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厳寒の昼下がり、田舎町の軽食店である。コーヒーだけでくつろぐ唐杉四郎と大原康。その二人を見つめる店主。そして、彼らを交互に眺めやる店のアルバイト。 アルバイトは不安げな様子だ。店主が日に日に壊れていく。原因はあの二人の迷惑客にあるのは間違いない。この間まで店主はこの二人を何とか店から締め出そうと思案をめぐらせていた。店の一アルバイトに過ぎない自分も、店と店主のために出来る限りのことはしようと密かに意気込んでいた。しかし、つい先日、店主が急にそれをやめてしまった。二人を締め出す計画を考えるどころか、何とも虚ろなまなざしで彼らを見つめ、ときには母親が乳飲み子を愛でるが如くの眼差しをさえ投げかけている。我々アルバイトには、カップのコーヒーがなくなり次第、淹れたてを注いで差し上げろ、と命じている。 ああ、我らが店主。御かわいそうに!心中お察し申し上げます。お一人で悩まず、我々に何でもおっしゃってください。たかがアルバイトに相談するのが憚られるのであれば、どこかでストレスを発散してください。そうです、ストレスは溜めてはいけません。サボテンが良いと聞きます。サボテンに話しかけてください。店主が話しかけさえすれば、あの、愛くるしいけなげなサボテンは、きっとあなたの悩みを全部受け止めてくれます。その全攻撃的な容姿とは裏腹に、あなたの心の傷をそっと癒してくれるはずです。決まりです。癒しの砂漠植物サボテンは、明日私が鉢植えの良いところを見繕って生花店で購入してまいります。そうしたら、なんとかもう一度、なんとかもう一度奮い立っていただきたい。もう一度立ち上がって、憎きあの二人を店から締め出そうではありませんか!我々アルバイトは全面的に協力いたします。以前のような皆が集う、雰囲気の良い軽食店をこの手に取り戻そうではありませんか! アルバイトは断固たる決意を胸に、また仕事に戻った。 見ると、迷惑客のカップが既に空になっている。店主の命どおり、淹れたてのコーヒーを手に二人のテーブルまで赴いた。 一人は眉間にしわを寄せて壁のポールゴーギャンの複製を眺めている。もう一人は、気が利くねと言わんばかりに空のカップを差し出してきた。 そして、なにやら訳の分からない話をまた始める雰囲気である。 「ときに唐杉四郎、地球上の全人類にとって、大変重要な事実が発覚した」 四郎はカップに注がれた淹れたての熱いコーヒーをうまそうに啜っていた。 「おお、大原、今日はいつになくスケールの大きな切り出しだね。何事かね?」 「淹れたての熱々コーヒーなど啜っている場合ではないぞ、唐杉四郎!全人類の危機なのだよ」 「明日地球が滅亡すると言われたって、僕は淹れたて熱々コーヒーを啜るね。そうありたいね。そうあるべきだ」 「・・・何を哲学ぶっているのだ?ソクラテスの晩秋はとっくに過ぎ去ったぞ。聞きたまえ。全人類の危機について、貴様だけには今のうちに教えておいてやろうってんだ」 「おっ、江戸っ子の口調だねえ、『江戸前寿司』とは、江戸の前、すなわち東京湾で獲れた魚をネタに使った寿司に与えられる称号だねえ」 「・・・私は帰るぞ」 「おお、すまんすまん、大原。・・・実は、飼い犬が病気でね。僕は自分で言うのもなんだが、このところ少し情緒不安定なんだよ。許してくれ、気を取り直すさ。是非とも教えてほしいね、人類の危機について!」 四郎はカップを一旦テーブルに置いて椅子にふんぞり返り、両手を後頭部で組んで、いつもの聞く体勢に入った。 「ほう、戌年に突入した途端に病気とはね、さすがは馬鹿犬、ひいてはその飼い主低脳者唐杉四郎だね」 「戌年と犬の病気、さらに僕が低脳者だということには何の関連性も無いと思うが・・・。まあ良い、で、何が危機なんだね?」 「うむ、まず今回私が提示する人類の危機とは、そもそも私が十年来おこなっている観察の結果に由来する」 「十年来の観察とはなんだい?」 