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ニセコは日を追うごとに寒さを増していき、僕はめったに風呂に入らなくなった。 替えの下着を持って大浴場まで行ってみるが、脱衣所に先に入っている人のスリッパがあると、そのまま西棟の部屋に戻った。ジェフリー・アーチャーの短編小説は、最初の一編を読んだだけでベッドの横の床に投げ出したままになっている。食べるものと飲み物がなくなったときだけ、例の食料品店にワインと食パンとソーセージを買いに行き、そのほかは外に出なくなった。食料品店の店主は僕が3度目に行ったときに話しかけてきた。旅行がどうとか雪がどうとか・・・。僕は適当に受け流し、その次からはそこより少し遠くのコンビニエンス・ストアに行くようになった。銀行の封筒に入れたまま持ってきた現金を数えることもしなくなった。ふいに最初の夜に見た不快な夢を思い出しそうになることがあったが、そんなときはワインをぐっとあおったり、洗面所に行って冷たい水を頭からかぶったりして無理に押さえつけた。 僕に関係なく、時間はよどみなく着実に過ぎていった。川岸に立って静かな水の流れを眺めるように、僕はその時の経過の外側にいた。 もうここに来てどれくらいの日数が過ぎていったのかわからない。羊蹄山の山頂に薄っすらと雪が降りた日の午後、僕は本館のロビーまで降りていき、低いソファに身を沈めて新聞を広げていた。 玄関脇の大きな窓から見えるスキー場直行のゴンドラ・リフトが試運転を始めるらしく、何人かの作業員が厚い上着を着て忙しそうに立ち働いていた。 羊蹄山に積もった雪も活動を開始したゴンドラ・リフトも、僕の目にはいまいち現実味のない絵空事のように映った。 「村井様、少しよろしいでしょうか?」 急に名前を呼ばれ、少し驚いて顔を上げると、ホテルの制服を着た50くらいの、やけに髪型のきっちりした男が軽い微笑みを浮かべて立っていた。 この男は何度か見かけたことがある。いくらか偉い立場にあると思われるフロント・マンらしい。 僕は反射的に後頭部の寝グセを手で撫でつけた。 「ええ、なにか?」 フロント・マンは表情をもう少し打ち解けたような微笑みに変えて、右手で胸のポケットに差した高級そうなボールペンの柄に触れた。 「おそれいります。ご覧のとおり、この時期はなんと申しますか、ひまでして。空欄ばかりの宿泊予約帳を眺めるのにもいささか飽きてしまいまして、ご迷惑でなかったらお話でも、と思いまして。コーヒーをどうですか?」 僕は少し考えてから、広げていた新聞を四つ折にしてテーブルに置き、向かいのソファを手で示した。 「おい、コーヒーを頼むよ」 彼はラウンジの女性に声をかけてから、いくぶんリラックスしたように見せかけながら腰を下ろした。 「失礼します。いや、あとひと月すればスキー客でごった返すのですけどね、毎年この時期は開店休業のような状態です。もっともそれは、私どものホテルに限らずこのあたり一帯に対して言えることではありますが。紅葉の季節も過ぎて雪が降るまでのあいだ、すべてが気の抜けたようになるんです。お湯の出具合にクレームを言われることもなく、食材業者の納品が遅れることもない。仕事が極端に減るんです。ですからね、失礼も省みず自分のひまつぶしのために、数少ない大切なお客様にこうして話し相手になっていただいたりしてしまうのです」 「あなたはもう長いんですか?このホテルは」 僕は足を組みなおして彼に尋ねた。 「あ、これは失礼しました。私は岡田と申します。・・・もう25年になりますかね。改築する前からずっとこのホテルで働いております。現在はフロント・マネージャーなんていうものをやらされております。と申しましても、シーズン中はクレーム処理係、オフシーズンは備品管理係のようなものですが」 そう言って彼は声を上げて笑った。 ラウンジの女性がコーヒーを2つ持ってきた。彼女は低いガラスのテーブルにほとんど音も立てずにカップに入ったコーヒーと伝票を置き、そして立ち去った。 「さあ、コーヒーをどうぞ。・・・失礼ですが村井様、こちらへは?」 彼はコーヒーに砂糖をスプーンで2杯入れてかき混ぜながら、僕の方は見ずに言った。 「いやもちろん、そのようなことを私が尋ねる権利はないのですが、そのなんと申しますか、オフシーズンのフロント係はときに図々しくなるものでして、聞き流していただければけっこうです」 僕はこの岡田というフロント・マネージャーの胸につけられたスチールの名札に目を向けていた。そこには当然のように「マネージャー岡田」という文字が彫り込まれていた。 「仕事で来ています」 「ああ、やはり、お仕事で・・・」 「取材なんです。このあたりの自然に関する、少し長めの記事を書かなければならなくて。長めの記事には長めの滞在が必要です。