ミグ25事件の教訓(1)
ミグ25事件とは
数日前「NNNドキュメント'06」というテレビ番組で、『自衛隊制服組の叛乱〜ソビエト軍を撃滅せよ〜』というのをやっていた。「叛乱」とは何事だ、とテレビ局の偏向したタイトルの付け方に腹が立ったが、内容的には当時の連隊長や中隊長が証人として出演しており、なかなか見ごたえのあるものであった。
「ミグ25事件」というのは、1976年9月6日、当時ソ連軍のパイロットであったビクトル・イワノビッチ・ベレンコ空軍中尉(29歳)がアメリカへ亡命したいという理由で、ソ連軍最新鋭戦闘機ミグ25に乗ってわが国の防空システムを巧みにかいくぐり、函館空港に降り立った事件である。その時、ソ連軍が最高軍事機密の漏洩を避けるために、この戦闘機の奪還もしくは破壊を目的に函館に攻めてくる、といったうわさが新聞紙面に躍り、実際緊張が日本列島を駆け巡った事件である。8日付け地元夕刊紙などは「函館駐屯地部隊が臨戦態勢。全隊員が駐屯地内に泊り込み。ミグ25戦闘機をめぐり、ソ連軍相手に函館戦争」という大見出しを打った。結果的にソ連軍は攻めて来ず、この心配は杞憂に終わったのであるが、その間の政府の対応や自衛隊の行動は一切公表されなかった。時の総理大臣三木武夫と防衛庁長官坂田道太がこの事件の全記録破棄を、陸海空幕僚長に指示したのである。当時私は大学生で、テレビでこのニュースを注意深く見守っていた。ベレンコ中尉は無事アメリカに亡命を果たし、ミグ25戦闘機もその機体の分析が終わった後、ソ連へ貨物船で返還された。表面的な事象はテレビなどで分かったが、事件の真相が分からないまま終わってしまったという記憶がある。
後に、この事件について元陸上自衛隊第11師団法務官であった大小田八尋(おおこだやひろ)氏が、政府によって破棄を命じられていた記録の部分を、現場に居合わせた自衛隊法務官としての立場から再現・検証されている(『文芸春秋』2001.1月号「ミグ25事件『ソ連軍ゲリラを撃滅せよ』」)。これを読むと、当時この事態を受けた現場自衛隊員の苦悩と、上級司令部の責任回避的な対応ぶり、政府の保身的な対応ぶりがよく窺える。
「ミグ25戦闘機を奪還、または破壊するため、ソ連軍ゲリラが日本に侵入する動きを把握した。情報源はスイス駐在のアメリカ大使館付武官である。」8日早朝、アメリカ政府筋からもたらされた情報を、自衛隊の幹部たちは<A−1情報>だと判断した。
<A−1>情報というのはA=情報源が完全に信用できる、1=内容が既存の情報と照らし合わせ事実と判断される、という評価である。この情報をもとに、自衛隊内部では有事に備えて動きがあわただしくなっていった。自衛隊の部隊を戦闘目的で動かすには、総理大臣の「防衛出動命令書」が必要となる。それがないと、先制攻撃を受けてからでないと反撃できない。現代戦の先制攻撃というのは、その一撃で致命的な打撃を受ける。先制攻撃を受けてからでは遅いのである。函館空港に着陸したミグ21を奪回もしくは破壊するために、今にも押し寄せてくるかもしれないソ連軍に対し、その時自衛隊はどう対処しようとしたのか。上述の大小田氏の論文を参考に自衛隊内部の模様を追ってみる。
現場自衛隊員たちの苦悩
一番その苦悩の矢面に立たされたのは、国を真剣に守ろうと考えていた自衛隊員たちである。第一線に立たなければならない函館駐屯地の高橋永二第28連隊長は、札幌にある第11師団司令部渡邉忠綱幕僚長に指示を仰いだが、指示を出さなければならない立場にある渡邉は一切指示を出さなかった。陸上自衛隊の運用・作戦をつかさどる陸上幕僚監部(東京・六本木)のトップである三好秀男陸幕長は、この事態に当然「防衛出動命令」が下るものと判断し、田中象二北部方面総監(札幌)に「函館空港に侵入する敵は、これをただちに撃滅せよ」と命令(見切り発車)を発した。命令を受けた田中北部方面総監は第11師団(札幌)の近藤靖師団長にこの「防衛出動認可」を口頭で伝えた。そしてこの命令が第28連隊高橋連隊長に「師団命令」として伝えられたのである。
