「昭和維新の歌」その解釈と鑑賞(九)
昭和維新の歌(九番)
功名(こうみょう)何(なん)ぞ夢(ゆめ)の跡(あと) 消(き)えざるものはただ誠(まこと)
人生(じんせい)意気(いき)に感(かん)じては 成否(せいひ)を誰(だれ)かあげつらう
文 法
功名(名) 何(代名) ぞ(係助詞・強意) 夢(名) の(助詞) 跡(名)
消え(動・ヤ下二・未) ざる(助動・消・体) もの(名) は(助詞) ただ(副) 誠(名)
人生(名) 意気(名) に(助詞) 感じ(動・ザ四・用) て(接助詞) は(係助詞)
成否(名) を(助詞) 誰(名) か(係助詞・反語) あげつらう(動・ハ四・体・結び)
※ 活用形は文語文法による。尚、主要な助詞には「種類」を付した。
三句目の句末「ては」は、「て」(接続助詞)+「は」(係助詞)という形になっている。これを「て」のついた語句(「感じ」)を取り立てて強調する意味で解釈すると、結句(四句目)とうまくつながらない。つまり「我々が意気に感じている→シタガッテ→事の成否を誰があげつらおうか」ということになり、きわめて独善的な文になってしまう。それでは、この形を「順接確定条件」と考えると「自分たちが意気に感じている→ノデ→事の成否を誰があげつらおうか」と、これもまた独りよがりな文になってしまう。つまり、この部分は「順接仮定条件」で考えなくてはならないのである。「もし〜なら」「もし〜たら」と訳せば「もし(人が)我々の行動を意気と感じてくれたならば」とすると、結句(四句目)の「誰が(我々のとった行動の成否を)あげつらおうか、いや、あげつらわない」と、違和感なく訳せるのである。
語 句
功名
手柄を立てて、名をあげること。また、その手柄。
夢の跡
夢のように消えうせた所。現実のむなしさをいう。
誠
いつわりでないこと。真実。
意気
事をやりとげようとする積極的な気持ち。気概。いきごみ。
成否
事が成ることと成らないこと。成功するか失敗するか。
あげつらう(論う)
物事の良し悪しなどを議論する。
解 釈
名誉や手柄などというものは一時の夢のようなもので、すぐに消えうせてしまうものだ。消えないものは
ただ真実のみである。もし(人が我々の行動を)正義の意気だと感じてくれたならば、我々の行動の成
功・失敗を、誰が良かった悪かったなどと議論しようか、いや、しないだろう。
鑑 賞
三上卓は、結句の部分で「我々の義憤に満ちた正義の行動の結果の良し悪しを誰が評価・議論しようか、いや誰もしないだろう」と言っている。つまり、決起が成功しても失敗しても、その結果の良し悪しを誰も問題にしないだろうと言っているのである。むしろこの部分は、「成否」ではなく「正否」ではなかったか‥‥。成功や失敗(結果)の良し悪しを議論しないだろうというのではなく、むしろここは直截に彼らの決起(行動)そのものについて、それを支持するだろうと言ってほしかった。たとえその行動が非合法的であったとしても、それは「天誅」なのであり、誰も問題にはしないはずだろうと‥‥。 つづく
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蹶起の成否を論うことはしない。それは余人がやればよい、我々は蹶起あるのみ、行動のみ、その結果は問わないという行動者の覚悟の程を吐露する。この点で政治の結果論理とは異なる心情論理である。
2007/12/3(月) 午後 6:32 [ hiromichit1013 ]
先生、この歌詞は、政治の結果理論ではなく心情理論ということは確かにそうなのですが、この部分の詩の解釈はどうでしょうか。註にも書きましたが、文法的にみてみると、どうも巷で訳されている解釈はしくりこないのです。そのへんについて是非お伺いしたいと思います。
2007/12/3(月) 午後 7:43
あげつらう→ささいな非などを取り立てて大げさに言うとあり、どうもネガティブな評価を前提にした言葉のようです。三上中尉も蹶起が世に支持されないという可能性を十分に感じていたということでしょう。さすれば、『蹶起の成否を論うことはしない。それは余人がやればよい』という世人の支持や憐憫を求めたものではない、と言う解釈になると思いますがどうでしょうか。。。
2007/12/9(日) 午後 3:23 [ 太郎ともも ]
bieさん、確かにそうですね。コメント上述のhiromichit1013氏も同様のご意見でした。ただ文法的に解釈すると‥‥とアホなことを言いはじめると墓穴を掘りそうですね。
2007/12/9(日) 午後 6:16