少なくとも、私はそう思う」 岡田は納得したように大きく頷いてコーヒーを啜った。 「記事とおっしゃいますと、村井様はなにか新聞か雑誌の記者の方でいらっしゃいますか?・・・いやもちろん、これも差し支えなかったらという、オフシーズンのフロント係の――」 僕は右手を少し上げて笑って見せた。 「そんなところです。どこかの雑誌社に依頼されて書いたり、自分で適当なのを書いてそれを売ったり。中途半端なページを安く埋めるために、僕のようなのはちょうど使い勝手がよいのですよ」 岡田は、「そんなご謙遜なさらずに」というように何度か頷いた。 「それで今回は、ニセコの自然を・・・」 「そうです。羊蹄山を中心とした、このあたりの自然について書こうと思っています。・・・もちろん、オフシーズンのね」 岡田はさらに顔をほころばせた。 「それはこっこうですね。自然というものはけっして決まった季節だけのものではないです。とくに羊蹄山はそうだろうと思います。私はもう長いことこの土地に住んでいます」 ロビーの太い柱に掛けられた仕掛け時計が3時を告げた。 「村井様はお気づきになられていましたか?我々はこのニセコにいるかぎり、ほぼいつでも羊蹄山を見ることができるのです。どこにいても、顔を上げてどちらかの方向を向きさえすれば、そこに羊蹄山を見えるのです。それぞれの方向から、そしてそれぞれの季節で、あの山はいろいろな表情を見せてくれます。パンフレットの写真のように、なにも夏や真冬だけのものではないと、私は思います」 僕は手を伸ばして前に置かれたカップをとり、少し口をつけた。岡田もそれにつられたように、コーヒーを飲んだ。 「そしてこういう言い方はちょっと感傷的に過ぎているかもしれませんが、・・・我々ニセコの住人は、生まれてからずっと、あの山に見守られている気がするのです。もちろん、親や友人たちとあらたまってそんな話をすることは決してないですが、誰もが心のどこかでそう思っています。誰になにも言いはしませんが、それは確かなことです」 岡田は少し照れたように、また胸のボールペンに手をやった。 「参考になります」 「いや、お恥ずかしい。オフシーズンのフロント係はむやみに口数が増えてしまっていけません。なにとぞお聞き流しになりますようお願いします」 「いや、地元の方ならではの考えを聞けてよかったです。そういう想いは私みたいなよそ者にはなかなか沸いてこない」 僕はコーヒーを飲み干し、少し音を立ててカップを受け皿に戻した。 岡田はもう少しなにか言いたそうに膝の上で組んだ両手をこすり合わせていたが、やがて僕ににっこりと笑って見せてから腰を上げた。 「おじゃましました、村井様。どうかよいご滞在を」 彼はコーヒー2杯分の伝票を手にし、バーカウンターのほうに歩いていった。しかしすぐ、何かを思い出したように立ち止まって振り返った。 「村井様、お車はご入用ではないですか?もしよかったら私のをお貸し致しましょう。取材なさるのにも何かと便利でしょう。私の勤務時間であればいつでもお使いいただいて構いません。ひどいオンボロですが、そのほうが気兼ねなくお使いいただけるでしょう」 「ありがとう。そのときはそうさせてもらいます」 「いつでも言ってください」 岡田は僕に向かって軽く頭を下げ、カウンターまで歩いていくと、さっきコーヒー持ってきた女性になに言って、そしてドアの向こうに消えた。 僕は折りたたんだ新聞をとって顔の前で大きく広げ、機械的にページを繰った。 泥水のような苛立ちが、みぞおちあたりから落ちて胃の底に溜まっていった。 とんだ茶番だ。クソでクソを塗り固めたようなクソ茶番だった。 岡田が僕に話しかけてきたのは、自分のひまつぶしなんかのためではなく、本当は僕のたまった宿泊費の件であることは明らかだったし、僕が雑誌の記者で、取材のためにこのホテルに泊まっているなんてことを、彼はハナから信じてはいなかった。 そしてそれをお互いが最初から最後まで全部知った上で、阿呆のようなクソ茶番を演じたのだ。 今にも口から溢れ出しそうな泥水を、僕は深い息をついて必死に押しとどめた。 さっきと同じ女性がやってきて、また音もなくコーヒーを置いていった。伝票はなしだ。 僕はそれを冷え切るまでほうっておき、立ち上がって一気に飲み干した。そしてその足で大浴場に行った。 他に入浴者がいるかどうかなど確かめもしなかった。剥ぎ取るように服を脱ぎ、備え付けのタオルを取って洗い場に座り、液体の石鹸を大量につけて身体を洗った。皮膚が剥がれ落ちそうなくらい強く、肩や胸を擦った。 『 ああ、やはりお仕事で・・・ 』 みすぼらしく垂れ下がった陰茎を、半ば殴るようにして洗い、 『 村井様、お車はご入用ではないですか・・・ 』 足の指の間をなにかの仕返しのように強く爪で引っ掻いた。 『 お父さんはゴルフ。おじさんはなにやってるの・・・ 』 火傷しそうなくらい熱い湯を頭から何度も何度もかぶった。 『 コトネ、静かにしなさい・・・ 』 目の前の曇った鏡に水をかけ、そこに写った自分の姿を眺めた。鏡は耐えかねたようにまたすぐ無数の水滴をつけ始める。 『 夏になったら北海道に行こうよ。きれいなホテル泊まって、木を見に行って・・・ 』 西棟の部屋の窓辺に立って、濡れた髪のまま外に目をやると、そこには薄っすらと雪をかぶった羊蹄山が相変わらず押し黙ったままたたずんでいた。と同時に、今はその頂上からやや斜め上方に白く淡い光を放つ月がひょっこりと浮かんでいる。