三好陸幕長は当然総理が「防衛出動命令」を認可するものだと考えていた。ところが防衛庁内局でその草案作りの作業を進めていると、突然、伊藤防衛局長からストップがかかったのである。理由は「いま、国会は三木降ろしの大合唱中で、総理官邸は次期首相の選出をめぐって大騒ぎで、総理に連絡をとることさえままならない。決済文書を出したところで門前払いを食らうだけ。」というのがその理由であった。また、「坂田道太防衛庁長官もミグ25の機体調査を航空自衛隊に移管させることで頭がいっぱいで、とりつく島がない。」というのが伊藤防衛局長の説明であった。(ミグ25事件はその初動段階から警察が「刑事事件」として取り仕切っており、自衛隊関係者はミグ戦闘機に近づくことさえ出来なかったのである。)この一刻を争う国家の緊急事態に、政府はなにを考えていたのか、‥‥今思うと空恐ろしくなる。
三好幕僚長はこうした予期せぬ事態に、引き続き総理に「防衛出動命令」を具申することを指示し、高橋連隊長には直接次のように電話を入れている。「俺が腹をくくるから、貴官は空港に侵攻してきたソ連兵を、一人たりとも生かして帰すな。第28連隊の対処行動は、陸上自衛隊の存亡にかかわる重大なものだ。全員一致団結して、防衛任務を完遂せよ。」と。
その後、高橋連隊長は駐屯地の全部隊を「第三種非常勤務体制」におき、引き続き中隊長と幕僚だけの中幕会議を開いた。その席で佐々木茂雄第1中隊長が「連隊がやろうとしていることは防衛出動です。上級指揮官から、しっかりした根拠命令をもらう必要があります。それでないと、隊員は犬死になります。」と全員の本音を代弁する意見が出された。正式な「防衛出動命令書」がない状態で戦闘行為が開始されれば、法的には高橋連隊長の独断専行となりかねない。口頭での命令は証拠が残らないから、最悪の場合、現場の指揮官である高橋連隊長の暴走によってソ連との戦争が始まったことになってしまう。三好幕僚長から佐々木中隊長に至るまで、国を守ることをまっとうしようとすれば、法の後ろ盾なく戦闘を始めるほかない、という深刻なジレンマの中に彼らはおかれていたのである。こうした事態を招いたのは、最高指揮官である内閣総理大臣、防衛庁長官の責任回避に他ならなかった。
第28連隊に対する応援体制も整わなかった。初期行動において適切な指示を下さなかった第11師団司令部、渡邉忠綱幕僚長はまたしても第28連隊の行動に水を注した。函館に向かっていた105ミリ榴弾砲中隊を、マスコミの目を気にして急遽反転、札幌に引き揚げさせてしまったのである。頼りにしていた8,300メートルの最大射程をもつ105ミリ榴弾砲という戦力を失って、第28連隊の幕僚たちは落胆した。この一大事に「防衛出動」を下さない総理にも落胆したであろうが、自分たちのすぐ上の上級司令部が現場の状態をまるで他人事のように冷ややかに見ていたことに、さぞ落胆というか憤りを覚えたに違いない。
高橋連隊長は9月10日、駐屯地の全隊員を講堂に集め、状況を把握していない隊員たちの前で訓示した。「ソ連軍ゲリラが函館にやってくるような事態は、現在までの状況から見てそう簡単には起こらないであろう。しかし、我々は万一の場合、国のため国民のため、そして自衛隊の存在意義のために、断固として戦う以外に途はない。その時は全員一致団結して戦おうではないか。上層部もやる気満々で『断固としてやれ』と指導された。私はいつも諸官の先頭に立って戦う。我々が戦わずして、誰が戦うのだ。」と。東郷平八郎元帥の「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」という名文句を髣髴とさせる訓示であった。第3中隊長大北太一郎もこの訓示の後、64名の部下を中隊宿舎に集め出撃宣言を行った。しかし彼は、ついて来るのも残るのも自由であると言った。しかし、彼の言葉が終わるやいなや、40人の陸曹全員が、そして2年満期の陸士全員が出撃の決意を示したのである。強制ではなく、自衛官であるという使命感、そして何より仲間としての信頼関係によるものであった。大北はあふれる涙をとどめることができなかった。彼は心の中で硬く誓った。「この部下たちのため、命を捨てよう。決して彼らを犬死させない。」