「それはだな、貴様も自動車を運転すると思うが、人が車を運転している際、とくに田舎町では、往々にして犬猫と遭遇することが多々ある。急に前を横切ったり、道の真ん中で立往生していたり、飼い主に散歩を強要されていたり。出会う形は様々だがとにかく出会う。その出会ったときに、彼ら犬猫がどのような反応を示すかを、私はこの十数年観察してきたのだ」 「・・・僕は常々君のことを、大変な暇人だと思っていたが、いよいよもって大変な暇人だね」 「ふん、そうやって貴様が立場もわきまえず、類い稀な灰色の脳細胞を持つこの私を愚弄していられるのも今のうちだ」 「おお、嘯くねぇ。して、その観察の結果とは?」 「それはまず、猫の場合、道端で自動車を運転している私に遭遇した際、彼らの内87%が、『車体』もしくは『車輪』部分を見るのだ。一方、それが犬の場合、彼らの内91%が、運転している『私』を見る、という事実だ。これが私が運転中に犬猫と出会った際、彼らの反応を逐一記録して統計をとった結果だ。そして、この観察で分かったことが、まず『猫』は自動車が走っているのを見ると、それを単に一つの動く物体としてしか認識できていないということ。一方で犬はどうか、彼らはそのほとんどが運転者を見る。そう、彼らは、自動車たるものは、人間が操作して始めて動く物体であるということを認識しているのだ」 「ほう、そうなのか。・・・しかし、それと人類の危機と何の関係があるのかね?」 「まあ、早まるな。では聞くが、今年の主役『犬』と、いつになっても永遠に主役の廻ってこない『猫』とではどちらが知性が高いと、貴様は思うかね?」 「まあ、僕の愛犬も含め、一般的には犬だろうね。君もそう言いたいんだろう?」 「その通り。犬と猫とでは、犬のほうが断然知性が上回っている。今言った観察の結果でも明らかだ。しかし、しかしだ、断言するが、―いよいよ人類の危機だぞ、唐杉四郎よ!断言するが、何世紀か後、いや、早ければ今世紀中に、この我らの母なる地球を、『猫』が支配するときが来る!繰り返す、地球を『猫』が支配する!!」 「ま、まさか!?ネ、ネコが地球を・・・!ネコが!!・・・では、人間はどうなってしまうんだ!?」 「人間の行く末は今のところ私にも分からん。しかし、その人間をも含めて、猫が地球を支配するのは間違いない」 「なんたることだ・・・!!しかし、ちょっと待て、君は今、猫と犬とでは、犬の方が頭が良いと言ったばかりではないか」 「ああ言ったさ。私の十年観察がその事実を如実に示している」 「だったら何故、猫なんだ?犬ではないのか?」 「それはだな、十年変わらなかった観察結果が、ここにきて変化を見せつつあるからなんだ」 「変化?」 「ああ、ある日を境に、そう、二年前の夏ごろだ。猫が私を見だしたのだ。運転者である私を見るようなったのだよ。最初は単に偶然かと思って気にも留めなかった。しかしそれ以降、運転者を見る猫が加速度的に増えだしたのだ。去年に至ってはその数、五割を超える勢いだ。・・・そして、先日、ついに人類の危機を決定付ける出来事が起こった」 「何事が起きたのだ?」 「いつものように私が車を運転していると、ある一匹の猫が飛び出してきて危うく轢き殺しそうになった。寸でのところでブレーキを踏み、ほっと胸を撫で下ろして猫を見ると、やつは道端からしっかりと私に眼を向けて、立ち去りぎわ申し訳なさそうに、―ああ、今でもくっきりと目に浮かぶ。彼は申し訳なさそうに、『会釈』をしたのだ。エシャクをしたのだよ。何たる変化だ。いや、これはもはや変化ではない。これは進化だ。ダーウィンの進化論に基づく、空恐ろしい猫類の進化だ。やつらはこのまま進化を続け、今世紀末には私の予言通りこの母なる世界を支配するであろう」 「・・・いいや、しかしだなぁ、会釈はこれどうあれ、ネコが急に喋りだしたとか言うならともかく、そんな些細なことで地球を支配するまでには至らんだろう」 「なに悠長なことを言っているのだ唐杉四郎よ!いいか、我々人類が幾千年の昔、なにをしたがためにここまで進化し、今こうして地球を支配していると思うのだ?