月は自らの光で山を照らすでもなく、妙にちぐはぐな距離を保ったまま、控えめに巨大な山の様子をうかがっているようだった。 彼もゴンドラ・リフトと同じく、来るべき季節に向けた予行練習を始めたのだ。 これから毎日、月は山の斜め上に浮かび、やがて寡黙な山が納得する芸術的な定位置を獲得するだろう。多くの人間が訪れる、ちょうどその季節に合わせて。 僕は部屋の窓を開け放ち、身を乗り出すようにして羊蹄山を見た。凍るような冷たい風が、僕の全身を刺し貫いた。 山はなにも語らず、僕を見てさえもいなかった。 |
VeryShortStory
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倶知安の駅で電車を降り、改札を抜けた左手にある小さな売店でペットボトル入りの水を買った。 駅員以外に人がほとんどいない構内を、一人の女の子が元気に走り回っていた。 僕におつりを渡した女の店員が「コトネ、静かにしなさい!」と叱りつけた。 それは、3年前の夏に来たときには乳母車に乗っていた女の子だった。 女の子の母親に次のバスの時間を調べてもらい、外のベンチに座ってバスを待った。 狭いロータリーの向こうに伸びた短い通りの風景は、この前に来たときと何も変わっていないように感じた。角の甘味屋はいまも開いているのか閉まっているのか判然としない。 手袋とマフラーがあってもいいくらいの寒さだった。 あのときのホテルは、いまはもうないことはわかっている。あったところで金額的にまず無理だ。でも、ニセコのスキー場付近まで行けば宿泊施設が何軒かあるだろうから、その中でいちばん安いところに泊まろうと僕は思っていた。 2、3人の地元民と数組の旅行者を乗せたバスに1時間弱揺られ、最初に着いたホテルでいちばん安く泊まれる部屋はいくらかとフロントで訊ねた。 「もし料金のことだけでしたら、スキー客用の西棟の部屋がよいかと思います。部屋は狭いですが十分寝ることはできますし、私の知る限りではすきま風が入ってくるようなこともありません」 そう言ってフロントの女性は笑った。 金額を聞くと、思ったよりもずっと安かった。他のホテルをあたるのももう面倒な気もするし、僕はその部屋に決めた。 宿泊カードに名前と住所を書き込んで、1週間分の宿泊代を前払いし、西棟の203号室のキーを受け取った。フロント係の女性が、時間があるので部屋まで案内します、と言って荷物を持ってくれた。 部屋は言われたとおりひどく狭かった。簡易ベッドが置いてあるほかは、小さい書き物机と椅子が一脚でほぼいっぱいだった。 トイレと洗面所は各階廊下のつきあたりにあり、その反対側の一角にはコイン・ランドリーと自炊のできる簡易キッチンがある。風呂は本館の大浴場をご利用ください、とフロント係の女性に言われた。3階から上は6人部屋になっているそうだ。 「冬になると選手を目指す学生たちでいっぱいになってうるさいくらい賑やかです。北海道出身の選手の中には、毎年このホテルに泊まって合宿した人がたくさんいるんですよ」 まだ雪が降る前のこの時期は、西棟の客は僕だけとのことだった。 刑務所の独房というには豪華すぎだが、壁に洒落た絵画なんかが掛けられていて、ナイト・テーブルに清掃担当者のメッセージ・カードが置いてあるような部屋よりは、このとびきり質素な部屋が、なんとなく今の自分には合っているように思われた。 フロント係の女性に礼を言い、それから少ない荷物を全部ベッドの上に置いてホテルの外に出た。 すでに陽が落ちかけていて、あたりはさらに冷え込んでくるようだった。役目を終えて地面に落ちた少し汚い木の葉っぱが、物憂げに風に吹かれていた。 両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、ホテルから伸びた坂道を下り、しばらく歩いて小さな食料品店を見つけ、そこで徳用パックのワインを3本と袋入りの食パン2斤、チーズ、ミネラル・ウォーター3本、ポテトチップスと魚肉ソーセージを2袋、それから石鹸とハブラシと歯磨き粉を買った。 この食料品店は小さいわりに生活用品は一通り以上揃っているらしく、レジカウンターの横に文庫本の書棚まであって、僕はそこからジェフリー・アーチャーの短編小説を一冊抜き取り、それも買った。 