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そこで妓生(キーセン)について調べてみた。“妓生”というのは日本ではよく“娼婦”と同義語として用いられるが、実は日本でいうところの“芸者”と“娼婦”を兼ね備えた女性たちのことだそうである。兼ねるといっても、花魁(おいらん)のような身分の高い人から低い人まで、また、歌舞・学問・詩歌・鍼灸(?)などを務める人から、専ら身体だけを売る人まで様々であったようである。その“妓生”も時代によっては役割や区分が異なり、李朝末期には“医女”まで妓生の範疇に入っていたという。 妓生の歴史は、新羅や高麗時代にさかのぼるといわれている。高麗時代には官妓・官婢の中で容姿の優れた者を選別し、歌舞を慣わせ女楽としたとある。朝貢国であった朝鮮は、宗主国である歴代中国王朝に“貢女(コンニイ)”と呼ばれる若い女性を献上していた。宮廷慰安婦の献上である。また李朝時代には、“妓生庁”という役所を設置し、国家管理の下に妓生を育成していたという。 妓生は、大東亜戦争のときは、あらためていうまでもなくお得意先である日本軍に寄生してその営利をむさぼるのだが、終戦になりやがて朝鮮戦争を経ると、今度は新たに米軍を顧客として営業を展開するのである。ところが非合法組織であるヤクザがその営業に関与していたために、ときの政府はそれに目をつけ、その取締りを名目にヤクザからすべての営業利権を取り上げ、横取りをしてしまう。今度はそれを“国営妓生”というかたちで国家が運営していくのである。要するに娼屋に掲げられた用心棒ヤクザの代紋が、国家の代紋に替わっただけなのである。また、朴正煕大統領が推進していた、国策としての売春観光政策(キーセン・ツアー等)なども、のちに盛んに行なわれた。 その後妓生たちは、ベトナム戦争に“従軍慰安婦”として従事し、“漢江の奇跡”(驚異的な経済成長)以後はその需要の多さから、フィリピン女性やインドネシア女性、その他の東南アジア女性やロシアの女性といった人々を次々と雇用し、その市場を拡大していったのである。 2004年韓国政府は“性売買特別法”なるものを施行したため、多くの妓生たちは「これまで国が奨励してきた売春をなぜ禁止にするのか」という不満から、ソウルで“売春させろデモ”を起こすのである。丁度、終戦直後、我が国で“不良三国人”取締りにさんざんヤクザを利用してきた警察が、ある日あるとき突然、今度はそのお世話になってきたヤクザを取り締まったようなものである。しかし、妓生たちの抵抗は空しく、行き場のなくなった妓生たちは次々と海外へとその活路を見出しに行くのである。その海外で妓生たちが色々問題を起こしているのが、今日の状況なのである。 妓生について駆け足で述べてきたが、妓生というとやはりチマ・チョゴリの妖艶な女性がイメージされる。丁度外国人が日本の女性をきれいな着物姿でイメージするように、私は妓生といえばチマ・チョゴリである。ソウルに“礼智院”という花嫁修行のための学校がある。そこを訪れたとき、そこの女校長が盛んに「チマ・チョゴリのチョゴリ(ジャケット)は世界で一番丈の短いジャケットで、機能的にも世界で一番優れていて、世界に冠たるジャケットです」と“世界一”を何度も連呼しながら吹聴していた。確かに乳児にオッパイを飲ませるとき、この“世界に冠たる”ジャケットは機能的だ。少し前を上げるだけで、すぐにオッパイを出すことができ、瞬時にして子供の要求に応えられる‥‥。う〜ん、その要求は別に乳児だけではないのよね〜、と感慨に耽りながらその場を後にした。 あっ、閑話休題。韓国(朝鮮)はまことに妓生文化が盛んである。いや、盛んであった。どうか韓国(朝鮮)が唯一世界に誇れるこの伝統文化をぜひとも復活させ、大切に継承していってもらいたい。何なら“世界文化遺産”に推薦してもいい‥‥。それほど妓生が好き、いやもとい、チマ・チョゴリの色彩とデザインが、私は好きなのである‥‥。 <おまけ> 新喜び組セクシーダンス 北朝鮮美女ダンサー「喜び組」 |
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貢女(朝鮮語: 공녀、コンニョ)とは、女性を朝貢品の1つとして献上すること。
李氏朝鮮時代もも続いていたが、高麗からの場合のみを説明する。
高麗時代の献上先は蒙古、契丹、明であり、貢女だけでなく多くの朝貢を強いられていた。
以下に高麗史からの資料を示す。
結婚都監(ko:결혼도감)を置き、140名の貢女を行い、
貢女確保のために国中の婚姻が禁止されて、
寡婦處女推考別監(과부처녀추고별감)という役所を設け組織的に対応した。
高麗史 元宗3、世家第27 高麗史27 元宗15年(1273年)3月
求娶妻室 故差委宣使肖郁押官絹一千六百四十叚前去下高麗國令有司差官一同求娶施行" 肖郁令選無夫婦女一百四十名
獨女逆賊之妻 僧人之女
高麗史 十六 世家巻第二十八 忠列王一 忠烈王元年(1275年)冬の条 10月
癸未 遣僉議贊成事兪千遇如元
2012/5/19(土) 午前 6:59 [ 反日デモは黄色人種の恥晒し ]
今回も最新コメントから拝読させていただきました。
>女性のガイドさんにしつこく妓生について訊ねたら
2007年当時から鋭い中にもHな論調、大変勉強になりますw
>少し前を上げるだけで、すぐにオッパイを出すことができ、
子供の要求だけではありませんねww
仰せの通り、現在においても世界に誇れる伝統文化。
「国技」と言えますねwww
傑作クリックです。
2012/5/19(土) 午後 9:56 [ nadarechan1113 ]
nadarechan1113さま
本人も忘れているような古い記事を読んでいただき
誠にありがとうございます。
昔は毎日記事を書いていましたから、改めて読むと赤面です。
傑作ありがとうございました。
2012/5/20(日) 午後 8:45
朝鮮の公娼制
1916年3月に「貸座敷娼妓取締規則」が公布、朝鮮全土で公娼制が実施され、日本人・朝鮮人娼妓ともに年齢下限が17歳未満に設定された。
また1910年代前半の女性売買の形態としては騙した女性を妻として売りとばす事例が多かった。
当時、新町・桃山両遊廓は堂々たる貸座敷であるのに対して、「曖昧屋」とも呼ばれた私娼をおく小料理店はソウル市に130余軒が散在していた。
第一次世界大戦前後には戦争景気で1915年から1920年にかけて京城の花柳界は全盛を極めた。
朝鮮人娼妓も1913年には585人であったが1919年には1314人に増加している。
1918年の京城・本町と鍾路署管内での臨検では、戸籍不明者や、13歳の少女などが検挙されている。
1910年代の戦争景気以前には、朝鮮人女性の人身売買・誘拐事件は「妻」と詐称して売るものが多かったが、1910年代後半には路上で甘言に騙され、誘拐される事例が増加している。
1920年代には売春業者に売却された朝鮮人女性は年間3万人となり、値段は500円〜1200円であった。
2017/5/13(土) 午前 10:41 [ 国益平和マネジメント ]