです。少なくとも、皆が私をそう呼んでいることは知っています」
「そ、そうですか。それならば丸いおじさん、ぜひ私の悩みを聞いてほしいんだけれど?」
「まあ、いいですよ」
「よかった。じゃ、ちょっと座っていいかしら?」
「どうぞ」
「ありがとう。・・・ねえ、丸いおじさん。いま私すごく悩んでいるの。先週の初めにさまざまな事情があって半年付き合った彼氏と別れなのだけれど、どうしても彼のことを考えてしまうの。食欲もないし仕事にも身が入らな――」
「突然ですけどお嬢さん、あなたはとてもおきれいですね。髪形も素敵だし、お化粧もとっても上品ですよ。やはり毎朝髪をブローしてお化粧なさるのですか?」
「え?ええ、まあ」
「やはりね。先月も、先週もずっとですか?」
「ええ、そうですけど。・・・ぜんぜんそんなことないですよ。お化粧でもしないと恥ずかしくて人前に出られないですもん」
 私は少し照れてしまった。こんなおじさんにでも、褒められれば悪い気はしないものだ。
「すいません。話の腰を折ってしまった。さ、どうぞ続きを」
「そうでした。・・・それで私、やっぱり彼と別れるべきじゃなかったのかなって。やっぱり彼を愛していたのかなって。やっぱり、マサトは私にとって運命の人だったんじゃないのかなって・・・。だって、寝ても覚めてもマサトのことばかりなんだもん。・・・でもね、私がこんなに悩んでいるのに、マサトはいったいどう思っているんだろう。あれ以来、電話もメールも――」
「それにしてもおきれいだ。幼いころからそんなにおきれいだったのですか、あなたは?」
「・・・あの、いま私が話しているんですよね?」
 少しむっとした。きれいだと言われるのは悪い気はしないが、こう話を中断させられては調子が狂ってしまう。
「すいません。あまりにおきれいなものですから。まるで鶴の恩返しの鶴のようにおきれいですよ」
「・・・つるのおんがえし?」
「そう、鶴の恩返し。知っていますか?鶴の恩返し」
「それは知っていますよ。有名な昔話ですもの。でも、いまは私の話を――」
「とてもきれいな鶴が、助けてもらった老夫婦のために別室に篭って自分の羽根で布を織るのですよ。その鶴が絶世の美人鶴なんです。まさに、あなたですな」
「そんな、いやだ、おじさんたら」
「自分の羽根を抜いて、それで布を織る。恩返しのためなら、文字通り身を削るような自己犠牲もいとわない美人鶴ですよ」
「そうですよね、かわいそうですよね。・・・それでね、私先週からずっと悩んで――」
「ところで、あの鶴はなぜ老夫婦に 『 戸は絶対に開けないでください 』 。なんて言ったか知っていますか?」
「・・・えっ?」
「美人鶴は布を織っているあいだ、 『 戸は絶対に開けないでください 』 。と言って別室に篭ったのです。なぜ 『 戸は絶対に開けないでください 』 と言ったか知っていますか?」
「それは自分が布を織っているところを見られたくなかったからでしょう。自分が本当は鶴だってことを隠すために」
「それがね、違うのですよ。彼女はね、本当は、戸を開けてほしいから、 『 絶対に開けないで 』 。なんて言ったのですよ」
「そんなわけないじゃないですか」
「いえいえ、ところがそんなわけなんです。人間の本質を見抜いている実に頭のいい鶴ですよ」
「おじさんはなにを言っているのか――」
「だってね、 『 開けないで 』 なんて言われたら、たいていの人間は誰だって開けたくなりますよ。本当に開けてほしくなかったら、普通なにも言わないもんですよ」
「でも、なにも言わないでおいて急に開けられたら困るじゃないですか」
「ノックするでしょう。森で罠にかかっている鶴を助けるようなやさしい老人が、人の部屋をノックもせずに開けるなんてちょっと考えられないですよ。ノックがあってから、鶴は人間の娘に変身して何事もなかったかのように老人を部屋に入れればいいだけの話です。それをね、わざわざ 『 開けないでください 』 なんていって老人の興味を最大限に引き出しておいてから、その内こっそり覗かれるだろうことを意識して、不憫な機織に励むというわけですよ。 『 私は自分の羽根を抜いて、自分を犠牲にしてあなた方のために布を織っています。どうです、やさしいでしょう。かわいそうでしょう。同情するでしょう 』 。いやあ、実に頭のいい美人鶴ですよ。自らが演出して、悲劇のヒロインを演じているわけですもんね。それが有名な昔話、鶴の恩返しですよ」
「・・・えっ?」
「いまのあなたにそっくりではないですか。そしてさしづめ、私が老夫婦の夫というわけですね、うむ。ただね、『開けないで』と言われれば、私は開けませんよ。だって、開けないでって言われているんですからね。それに、べつに戸の向こうで鶴、もしくはあなたがなにをしていようとも私はあまり興味がないですよ。さ、では私はこれで失礼します」
「えっ、ちょっ、ちょっと待ってよ、丸いおじさん。あなたは私の悩みをなにも解決してないはないですか」
「そこに悩みがあるのなら、私はそれを解決できますが、なにもなければいくら私だって無理ですよ」
「失恋して悩んでいるって言ったじゃないですか」
「ああ、そのことですか。私は思うのですが、本当の失恋をしたときって、すごく落ち込みますよね。髪とかお化粧などにかまっている暇がないくらい落ち込むもんですよ、おそらく。そして誰とも会いたくなくなり、誰とも話したくなくなるものなんじゃないでしょうか。あなたはきっと大丈夫ですよ、はい。では最後にプレゼントです」
 そう言うと、丸いおじさんはポケットから紙切れとペンを取り出してなにやら書きつけ、それを私の前に差し出した。