大きな紙袋を2つ抱え、西棟の203号室に戻ったときはすでに暗くなっていた。 買ってきたものを書き物机や床に置き――冷蔵庫がないのでワインはビニールの袋に1パックだけ入れて窓のロックのフックにぶら下げた――、それから上着とズボンを脱いでベッドに横になった。 そしてその後14時間、僕は眠り続けた。 とくに睡眠が必要と感じていたわけでもなく、意識して眠ろうとしたのでもなかった。でもとにかく、僕は14時間ものあいだ、ずっと眠り続けたのだ。 その久しぶりの長い眠りの中で、僕はさまざまな夢を見た。僕にプラス・ドライバーを貸してくれないとなり町の夏祭り実行委員会との言い争い、と言った滑稽なほどつじつまの合わない断片的なものや、1週間か2週間前の出来事をまるきりそのままなぞらえたようなひどく不快な夢もあった。他にもたくさん見たが、どちらかというと不快なもののほうが多かったようだ。もっとも、翌日の朝9時に目が覚めたとき、それらの夢は僕の頭の中からあらかた消え去っていた。 部屋の暖房を入れっぱなしにしていたせいで、喉が痛いくらいに乾いていた。 ミネラル・ウォーターの栓をあけ、ぬるくなった水を勢いよく喉に流し込んだ。少し身体がこわばっていたが、とくに頭痛はしていなかった。 カーテンを開けて椅子に座り、窓から外を眺めると、灰色の曇り空を背景にして三角形の大きな山がひょっこりとたたずんでいた。 あれは羊蹄山という山だ。 ここの来るまでのバスの中で、旅行者らしい初老の夫婦が指を差しながら言っていたのと同じ山だ。 バスから見えた山が、こうしてホテルの窓からも見えるというのは、なんだか少し意外な気がした。 偶然に行き着いたホテルの安っぽい椅子に座って外を眺めているうち、あらためて僕は、自分がずいぶん遠くまで来たんだということを知った。 昼近くになって本館の大浴場に行って身体を洗い、部屋に戻ってワインを開け、食パンとチーズを食った。下着の枚数を数え――4枚だ――、ナイフを使って上手にソーセージの包みを剥いだ。買った本を読もうとしたが、それはうまくいかなかった。トイレに行って小便をし、手を洗わずに戻ってまた椅子に座った。窓の真下でパーゴルフに興じる家族を眺め、それからたぶん、おそろしく長い時間、羊蹄山を見ていた。 暗くなって山がほとんど見えなくなると、暖房と照明を点け、ベッドに寝そべってまたワインを飲んだ。しこたま飲んで、寝た。 3日4日、5日とだいたい同じように過ぎていった。 少し天気が良い日などは、時間をつぶすためにホテルの敷地内の散歩道をぼんやりと歩いたりもした。 正面玄関から北側の建物には、スキー場に直結しているゴンドラ・リフトの乗り場があった。だが、いまはそのリフトも動くことはなく、太いワイヤーのはるか先のスキー場にもまだ雪は積もっていなかった。 パターゴルフ場の脇のベンチに座って前を見ると、ドイツトウヒの太い枝の合い間から羊蹄山が見えた。夏であればここは涼しく気持ちのいいベンチだろうが、冬の初めのこの時期では、ドイツトウヒの黒い幹や枯れた芝生は必要以上に寒さを感じさせるだけだった。 上着のポケットに両手を突っ込んだまましばらく羊蹄山を見ていると、どこからともなく5、6才くらいの男の子が僕に近寄ってきた。 「おじさん、なにやってるの?」 少年はニット帽を目深にかぶり、水色のジャンパーのファスナーを顎の上まで閉めていて、鼻の頭が真っ赤だった。 僕は少年の無邪気さに少しだけ気持ちを軽くした。 「君、名まえは?」 「コウジ」 「お母さんは?」 「お母さんはエステしてる。お父さんがゴルフ。おじさんはなにやってるの?」 「外でソーセージを食うのさ」 「ソーセージ?」 「そうさ。コウジはソーセージを上手にむけるか?」 「うーん、わかんない」 「来てみろ」 少年を脇に座らせ、僕は上着のポケットからナイフと魚肉ソーセージを取り出し、ゆっくりと実演つきで上手なソーセージのむきかたを教えてやった。少年は僕の折りたたみ式のポケット・ナイフを不思議そうに見つめていた。 「いいかコウジ。男はな、ハタチになったら、一生使えそうな頑丈なナイフと、程度のいい中古のトラックを手に入れなければならないんだ。」 コウジ少年はポカンと口を開けて僕の顔を見上げた。 「知らなかったか?だったらよおく覚えておけよ。大人になったら、こういう頑丈な小さいナイフと、エンジンの調子がいいトラックを手に入れるんだ。これはもう決まっていることなんだ、いいな、中古のトラックとナイフだ」 少年はさらにポカンと口を開けて、少し首を傾けた。 「さあ、もうお父さんのところに戻りな」 背中を軽く叩いてやると、コウジ少年は弾かれたように走っていった。 7日目の朝、フロントに行って、もうしばらく滞在するつもりだ、と伝えた。 ―下へ |