11日、札幌から近藤師団長が函館入りをした。高橋連隊長を直接指導に当るためだ。13:00から師団幕僚だけによる「武器使用の条件」について話し合われたが、その席で「防衛出動」が発令される前にソ連軍が空港に侵攻した時の武器使用について確認がなされた。総監部から派遣されていた運用班長は「その時はその時で、師団長が決心すればよい」との総監部の見解を伝えた。つまりそれは、いざ事が起こったら連隊長が現場で即時に決断し、それにともなう結果については師団長が全責任をとれというものであった。陸幕と総監部には一切責任が及ばないという話である。陸上自衛隊総監部の「責任回避」「責任転嫁」である。当然、幕僚たちの間から総監部に対する不信感を表す意見が出た。近藤師団長は田中象二北部方面総監(札幌)に電話を入れ師団としての考えを伝えるが、武器使用が連隊長の”決断”から師団長の”判断”に変更にされただけで、依然、総監部のあいまいな玉虫色の回答だけであった。
その日の15:00、レーダーが不審な機影3機を捉えた。それまでの状況から高橋連隊長はソ連機の襲来と判断し、即座に隊員たちに出撃命令を下した。高橋連隊長が出撃命令のため飛び出して行った後、作戦室に残った近藤師団長は目を閉じ腕を組んで動かなかったが、しばらくして「レーダー情報はソ連軍機かどうか、しっかり確認しろ。」と部下に命令した。間一髪、その3機の機影は友軍機(航空自衛隊のC1輸送機)であることが判明した。航空自衛隊がレーダー監視訓練のためしばしば出す、ダミー目標だったのである。
この件が落着した後も、ソ連軍の襲来が排除できない日々が続いた。東京の永野副幕僚長から高橋連隊長のもとへ激励の電話が入る。「日本国民が第28連隊の行動を見ている。絶対にソ連兵に遅れをとるな」と。高橋連隊長は「ミグ事件」終息後のことを考えてか、電話機に拡声装置を取り付けた。部下たちにそのやり取りを聞かせたのである。口頭命令ではのちのち証拠にならない。正式な「防衛出動命令」はなかったが、我々は幕僚長たちの指導監督の下で行動した、とのちのち証言するためのものであった。
「ミグ事件」が大事に至ることなく終息した後、政府はこの事件を記録の上から抹殺しようとした。総理大臣と防衛庁長官は、現地部隊の一切の行動を永久に消し去る途を選択したのである。「自衛隊が奇襲に際し超法規的行動をとることなどあり得ない。それを認めれば、わが国のシビリアンコントロールは危機に陥る」と判断したからである。陸幕長の三好は破棄方針に反対して辞任。真相は長い間闇に包まれることとなったのである。
参考文献 『文芸春秋』「ミグ25事件『ソ連軍ゲリラを撃滅せよ』」大小田八尋(2001/1月号)
shiraty5027
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う〜〜〜んですね。当時ミグ25は最新鋭だったかもしれませんが武装集団まで送り込んで取り返すか破壊するという発想が時代錯誤に思えてなりません。米軍が分解して見たら真空管が見つかったり機体は高価な金属ではなく薄版の鉄板だったり。重要な部分以外は高価な部品は使わず合理的な設計思想で最新鋭の機体を飛ばすソ連に専門家は思わずうなったそうです。
2006/11/16(木) 午後 7:31
この事件の2ヶ月前、ウガンダのエンテベ空港でパレスチナゲリラによるハイジャックがあり、その時イスラエルは特殊部隊を送り、犯人全員を射殺するという事件がありました。ソ連がこうした奇襲戦法で最高機密を満載した最新鋭機を奪還、あるいは破壊することは大いにあり得る事だと当時考えられたのも当然ではないでしょうか。
2006/11/16(木) 午後 9:01
すごいことがあったんだね
2017/2/13(月) 午後 10:40 [ tasan0330 ]