『 織るのなら 黙って織りなよ 美人鶴 』

 私はしばらくその紙切れを眺め、そして少し顔を上げ、コーヒーショップから出て行く丸いおじさんの四角い背中を見送った。


――おわり
 僕が気持ちよくベッドで寝ていたら、突然電話が鳴った。
 電話なんてものはいつだって突然なわけだけど、僕はぐっすりと眠っていたからことさら突然に思えた。
 電話機は枕元に置いてあったから、僕は寝ぼけたまますぐに受話器をとった。

「カミナリだと思ったら電話のベルだった。――もしもし」

『行っちまったよ!行っちまったんだよ!』

 間違いなくいたずら電話だと思ったけれど、よく思い出してみると聞いたことのある声だ。
 僕の古い友人で、名前はフォーク。

「なにを言ってるんだ?」

『行っちまった。車に乗ってスーッと行っちまったんだよ!』

「・・・なにが車に乗って、どこに行っちまったんだ?」

『彼女だよ!どこに行ったかなんて俺が知るか!』

「なあ、フォーク。こういう場合、急に電話で起こされた僕のほうが怒って当然のような気がするんだけどね」

『なにもおぼえてねえんだよ。せっかく彼女に会ってメシ食ったのに。気がついたらなにもおぼえてねえんだよ!俺はどうすりゃいいんだ』

「彼女って、あの言ってた子か?たしか、名前はバターナイフ?」

『そうだよ。その彼女だよ。ああ、くそっ!』

「会ったのか?メシ食って?」

『ああ、電話したんだよ。冗談ぽく、デートしてくれるか?って。そしたら、いいよ。って。それで今日に決めたんだ』

「で、いま会って、メシ食って、彼女が帰ったわけか」

『そうだよ。2時間前に会って、――ずいぶん久しぶりだったよ。メシ食って。彼女行っちまったよ!なにもおぼえてねえんだよ!』

「それがわからん。どうしてなにもおぼえてないんだ?」

『くそっ!理由なんか知るか!・・・いいか、俺は最後にするつもりで彼女に会ったんだ。これっきりにしてもう2度と会わない。俺のことなんかなにひとつしゃべらずにな。だから、ぜったい忘れないように彼女の顔ずっと見てた。話しているあいだもメシ食ってるあいだも。――味なんかぜんぜんわからなかった。瞬きさえもしないでずっと見てたんだよ。目をつぶったら彼女の顔がまぶたの裏に映るくらいにおぼえていよう思って。声だってちゃんと聴いていた。彼女、きれいな声なんだよ。ヘッドフォンつけて聴くみたいに聞こえるように耳を澄ませてずっと聴いていた。いいか、俺は今日のことを頼りにしてこれから生きていこうと決めたんだよ。本当に今日が最後だったんだ。だから、なにひとつ忘れないように、それこそ全身で彼女のことを見ていたんだよ。それなのに、彼女が車に乗って行っちまった瞬間に、なにもかも忘れちまったんだよ!どうやっても思い出せないんだよ!』