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――【上】からの続き 食事のあいだ、僕らはまた他愛もない話をしていた。どこに行きつくこともない、その場を離れればすぐに忘れてしまうような会話だ。でも僕はそれでいいと思っていた。 徐々にだけれど、彼女はまた前のようによくしゃべるようになってきていた。 笑顔が以前のような自然で明るいものになってきて、視線もちゃんと僕に向けるようになっていた。 彼女をそうさせるのが、少なくともこの場での僕の役割だ。 そう思って僕は今日ここに来た。僕の感情なんてこの際関係のないことなんだ。 「ああ、おいしかった。すこし残しちゃった」 「また痩せちまうぞ」 「だといいんだけどね」 「なあ、コーヒー飲まない?コーラはいらないけどコーヒーが飲みたいな」 彼女はさり気なく腕時計に目をやってから、「そうだね、私がコーヒー飲めるようになったのを見せなくちゃ」。と言った。 「ねえ、ちょっと!」と言って店員を呼ぶと、うまい具合に例の店員が来た。 「僕にコーヒーのおかわりと、彼女にもコーヒーをくれ。この場合、コーラはなしだ。食事のあとはあくまでもコーヒーだけでいいんだ。できればうんと濃いやつにしてくれ。いいか、コーヒーだけでいいんだぞ。もしバッチリコーラも一緒に持ってきたら、それはそれでけっこう笑えるかもしれないけど、もう大丈夫だ。それには及ばない。いいか、コーヒーを2つだ。彼女には普通の、僕にはうんと濃いやつだ。わかったらさっさと行ってくれ!さあ、行くんだ、ギャルソン!」 今度は実際に声に出して、彼女が店員に言った。「ごめんね、この人本当に頭がおかしいのよ。気にしないでね」 店員は笑いながら、「そうみたいですね」と彼女に小さく言った。 僕はすかさず人差し指を一本立てて、店員をキッと睨みつけてやった。 それを見て、彼女と店員は同時に笑い声を上げた。 彼女の笑顔はもうちゃんと以前のそれに戻っていた。 僕はあらためて、目の前にいる彼女を見た。 店員と楽しげに話す彼女は、間違いなく以前の明るい彼女だ。さっき店に入ってきたときの少し沈んだ顔も消え、五日前に受話器から聞こえてきた低いトーンの疲れたような声もどこかに行ってくれていた。僕のいる会社を辞める前の、なんの気兼ねもなく会うことができたころ彼女だった。 僕はなんとなく、たぶんもう彼女には会えなくなるような気がしていた。いや、そうしなくちゃいけないんだ。 「・・・ねえ、・・・ねえってば」 「えっ?あ、うん」 気がつくと、テーブルにはすでにコーヒーが二つ置かれていた。 「なに?ぼーっとして。ねえねえ、あの店員さん、私と同じ年だって。住んでるとこも近いのよ、びっくり。しかも前に私たちが来たのをおぼえていたわよ。そのときもコーラとコーヒー飲みましたよね、って言われちゃった」 「・・・なあ」 「えっ?」 「なあ、結婚ってそんなに悪いもんじゃないぜ、きっと」 「・・・」 「いまちょうどそういう時期なんだよ。いろんなことが不安になるんだと思うよ」 「・・・うん」 「でもさ、きっといいもんだぜ。・・・君なら大丈夫だよ」 「・・・そうかな?」 「そうだよ。河に水が流れるように、そんなふうにいいもんだよ。うらやましいぜ、俺なんて」 「うそ、結婚なんてする気ないくせに」 「ハハハ、そうでもないかもよ。実は二回くらい済んでたりして」 「えええっ、そうだったらこわーい」 「ハハハ、・・・さ、もう時間なんじゃないの?」 「・・・うん、・・・ごめんね、私から誘ったのに」 「いやいや、飯に行こうって言ったのは俺だよ。気をつけてな」 「うん、・・・今日はありがとう。やっぱり岸本・・・、シン君に電話してよかった。・・・ありがとう」 「いえいえこちらこそ。久しぶりに楽しかった。・・・あ、俺は少し酒飲んでから帰るよ」 「うん、・・・じゃあ」 彼女が伝票を取ろうとしたから、僕は人差し指を一本立てて眉をひそめた。彼女はちょっと困ったみたいな笑顔を僕にくれた。変わらない、いい笑顔だ。 「じゃあ」 「・・・じゃあ」 出口近くにいた例の店員と少し言葉を交わして、彼女は店から出て行った。 僕はしばらくじっと座ったまま、テーブルに置かれたままの二つのコーヒーを見つめていた。 コーヒーが飲めるようになった彼女を、僕は見ることができなかった。 なんとなく、コーヒーが飲めるようになったなんて、そんなの、うそだったらいいような気がしていた。 ――終わり