・・・彼らはその昔、遠くのものを見るために、手をこうして額にかざしたのだ。より遠くを見るために、額に手をかざしたのだ。ただそれだけだ。そんな些細なことをした、いいや、できたがために、その後何千万年かかけて、火を使い、斧を作り、電波を操り、挙句の果てには神の領域である『生命』までも手中に収めようとしている。そこまで進化したのだ。はじめは小さな変化に過ぎないかもしれないが、それがきっかけとなって次へ次へと進化していくのだ。今度の猫の場合はどうだ。僅か十数年の間に、自動車を操作する人間を認識し、更には人に謝る礼儀さえも身に着けようとしている。僅か十年の間に二段階も進化しているのだ。私は再度断言しよう、今世紀中に猫が地球を支配する!」 「おおお、何たることだ!そうか、僕はやっと目が覚めたようだ。来るべき未来のために我々になにができるか今の内に考えなければ!くそう、淹れたての熱々コーヒーなど啜っている場合ではなかった」 カウンターの奥では店主が虚ろな眼差しで二人を見ていた。そして、その店主をアルバイトが悲しげな表情で眺めていた。
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唐杉四郎と大原康
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晩秋の昼下がり、いつもの軽食店にはいつもの二人が寛いでいた。 唐杉四郎と大原康。 客が店を選べるように、店側も客を選ぶ権利があってもいいはずだ。カウンターの奥からこの店の店主がそう考えていた。しかし、その表情はいつになく晴れやかである。 先日立てた計画を、いよいよ実行に移し始めているのだ。 名付けて「スポットミュージックシャワー締め出し計画」 その内容は、彼らが座っている席の頭上だけに独立したスピーカーを設置し、そこから、会話に支障を来たすくらいの音量でバックグラウンドミュージックを流してやる。もともと、訳の分からない会話をしに来ている彼らは、その不自然な音量に堪えられなく、この店から撤退するであろう、というものだった。 昨日閉店後に業者が来て見積もりも出していったところだ。少々工事費は掛かるが、あの二人を追い出せると思ったら安いもんだ。明日にでも電話してすぐ工事に取り掛かってもらおう。店主は思わず顔がほころんだ。そして、アルバイトを呼び止めると、二人におかわりコーヒーを注いでやるよう指示した。 アルバイトは普段ならありえない店主の指示に戸惑いながらも、淹れたてのコーヒーサーバーをもって二人の席まで行った。途中振り返って店主を見ると、なにやらニヤニヤと笑っている。店主はとうとう精神を病んでしまったと思い「心中お察しします」と呟いた。 そんな店主の計画やアルバイトの店主への同情心などどこ吹く風、唐杉四郎と大原康は、今日もなにやら訳の分からない話を始める雰囲気である。 それまで、頬杖えを突いて壁のポールゴーギャンの複製を眺めながら、時折「うーん、わからん」などと呟いていた大原が、四郎に呼びかけた。 「時に唐杉四郎、今日は貴様に考えてもらいたいことがあるのだが」 椅子にふんぞり返って後頭部で両手を組んでいた四郎は、そのままの体勢で「なにごとだ」と言った。 「うむ、まあ、でも貴様のような低脳者には酷な質問かも知れんな」 「ほう、いつにも増して見下すね、少し失敬だな。内容によってはわからんぞ、僕だって的確な回答が出来ないとも限らん」 「おお、どこからそんな自信が沸くのか検討がつかんね。唐杉四郎、少し身の程をわきまえたまえ」 「大原、あまり僕を見くびるなよ。いいから早く言いたまえ。考えてほしいこととは何だね?」 「では、単刀直入に聞くが、・・・骨付きウィンナーの骨って誰の骨?そしてあの骨は何のために付いてるの?」 「・・・はっ?ホネツキウィンナー?」 「やはり、貴様のような低脳者には酷な質問だったな。いいさ、忘れてくれ」 「おい、いや、ちょっと待て。あまりに唐突だったもんでな、骨付きウィンナーの骨か、あ、あれはだな、あれだ、動物の骨だ。