 僕は「もう一回会えばいいじゃないか」と言おうとして言葉を飲み込んだ。
 フォークが最後だと言うならば、それは最後なのだろうと思ったのだ。

「まったくなにもおぼえてないのか?」

『・・・楽しかったよ、2時間。彼女も楽しそうに笑ってた。すごくたくさんいろんな話もした』

「おぼえてるんじゃないか」

『なに話したかなんてまったくおぼえてねえよ!俺は彼女の顔が見たいんだよ!彼女の声を思い出したいんだよ。楽しいなんてあたりまえだ!いままでだって、会うたびいつも楽しかった。彼女だもん、そんなのあたりまえだ。俺は今、目をつぶって彼女の顔が見たいんだよ!それだけが頼りだったんだよ。ああ、くそっ!いったいどうすりゃいいんだ』

「彼女には最後だって言ったのか?」

『言うわけねえだろ、そんな意味ありげなこと。困らせるだけだってんだよ』

「・・・なあ、フォーク。いま何時だ?」

『ああっ?・・・10時だよ』

「夜のか?」

『あたりまえだ!朝の8時から女の子とメシ食うやつがどこにいるんだ!?たとえいたって朝の8時でOKする女なんて俺はいやだ!」

「最初に言えばよかったんだけどな、僕は12時から夜勤なんだよ。いま電話切れば、あと1時間は寝られる。なあ、フォーク。お前がひどい状態だってことは重々わかるけど、僕の夜勤も相当きついんだぜ。わかるよな」

『夜勤って・・・』

「フォーク、おまえはきっと大丈夫だ。なんとかなるよ。じゃあな」

『おい――』

 僕は電話を切った。フォークがどう思おうと、僕の夜勤は相当きついんだ。1時間でも多く寝ていかないと体がもたない。
 布団を少し直して、きちんと枕の上に頭を置いて目を閉じた。
 でも、いくら待っても眠いような感じにはならなかった。
 電話なんかでしゃべったせいで、僕はもう目が冴えてしまったのだ。
 少しがっかりして暗い天井を見ながらいろいろ考えていたら、なんだかフォークがかわいそうになってきた。
 彼女の顔を思い出せないなんて、僕だったらゴメンだな。
 時計を見ると、もう10時半を過ぎていた。
 僕は眠ることをあきらめてベッドから出た。
 そして、ちょうどいい具合に昨日グレッチェン・ウィルソンの新しいレコードを買ったのを思い出したので、それを聴くことにした。
 僕の小さいステレオセットはいつも調子が悪いからちょっと心配したけれど、レコードをセットしてスイッチを入れるとうまい具合に曲が流れ出した。
 ――グレッチェン・ウィルソンの新しいレコードはとても良かった。僕にぴったりだ。
 聴いてすぐに良いとわかる種類のレコードだ。何度も聴いて、いつかふと良いと思うレコードがいちばん良いのだけれど、こういう種類のレコードだってすごく良いのだ。もしかすると、昨日買ってすぐ聴かずに一晩寝かせたから良くなったのかもしれない。そういうことって、あり得ないとも限らないじゃないか。
 値段はたしか2500円だった。これならあと1000円は払ってもいい感じだ。
 期待していたよりもずっといいレコードだと思った。
 3回繰り返して聴いたところで、時刻は11時45分になっていた。
 僕は少し考えて、このまま夜勤は休んでしまおうと決めた。
 電話はまあ、しなくても大丈夫だろう。
 新しく買ったレコードがひどく気に入ったときは、だいたいの人は仕事を休むもんだ。とくに夜勤だったらなおさらだ。
 それにしても、僕だったらゴメンだな。はっきり言って落ち込むよ。地獄だと言ってもいいかもしれない。
 これまでも、そしてこれからもずっと想いつづける女の子の顔を思い出せないなんて、僕だったら本当に、絶対にゴメンだ。

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