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待ち合わせの時間は七時半だった。 十分ほど遅れて、彼女は店のドアを開けた。 奥のテーブル席に座った僕を見つけて、彼女は軽く手を上げた。 「ごめん、遅れた」 「いいんだよ。すこし痩せたか?」 社交辞令とかじゃなく、本当にそう思ったんだ。 「うん、ちょっとね」 「久しぶりだね」 「そうね、半年ぶりくらいかな?」 「いや、八ヶ月ってとこだよ」 「そんなになるんだね・・・」 彼女はメニューを開いてそれを眺めた。僕とは意識的に目を合わせないようにしている感じを受けた。 そして僕は、瞬間的にこの八ヶ月のことを考えた。 彼女は少し痩せ、髪が肩の下まで伸びていた。 八ヶ月。 いろんなことが変わるには、もちろん十分過ぎる時間だ。 「なに食べようかな、もう決まった?」 「俺は五目釜飯と具沢山茶碗蒸し」 この店で彼女が注文するのはだいたい二種類だ。僕がそれを知っているということを、彼女は忘れているようだった。 三日月御膳か海鮮どんぶり。三日月御膳はちらし寿司みたいなのにうどんがついてくるやつだ。今日はどちらにするのだろうか。 「じゃ、私は三日月御膳にしよう。決まり」 この時間にしては、店はすいていた。通りがかった店員を呼び止めて、二人分の料理を注文した。 「飲み物はどうする?」 「えーと、私はセブンアップ」 「じゃあ、セブンアップとコーヒーと氷抜きのコーラ。それとホワイトアスパラのサラダもね。すっぱいドレッシングをたくさんかけてほしいんだけど」 「はい、わかりました。コーヒーは?」 「コーヒーもコーラも一緒に。すぐ持ってきて」 「はい。かしこまりました」 メニューを店員に渡すと、彼女は軽いため息をついて少し僕のほうに目を向けた。 「ごめんね、急に電話して。仕事忙しいんでしょう?」 「いや全然。最近ロクなもん食ってなかったからちょうどよかったよ」 彼女が僕に電話をよこしたのが五日前だった。二十分くらい話をして、今日の食事の約束をしたのだ。そのときの彼女のほんのちょっと沈んだ声の調子をのぞいては、僕ははっきりいって嬉しかった。 「ここの料理おいしいもんね」 「えっ?ああそうだね。俺は君と来て以来だよ」 「そういえば私もかも。えっ、それが八ヶ月前になるわけ?」 「そうだね」 「なんだか早いね。しかも私、来月で二十五だよ。ハァ、いやになっちゃう」 「年のこと言うなよ。俺なんて三十三だぜ。完全に小オッサンだよな」 「でも若いよ。うん、岸本さんは若い」 僕のことを、名字で『岸本さん』と呼んだ。 「お店の仕事はどうなの?」 「相変わらずかな。なかなか連休がとれなくていやなの」 席に座ってからずっと、彼女は俯きがちだった。 「日曜日は休みなの?」 「そう。日曜日ともう一日休みとるんだけど、それ以外はなかなか休みづらいの、雰囲気的に。旅行とか行きたいんだけどさ。・・・かといって辞められないし。なんだかつまんないよ」 「休んじゃえよ、パーッとさ」 彼女はぎこちなく微笑んで見せてから、カウンター席のほうに目を向けた。少し疲れているようにも見えた。 少しして、店員がコーラとセブンアップを運んできた。 彼女は飲み物を手前に引き寄せ、ストローを差して少しだけ口をつけた。 僕はコーヒーがくるのを待った。 「そういえばさ、この前、沖縄に行ってきたよ。会社の旅行だったんだけどさ、ホテルがえらく良かったぜ」 「へぇ、そうなんだ。私も何年か前に家族で行ったよ。なんていうホテルだったの?」 「なんとか岬のなんとかロイヤルホテルとかいったな」 「なんとかばっかりじゃわかんないよ」 「ハハ、そうだよな。部屋がすごく広くてさ。でっかい窓から海が見えるんだよ。ロビーなんかもドーンと広くて吹き抜けになっていて、気持ちよかったぜ。他の連中は海とか入ってたけど、俺はロビーのソファにずっと座ってたんだ。ホテルってあるだろ。1階のロビーにさ、タダのソファが」 「タダのソファってどんなの?」 「あるじゃん、フロントのそばとかに。無料のソファだよ。低いテーブルとかも一緒に置いてあって、いつまででも座ってていいソファ」 「それをタダのソファっていうんだ?」 「そう。あれが好きでね。あそこに座ってホテルマンが働いているのとか見てるのが好きなんだよねぇ」 「海には入らなかったの?」 「入らなかったよ。海は入るより見るもんだ。海よりホテルのほうが面白いぜ。ソファだってタダだしな」 「変わってるね、相変わらず」。彼女は下を向いて飲み物をストローで軽くかき混ぜた。少しは笑ったろうか。 「今度やってみなよ。ぜったい楽しいぜ。これぞ旅行って感じだよ。・・・あれっ、コーヒー遅いな。・・・ねえちょっと!コーヒーを早く持ってきて」 隣のテーブルを片付けていた店員に声を掛けると、店員は怪訝そうな顔で奥に引っ込んで行った。 「いつもコーヒーとコーラを一緒に飲むよね。おいしいの?」 「ああ、バッチリおいしいよ。飯の前はコーラとコーヒーだよ、ぜったい。飲んでみればいいのに。・・・あ、コーヒー嫌いだっけ?」 「うん、でも最近飲めるようになってきた。しかもブラックだよ。私も大人になってきたのよ」 「ほほう、そうかい。うん、コーヒーはなにも入れないほうがうまい。