そうさ、そうに決まっている」 ここで大原は深いため息をつき、両の手を広げて『お手上げ』のポーズをとった。 「決定だ。唐杉四郎、キミはやはり低脳者だ。・・・あろうことか動物の骨とはな。いいか、骨というものは、そもそも動物にしか付いておらん。この疑問はそんな浅はかな答えで解決できるような疑問ではないのだ。・・・仕方がない、筋金入りの低脳者にもう少し詳しく説明してあげよう。心して聞きたまえ」 四郎は額の汗を拭いながら、少し落ち込んだ様子だ。 「まず、焼肉店などでは頻繁にお目にかかる『骨付きカルビ』、これの場合はどうだ?・・・考えるまでもない、『骨付きカルビ』に付いている骨、これは、今は敢無くカルビとなってしまったが、元々は元気に牧場で牧草を喰らっていた牛の骨だ。牛が骨付きカルビに加工せられると同時に、骨もその一部に含まれる。同じく骨付きチキンなどもこの種類に該当する。おい低脳者、ここまではわかるな?」 「ああ、勿論だ。さすれば、骨付きウィンナーの場合も同じではないのか?」 「貴様の低脳ぶりはまさに天井知らずだな。よいか、そもそもウィンナーという食物は、『加工肉』なのだぞ。肉をミンチにして色々な調味料や香辛料を調合し、それをよく練りこみ、羊の腸などに詰め込むというものだ。この過程において、骨は一切使用しない。にも拘らず、骨付きウィンナーには骨が付いている。と言うことはだ、まず牛や豚を肉と骨に分けてウィンナーを作り、その後でもう一度ウィンナーと骨を結合させるということになる。さあ、そこで先ほどの質問だ。『骨付きウィンナーの骨って誰の骨?』・・・ああ、唐杉四郎何も言わんでよろしい。貴様の低脳回答などうんざりだ。まず、思いつくのが、ウィンナーも骨も元々同一の所有者であった、という考えだが、―おそらく貴様もその程度だろう。これは極めて可能性が低い。なぜなら、毎日大量の骨付きウィンナーを製造する工場において、一度分けられた肉と骨を完璧に管理するなど物理的に不可能だ。解体する際、あらかじめ肉と骨に目印となる記号などを記しておいて、『おっ、これはAという豚のウィンナーであるからAの骨を付けよう』などとは出来ないだろうし、意味がない。記号なんて書いてある骨付きウィンナーなどにお目にかかったことも皆無だしな」 「・・・うーむ、なるほど、大変に奥が深い疑問だね。『骨付きウィンナーの骨って誰の骨?』。僕などには皆目見当が付かん」 「当然だ。私のこの灰色の脳細胞を駆使し、思考に思考を重ねたにも拘らず明確な回答が得られていないのだ。貴様などに考えを聞いた私が間違っていた。・・・まあ、やはり誰の骨なのかなどということは、誰にも分からんのかも知れんな。そもそも牛や豚の骨なのかということも疑わしい。世の人々は、どこの馬の骨かも分からん骨にしゃぶりついて喜んでおるのだ。なんと嘆かわしいことだ」 「おっ、洒落たねえ。さては、それが言いたかったのだな。『どこの馬の骨かも分からない骨にしゃぶりついている』ハハハ、どうだい?図星だろう?」 大原は悲しげな眼差しで四郎を凝視した。 「ハハハ、うまい洒落だねぇ」 大原は、説明しても無駄だといわんばかりに首を横に振った。 「ところで、もうひとつの疑問はどうなんだい?何のために骨が付いているのか?」 勘違いとも知らずに意気揚々としている四郎が大原に聞いた。 「・・・ああ、それについてはある程度はっきりしておる。原始時代を舞台にしたマンガなどによく出てくるだろう、骨が付いている肉にかぶりついている原始人が。あれを目指したのだ。人間が持つ野蛮で原始的な欲望を満たすためだけに、ウィンナーに骨を付けたのだよ」 「マジかよ。・・・人間とは何て愚かな生き物なんだ」 カウンターの奥では、店主が苦々しげな表情で二人を見ていた。
