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大きな活字でご覧になるには こちら をクリックしてください。 今日が自衛隊初の海外派遣の日?(上)【20世紀のきょう】自衛隊が初の海外派遣(1991・4・26)「金は出しても汗をかかない」と非難され、「人を出す」国際貢献に踏み出した。湾岸危機で当時の小沢一郎自民党幹事長(現・民主党代表)は「現憲法下でも自衛隊の国連軍参加は可能」と見解を示し、92年、国連平和維持活動(PKO)協力法が成立、カンボジアPKOなどへの派遣につながった。 ( 『 産経新聞 』 4/26 ) 確かにこの記事は間違いではない。自衛隊が発足してから初めての海外派遣は、事実、記事にあるとおり1991年(平成3)にペルシャ湾に向けて自衛艦が出港したのが初めてだからである。だが、これは「自衛隊が」という言葉のまやかしであり、正確な記述ではない。なぜなら、戦後自衛隊が発足する以前、海上保安庁が米軍の要請により、朝鮮水域に海上保安庁の掃海艇を派遣していた事実があるからである。時はまさに「朝鮮戦争」の最中、敗戦の苦しみに喘いでいた我が国が、将来国際社会において、独立国として名誉ある地位を得るための苦渋の決断であった。 今回、『 派遣された特別掃海隊の困難 -朝鮮戦争に‘参戦’した日本人- 』という平間洋一・元防衛大学校教授の論文を要約し記事にしようと思ったが、その論文をあらためて読み返すと一言一句省略は出来ないと思った。すべてが欠くべからざる重要な内容なのである。従って、今回はその全文を書写し、読者の皆様に日本の隠れた近代史をご紹介したいと思う。 派遣された特別掃海隊の困難 - 朝鮮戦争に「参戦」した日本人 - (上)戦後日本の掃海隊に、突如命じられた朝鮮半島周辺水域の掃海作業。それは、紛れもなく「戦場へ赴く」ということを意味していた。 周囲からの反対と反発の中、「出動」した日本掃海隊の実情を追う。 伏せられた任務国連軍にとって、北朝鮮軍がソ連の援助で各地港湾に敷設していた機雷は、是が非でも排除しなければならなかった。朝鮮半島の東西海岸への上陸や、反抗に出た北進中の国連軍陸上部隊への補給維持のためにも、機雷排除は急がれていた。だが、米海軍は大部分の掃海艇を本国に引き揚げており、極東には6隻の掃海艇しかなく、そのうえ機雷戦を経験した士官も兵も不足していた。このとき、日本には第2次大戦中に敷設された機雷の排除を続けていた78隻の掃海艇と1500人の掃海隊員があり、その技量と経験は高く評価されていた。 元山港に多数の機雷が敷設されているのを知った米海軍は、この日本の掃海隊に目をつけ、海上保安庁長官大久保武雄に朝鮮水域に掃海艇を派出するように依頼した。1950年(昭和25)のことである。 大久保から報告を受けた総理の吉田茂は、拒否すればダレス特使との間で進めていた講和条約締結交渉に悪影響を与えると考え派遣に応じた。 総理の決断により各地から掃海艇が下関に集められ、指揮官には航路啓開部長田村久三(元海軍大佐、のち海上自衛隊海将)が指名され、特別掃海隊が編成された。だが、下関に集められた掃海隊員には、任務に関する真相は知らされていなかった。 下関に着いた隊員に「米第7艦隊司令官の指揮を受けること、船名および隊番号などは消去すること、日の丸の代わりに国際信号機E旗を揚げること」などが指示され、さらに機雷情報が説明されると、隊員の間には朝鮮戦争に参加させられるのではないかという不安が広がった。そして、「米海軍指揮官の指揮下に入るということは、朝鮮戦争に参加するのではないか。それは憲法違反ではないか」などの質問が続出した。 「行かされる者」にとっては平和憲法が成立し、世は平和ムードに溢れているときに、軍人でない単なる運輸省の事務官が、突然「出動命令」を受け戦争に参加せよと命ぜられたのである。 ある艇長は「戦争に巻き込まれる恐れが多分にある。危険性も高い。このような状況で部下を連れて行くことは出来ない』と荷物をまとめて船を下りた。しかし、先輩の指揮官から「理屈を抜きにして全体の士気のために自説を曲げてくれ」と口説かれ、「先輩にいわれると、いやといえない海軍の連帯感」から出動したという。 一方、朝鮮出動を伝え聞いた家族が、岸壁に横付けしている船から主人を捜し出し、「アンタ船を下りて。朝鮮には行かないで頂戴。掃海隊を辞めて家に帰って下さい」と涙ながらに訴え、戦争が終わったのにいまさら外国の戦争に参加することはないと口説いた。 終戦だというのに、また命を的に戦うのか。しかも外国のために、もうそんなことはやめにして貰いたいというのが、家族や隊員の偽らざる心情であり、突然第2掃海隊の司令を命じられた能勢省吾(元海軍中佐、海上自衛隊海将補、のち横須賀市議会議長)は「家族たちの気持ちが可哀相でならなかった」と回想している。 また、出動した多くの隊員の気持ちは「日本は新しく成立した憲法によって戦争を放棄したのだから、いまさら他国の戦争の為に危険な処に生命をさらしに行く理由はない。さらには我々はもう軍人ではなく、国家公務員であり事務官である。日本再建という使命だけを担って国内の掃海作業に従事して来たのである。外国の掃海をするために戦争に行くというのは納得致し兼ねる。しかし、占領軍の命令とあらば、日本政府としては従わざるを得ないのではないか」というのが出動を前にした心境であったという。 