コーラと飲むともっとうまい」 「コーラはいらないかな」 最初に僕らの注文をとった店員が、彼女の料理と僕の料理と、それからコーヒーを一緒に持ってきた。店員は少し申し訳なさそうな顔をしていた。 「おい君。僕は料理を食べる前にコーラとコーヒーを飲みたかったのだよ。食事をするときはだいたいそうしているのさ。料理ができる前にコーラとコーヒーで一息つく。それが僕の楽しみなのだよ。それだから、注文のときに『すぐ持ってきて』と言ったのだ。僕の要望に対して君も『はい』と言って了解したはずだよね。なるほどコーラは驚くほどすぐに持ってきてくれた。しかしコーヒーが一向に運ばれてこない。たまらなくなって催促してみると、あろうことか僕らの注文をとった君が、―君がだよ、料理とコーヒーを一緒に持ってきた。僕ははっきり言ってがっかりだぞ。そんなんでは僕の楽しみが台無しじゃないか。仮りに今からコーラとコーヒーを楽しんでも、肝心の料理が冷めてしまうではないか。そこんとこ、どうなんだね君?」 これを僕は大げさにわざとらしく、ジェスチャーを交えて店員に訴えた。それを見ていた彼女は、クククッと笑いを殺し、店員に《気にしないで、この人少し頭がおかしいから》というように合図を送った。 はじめは動揺していた店員も、彼女が笑っているのを見て安心したらしく、「すいません」と言って伝票を置いていった。 「まったく、けしからんよね」 「また冗談言って。あの店員さん、顔が引きつってたよ」 彼女の笑顔はさっきよりもだいぶ自然になった。 「食事の前のコーラとコーヒーがうまいんだよ。みんなわかってないぜ。さ、食べようか」 ――続く
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―【上】からのつづき 睦美がいなくなったということをべつにすれば、それまでの一ヶ月となんら変わらない一ヶ月が過ぎていた。 いつもどおり仕事に行き、愛想笑いを積み重ねてひとつの契約をとり、4件の顧客からクレームを出されて上司に小言を言われ、タイムカードをタイムレコーダーに差込み、週に2回同僚と飲みに出かけた。休みの日は昼過ぎまで寝込み、夕方に洗濯をして小便と糞をした。 だが、そんななかで登喜夫は時々ひどく不安定な状態に陥った。事務所で見積書の計算をしていると突然涙がとめどなく溢れてきたり、夜ベッドに入るとひどい吐き気に見舞われて、それが明け方まで続いたり。 そんなとき、登喜夫はいつもあのすべてがなくなっていた睦美の部屋を思い出した。座り心地の良い小さなソファーや壁に無数に貼られた睦美のイラスト、登喜夫が寝巻きに使っていたスウェットシャツ、そして睦美自身の気配さえもすべて消え去っていたあの寒々しい部屋を思い出すのだった。 「俺はいったいなにをやっているのだ。いますぐにでも、俺は仕事もなにもかも放り出してあいつを探さなければならないんじゃないのか?あいつの雇い主や実家に連絡をして、思いつくかぎりの人に電話をかけて、警察にでも行って、 『心当たりがあったら連絡をくれ』 と言うべきじゃないのか?」 しかし、登喜夫はそうしなかった。 そうする以前に、もう睦美はいないというはっきりとした事実だけが、登喜夫の胸を矢のように貫いた。 ある木曜日の夜、登喜夫は同僚に誘われるまま近くの居酒屋で他の2、3人と酒を飲んでいた。2時間くらい飲んで同僚たちがいい気分になり――登喜夫はあの日以来いくら飲んでも酔うことがなかった――、店を替えようと勘定を払う段になって、登喜夫はふとカウンターに座って一人酒を飲んでいる男に目を留めた。 それはあの日の易者だった。 もちろんあのときのような服装はしていなく、髪もひげも伸びきってひどくだらしない感じはあったが、間違いなくあの易者だった。 登喜夫は心臓が大きく脈打つの意識しながらすぐ男に近づいた。 男は両肘をカウンターにつき、虚ろな眼差しで目の前のグラスを睨んでいた。 「なあ、あんた俺を憶えているか?」 男は登喜夫を振り返り、一瞬目を見開きかけたがすぐ視線をそらし、立ち上がろうとした。 完全に登喜夫を憶えていた。 「ちょっとまってくれ」 登喜夫は語気を強めて男の袖をつかんだ。男は短く息を漏らし、あきらめたようにまた腰を下ろした。 「教えてくれ、なぜあのとき、あんたは俺を呼び止めたんだ?」 男はうつむいたまま、肩をすくめて黙っている。 「俺はあのとき、女の部屋に向かっていたんだ。あいつの誕生日だった。ケーキを持って部屋に行ったんだ。着いたときは約束の時間に1時間遅れていたけどそんなことでいちいち文句を言う女じゃない。だけど部屋に入ったら、・・・消えていたんだ。なにもかも。睦美も消えていたし、部屋ん中の全部がなくなっちまってたんだ。壁の画びょうさえひとつ残らずなくなってたんだ。いったいなにが起こったんだ。誰からもなんの連絡もないんだ。だれも気づいてないっていうのか?あんた占い師だろう?