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晩秋の昼下がり、唐杉四郎と大原康である。 軽食屋の店主は虚ろな眼差しで二人を見ていた。 何とかして奴らを追い払う法はないものか。あからさまに来店拒否も出来んだろうし、出涸らしコーヒー作戦もまったく効力を発揮しない。 半ば途方にくれて、ふと天井を見上げた。とても雰囲気のあるペンダントライトが随所に設置してある。その陰の天井埋め込みのスピーカーからは軽食店には欠かせないBGMがさりげなく流れていて、いい雰囲気を醸し出している。 店主はこの店がとても気に入っている。インテリアの細部に至るまでこだわって、バックグラウンドミュージックの選曲も妥協を許さない。 あとはあの二人さえいなければ、くそっ。見ると二人の席の頭上にもスピーカーが設置してある。 ・・・頭上のスピーカー、BGM・・・。 その瞬間、店主にはある名案がひらめいた。 いつもはいい感じの音量で流れている音楽を、奴らの頭上のスピーカーからだけ少々大きい音量で流したらどうだろう。いつもくだらない話をしにきている奴らだけに、音楽が気になって会話どころではなくなるだろう。 これはいけるぞ!さっそく業者に連絡してあそこだけ独立した配線を組んでもらおう。手元にボリュームをつけて、場合によってはアンプも増設しなければならないかもしれない。しかし、少々の設備投資は致し方あるまい。より良い店にするためだ。 店主は業者に連絡すべく、意気揚々と電話を取った。 一方、そんな店主の思惑など知る良しもない唐杉四郎と大原康は、今日もなにやらくだらない会話を始める様子である。唐杉四郎が口を開いた。 「おい大原、ジャパンカップはどうだった?」 それまで壁のポールゴーギャンの複製を眺めていた大原は、興味なしといった風で返事をした。 「別にどうしたもこうしたもないが」 「なに、お前買わなかったのか?ランフランコ・デットーリの単勝馬券、買わなかったのか?」 「ああ、買わん」 「おまえは阿呆か?僕があれほど言ったじゃないか、全財産をデットーリにつぎ込めと」 「そういえば言っていたような気もするな。貴様は買ったのか?」 「無論だ。なけなしの3,000円をつぎ込んで見事31,800円だ!」 「ほう、すると予想が的中したと言うわけか、それはたいしたもんだ。貴様にしては珍しいな。どこからそんな自信が沸いたのだ」 「当たり前だ。なにせデットーリだからな」 「なぜそんなにデットーリを推すのだ」 「いいか、思い返せば2年前のジャパンカップウィークだ。まず土曜日のジャパンカップダート。彼は日本のイーグルカフェに騎乗した。イーグルカフェといえば、小島太調教師管理の、本来相当な実力の持ち主にも関わらず、その気性の荒さからなかなか勝ちきれなかった馬だ。日本のトップクラスの騎手たちをもってしても、その気性は抑えられなかったのだ。そんな馬に騎乗して、デットーリは見事勝利した。1着だ。そして勝利騎手インタビューで、彼は何て言ったと思う」 「見当もつかんな」 「彼はな、『乗り易い』と言ったのだ!日本の誰が乗っても乗りこなせなかった馬に騎乗して、そしてすんなり勝って『乗り易い』と言ったのだぞ!乗り易いわけないではないか?それなのに『乗り易い』だ。次元が違うのだよ。デットーリは!」 「ほう、ただの阿呆のようにも思えるがな」 「何てことを言うんだ。かの吉田照哉氏をして『デットーリが乗ると5馬身違う』と言わしめた男だ。そして翌日の本番ジャパンカップも、フランスから参戦の人気薄馬、ファルブラブに騎乗してまた見事1着だ。あっという間に二つのジャパンカップをかっさらって風のようにイタリアに帰っていった。まさに衝撃的な出来事だった」 「ほほう、そして今年もそのデットーリが勝利したと言うわけか、なるほど。では、そのデットーリに敬意を表す意味でも、君がデットーリのお蔭をもって獲得せられた31,800円を使って腹を満たしつつ、更にデットーリ談議に花を咲かせようではないか」 「・・・素直に『奢れ』とは言えんのか?」 四郎の言葉は聞こえなかったふりをして、大原はメニュー表を広げた。 「さてさて、何を食すればデットーリ氏に敬意を表せるかな、・・・やはりイタリア人だけにパスタが良いだろうか」 四郎は恨めしげな顔で大原を見つめ、自分も渋々メニュー表を広げた。 