掃海作業の実状第2掃海隊司令を命じられた神戸航路啓開部長の能勢省吾は、4隻の掃海艇と3隻の巡視艇を率いて10月8日午前4時、田村総指揮官乗艇の「ゆうちどり」に続いて出港、対馬海峡で米海軍から作戦計画が渡されたが、それは「目的地は元山、全船舶直ちに無線封止、日没後は灯火管制、本艦に続行せよ」というものであった。 掃海隊は10月10日の早朝に元山沖に到着、翌日から船団泊地の掃海を開始した。しかし、10月12日に元山港に進入すると間もなく、韓国海軍の掃海艇2隻が隊員の目前で触雷沈没し、死者12名、負傷者92名(内1名はのちに死亡)を出した。 この掃海は一時中止されたが、上陸作戦の期日が迫っており、掃海は14日には再開された。しかし、17日に湾内に進んだ特務掃海艇MS14号艇が触雷、瞬時に沈没し中谷坂太郎が死亡、2名が重体、5名が重傷、11名が軽傷を受けた。この事態に各艇長は「戦争にこれ以上巻き込まれたくない。掃海を止めて帰るべきだ」「下関での説明とは話が違う。これ以上の掃海は断る」と掃海中止を主張した。 討議の結果、小型艇による日本式の小掃海を行なうことで各艇長の了解を得た能勢司令は、米海軍に提案した。しかし、上陸部隊指揮官スミス少将からは「小掃海を行なう時間的余裕はない。掃海を続行せよ。然らずんば日本に帰れ。15分以内に出なければ砲撃する(これは「雇用を解除=Off Hire」を「砲撃=Fire」と聞き違った可能性が高い)という強硬な回答が帰ってきた。能勢は再度艇長達を説得した。しかし各艇長の決意は固く、誰一人応じなかったため、撃たれては大変と、直ちに元山を後にした。そして米軍の強い非難を受け能勢以下各艇長は退職させられ「結果として実施部隊の者だけが責任をとらせられて闇に葬られてしまった」との手記を残して、能勢は海上保安庁を去った。 その後に派遣された部隊は、国連軍が占領した地域の掃海を行い、1隻が座礁沈没したほか大きな問題はなかった。しかし、掃海隊が使用していた船体は、戦時急造の貧弱な木造船であり、船体機関は戦後の日本周辺の連続掃海によって老朽化していて整備は困難を極めた。また掃海現場は冬季、季節風の吹き荒れる悪天候、極寒の日本海や黄海であり、参加隊員は補給不如意で水がなく、サイダーで米を炊くという筆舌に尽くし難い困難に遭遇した。 この掃海に参加したある隊員は、夜になると仮泊している艇に老人ばかりの小舟が近付いてきて「北朝鮮の兵隊が食料をみんな持って行ってしまった。赤ん坊に食べさせる粥もない。ランプもマッチもない。何もかもない」と訴えられたという。季節は12月、粉雪の降る中で老婆が荒海に潜り、貝や海草を採集してかろうじて家族の飢えをしのぐ姿を見てきた隊員は、窮状を見かねて灯油、米、コンデンス・ミルク、そしてマッチまで与えたといい、「昼は戦争、夜は難民救済、こんなことを出港前に想像が出来たであろうか」と回想している。 また、西海岸の海州に派遣された第1掃海隊司令の山上亀三雄(元海軍中佐、のち海上自衛隊海将補)は、「終戦以来5年間、長足に進歩せる技術に対して旧態依然たる、否それ以下の貧弱なる技術と施設で(中略)冬季厳寒の候に北朝方面外洋行動」をするのは「到底その任に耐えられんことは火を見るよりも明らか」と語り、「我々の能力があまりにも高く評価され、能力以上のことをやらされるのは極めて危険である」との所見を出した。しかし、任務から解放されることはなかった。 - (下)につづく - |
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昔フジテレビの報道2001で、朝鮮半島有事の際の自衛隊派遣問題を論じていた時、菅直人が、
「そもそも日本は前の朝鮮戦争に参加していないから、朝鮮半島有事は日本に関係ない」「自衛隊海外派遣ハンターイ」と得意気に語っていたのを思い出しました。
いつでも突っ込みドコロ満載の男です。
2008/4/26(土) 午後 0:14 [ ミリばん ]
professor shiratyさん。この話は何かで読みました。
確かにこの任務は全く隠密裏に行われたのですが、
この困難を極めた任務を遂行することで米軍の日本海軍に対する
信頼感が醸成されたといっても過言ではありません。
ここには書かれていませんがボクが読んだこれについての本には
はじめ見下すような態度であった米海軍が最後には
見る目が変わった様なことが書かれていたと思います。
傑作に◎!
2008/4/26(土) 午後 1:42 [ 太郎ともも ]
ミリばん様、この一件は現在でも公的には伏せられた事案なのです。もしくは占領下にあったことで、主権が行使できなかったいうのが日本の立場だと思います。菅直人は、都合によって事実を隠蔽したりします。けしからん奴ですね。
2008/4/26(土) 午後 2:49
Dr.bieさん、傑作どうもありがとうございます。アメリカ軍の反応は下巻に書かれてあります。こうした縁の下の力があって、今日の日本があるということをつくづく考えられますね。
2008/4/26(土) 午後 2:52
あの時から海外派遣の議論は時間が止まったままです・・・
小沢の「国連軍構想」も、自民の「恒久法」も、所詮は「湾岸対処方針の焼き直し」でしかありません。
2008/4/30(水) 午後 0:14 [ ぬくぬく ]
nukunukupower様、すべて特措法や解釈改憲で乗り切ろうとするところに無理があるのだと思います。やはり憲法改正、それしかないでしょう。
2008/4/30(水) 午後 0:17