知ってるんだろう?なんで俺を呼び止めたんだ?俺はあいつと結婚しようと思ってたんだ。あいつはどこに行っちまったんだ?睦美はどこに行ったんだ?あいつは死んじまったのか!?」 店を出ようとしていた同僚たちが、ただならぬ気配に気付いて登喜夫を止めに入った。登喜夫は彼らを睨みつけ、ここから出て行くように言った。 「なあ、どうなんだ?」 左手で男の肩をつかみ、前後に揺さぶる。 「俺は占い師なんかじゃない」 男が搾り出すように言葉を発した。 「なに?」 「俺は占い師なんかじゃないんだ。ああいうところに座って、馬鹿なやつらを騙して小銭を稼いでいるだけだ」 登喜夫を正面から見据えた男の目は真っ赤に充血していて瞳に生気が宿っていなかった。そして、泥のように酔っ払っていた。 「騙す?」 「ああそうだ。世の中馬鹿なやつらばかりだ。もっともらしい格好をしてもっともらしいゴタクを並べてやれば4、5千円の金はすぐ出すんだ。2晩同じ場所で稼いだらまた別の街に移ればいいんだ。足がつくこともねえ」 「・・・でもあんた、俺のネクタイの色のことを言ったじゃないか。あれは・・・」 「いいか、あんたみたいにスーツを着た若いサラリーマンで、ネクタイの色に気を使わない男なんていないんだよ。みんなちゃんとネクタイを選んでいるんだ。なあ、あんた、よく憶えときな。人を騙すのなんて簡単なんだよ。 『あなたは幼いとき、何か悲しい出来事がありましたね?』 悲しみなんてのは人それぞれだ。悲しみのない人間なんていねえ。 『それは、ご家族やお友だちに関することですね?』 ガキのころ、家族や友だち以外に誰がいるってんだ。・・・そういう具合に相手を引き込んで、あとは適当にでかい虫眼鏡で手のひら見て、 『西から来る人に気をつけなさい』 だとか、 『青いものを持ち歩きなさい』 だとか言ってやればいいんだ。簡単なんだよ。あんただって、明日からでもできるぜ。ヘヘ、わかったろう?俺は占い師なんかじゃねえ。だから、あんたのその女がどこに行ったのかなんて、俺が知るはずねえだろう」 登喜夫は男の肩をつかんだ手を、一度ぎゅっと握りしめてから離し、なにも言わず出口に歩いていった。 「でもな・・・、くそっ。でも、俺はあのとき見ちまったんだ」 登喜夫は足を止めて振り返った。 「なにを見たんだ?」 「・・・くそっ、なんで俺があんなもんを見なきゃならなかったんだ。いまでも俺のまぶたの裏側にくっきりと焼きついていやがるんだ」 「なにを見たっていうんだ?」 「・・・影だ」 「影?」 「ああ、・・・あんたがあそこで同じようなサラリーマンとぶつかったとき、あんたの背中にべったりと張り付いた、あんたの真っ黒い影を見たんだ。子供が婆さんの背中におぶさるように、必死にあんたの背中にしがみついてたよ。俺は思わず声を上げてあんたを呼び止めた。呼び止めてどうするかなんて俺にはわからなかった。だけど、考えるよりさきに、俺の口があんたを呼び止めてたんだ。・・・そして、あんたがこっちに向かいかけて手を上げたとき、そのあんたの影が、顔を上げて、俺に笑いかけたんだ。・・・真っ白くてとてつもなくでかい目で、くそっ、俺に笑いかけたんだ。・・・一瞬、俺の呼吸も心臓の鼓動も全部止まっちまったよ。・・・瞳なんかありゃしない、真っ白な空洞みたいな目だ。この世の怒りや悲しみや侘しさなんかを一切合財全部集めたような目をしてやがった。・・・あんな恐ろしい思いをしたのは初めてだ」 「俺の、影・・・」 「俺はすぐにその場から逃げたよ。馬鹿みたいに走ってな」 男はグラスを取って一気に煽った。 「あれ以来、俺は上手く眠ることができねえんだ。ずっと酒でも飲んでいないと、あの影の眼差しで絞め殺されるような気分なんだ。カーテンの隙間とか、俺の目の届かないどこかからずっと見つめられているような気分なんだ。なあ、聞きてえのは俺のほうなんだよ。なんであんたは俺にあんなものを見せたんだ?なんであんたはあんな影を背負って生きていられるんだ?」 そう言うと、男はポケットから札を何枚か取り出して、カウンターに放り投げた。 登喜夫の脇を通るとき、男は登喜夫に目を向けなかった。 しばらくして登喜夫も店を出て、冬の街をあてもなく歩いた。目に付いた歩道橋を渡り、目に付いた路地に入って行き、脚だけを動かして歩き続けた。 やがてでたらめに歩いているうちに、睦美のアパートの前まで来ていた。そこに来るのはあの日以来はじめてのことだった。 路地から見上げると、2階の睦美の部屋の窓はぴっちりと閉ざされ、明かりも点いていなかった。さらに上を見上げると、空にはまた星がいくつも出ていた。冬の夜のさびしさも、凍るような寒さも感じずにその星をずっと眺めていた。 登喜夫は泣くことも、叫ぶこともしなかった。 ―おわり
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