と、急に大原が顔を上げた。 「そうそう、君に言うことがあったのだ。くだらないお馬さんの話などしていたもんだからうっかり忘れるところだった」 「そのくだらない『お馬さん』がもたらした金で、君はパスタを食おうとしているのだよ。そんな風に競馬を侮辱すると僕は金輪際奢らんぞ」 「ハハハ、まあそうカッカするな。言葉のあやだよ」 「言っていいことと悪いことがある。・・・で、なんだ言うこととは」 「うむ、実はサラダについてなんだがな」 「『野菜サラダ』と『気まぐれシェルのサラダ』のことか?」 「いいや違う。私は同じことは二度と言わない。今日はサラダの日本語訳についてだ。唐杉四郎、君はサラダの日本語訳を知っているか?」 「・・・サラダの日本語訳か、・・・野菜、ではないのか?」 「きみは阿呆だな。それはベジタブルであろう。サラダは料理名だ」 「おお、そうか、では、・・・生野菜か?」 「いよいよ阿呆だな。もうよい、いいか、サラダの日本語訳などないのだ。少なくとも私の知る限りではな。なぜか?それはな、サラダは西洋伝来の料理だからだ。いつの時代かは知らんがサラダが日本に伝わってきたと同時に、その名称も『サラダ』として広まっていったのだ。そして今日に至るまで日本語に訳することなくサラダは『サラダ』として、日本人は何の疑いもなく呼称しているのだ」 「おおそうか」 「しかし考えてみてくれ。古代から様々なものが西洋から伝来しているが、大概は日本語訳が付くものだ。例えば『Car』は自動車、『Freedom』は自由のように。然らば『サラダ』に日本語訳がついてもよかろう」 「うむ、そう言われてみればそうだな」 「そこでだ、私はこの度、晴れてサラダに日本語訳をつけた。近々文部省にでも赴いてその語を新しい日本語として登録させるつもりだ。ひいては近い将来私が作った日本語が標準化される前に、我が友唐杉四郎にだけはその語教えておこうと言う次第だ。いまから発表するから心して聞きたまえ」 「おおそれは光栄の至りだな。新しい日本語が誕生する機に立ち会えるとは。それではしかと拝聴させていただくことにしよう」 四郎は座ったまま背筋を張り、拳を膝に置いて姿勢を正した。大原がわざとらしく咳払いをする。 「サラダの日本語訳、それは、・・・『野菜炒めない』とする」 「・・・野菜炒めない。『野菜炒めない』・・・か、そうか、『野菜炒めない』。ううむ」 「おや、どうもしっくりこないようであるな。まあ、君のような凡人には理解しがたいだろうが、サラダを表す日本語でこれほど適切な語は他には有り得ないね。まあ、覚えておきたまえ。何年か後には『野菜炒めない』と言う文字が巷に溢れ出すよ」 「ううむ、そうか、覚えておくよ。『野菜炒めない』。でもなんだか言い易いね。思わず口に出したくなる言葉だね」 「おお、さすが我が友唐杉四郎!少しは分かるようだね!そこが重要なのだよ、新しい日本語たるもの、皆に親しまれる心地よい語でなくてはだめなのだよ。『野菜炒めない』を思いついたときは我ながら恐れ入ったさ。私はこの調子で色々のものについて造語していくつもりだ」 「野菜炒めない・・・野菜炒めない」 「どんどん言いたまえ!」 カウンターの奥では店主が苦々しげな表情をしながらも、俯いて「ヤサイイタメナイ」と呟いていた。
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晩秋の昼下がり、例の軽食屋には大原康の姿しか見えなかった。彼はコーヒーを啜りながらいつものように壁のポール・ゴーギャンを眺めていた。 |
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晩秋の昼下がり、唐杉四郎と大原康は当然のごとく、四郎宅そばの、このいつもの軽食屋にいた。彼らはもはや、四郎宅からならば目隠しをされた状態でも、この軽食屋のこの席にたどり着くことが出来るだろう。 |







